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悩める夜に
年明け間もない冬の夜。
雪村千鶴は縁側に腰掛け、芯から凍えるような冷気にかじかむ手に息を吹きかけた。
ほんのわずかな温かさでは慰めにもならない厳しい寒さ。綿入れの羽織だけでは到底耐えられそうにない。
(温石も用意した方が良かったかも)
ふと、暗闇から近づく気配にはっと顔を上げると、闇の中から一人の男が現れた。
「こんばんは。こんな夜更けに外に居続けては風邪を引きますよ」
「山南さん、お散歩ですか?」
夜にしか動けない羅刹の身である山南は、時折こうして夜の闇にまぎれて屯所を散策している。
おかげで平隊士の間では夜な夜な山南総長の霊が彷徨っている、などという怪談話になっているのだが、彼はその噂を逆手に取るかのように夜の散歩を愉しんでいるらしい。
「君はここで何をしているのですか? 夜は冷えます。早く部屋に戻って休みなさい」
「でも、まだ永倉さんたちが戻って来られないのが気になって」
「まだ帰っていないのですね」
苦笑を滲ませる山南に、千鶴は「はい」と力なく頷く。
ことの始まりは暮れに突然齎された、孝明天皇の崩御の報せ。
京の町では年末年始の催しが自粛され、それに倣って新選組でも祝い事が中止となり、いつになく静かな正月を迎えた。
酒もご馳走も初日の出も、楽しみにしていた行事のすべてを取り上げられた状況に不満を募らせた永倉新八が、伊東甲子太郎の誘いに乗って、斎藤や三木三郎らと共に島原に出掛けたのが昨日のこと。
一日が過ぎ、二日目も終わろうというのに未だ彼らは帰らない。
「彼らも子供ではありません。放っておけばそのうち帰ってきますよ」
「はい・・・」
「何か他に心配ごとでも?」
千鶴は少し迷い、冷えきった指を膝の上で握った。
「最近、平助君が元気がないんです。平助君も斎藤さんも伊東さんと一緒にいることが増えて、その上永倉さんまでそうなったらって考えると、不安で・・・」
「なるほど」
斎藤と藤堂は千鶴が新選組預かりとなった当初から、何かと彼女を気に掛けていた。千鶴にとっても特に気安い相手だ。
そんな二人の心が新選組から離れつつあるのを、彼女も感じ取っているのだろう。
近藤派と伊東派の確執の深まりは、今や隠しようがないほど鮮明となりつつある。
(藤堂君が伊東派に与するのは少々意外でしたが)
斎藤の方は土方の命令で間者として伊東たちに近づいているのだが、それを千鶴に教えてやることはできない。
「しかし、永倉君が伊東さんに傾倒することはないでしょう。あの二人は相性が悪い」
「そうなんですか?」
「ええ。筋肉自慢の永倉君と風流を愛する伊東さんの話が合うとは、とても思えません」
「あ・・・」
千鶴の脳裏に、健康診断のときの騒動が甦る。確かに、相性の悪い二人だ。
「永倉君たちが帰ったら私が叱っておきますから、君はもう寝なさい」
少しは心が軽くなったのか、千鶴は素直に「はい」と頷いた。
立ち上がり、部屋に向かおうとして、ふと山南を振り返る。
「山南さんも風邪を引かないよう気をつけてくださいね」
「この私にそんなことを言うのは、君くらいでしょうね」
花のような笑顔を残し、今度こそ彼女は部屋に戻った。
それを見届けたあと、山南もまた暗闇の中に姿を消した。
■■■■■
永倉と斎藤が伊東らと島原に居続けて三日目の夜。
千鶴は縁側に腰掛け、冴え冴えと輝く月を見上げていた。
今夜はちゃんと温石を用意したので多少は暖が取れるとはいえ、京の寒さは身体にこたえる。
「昨夜、私が言った言葉をもう忘れましたか?」
かすかな足音を立て、闇の中から山南が現れた。
いつもの穏やかな微笑が、どこか苦笑めいている。
お説教が始まる前に、千鶴は頭を下げた。
「すみません、どうしても永倉さんにお伝えしないといけないことがあって」
「今日も帰って来なかったのですね、彼らは」
参謀や組長らが島原に行ったきり三日も帰らないとなると、土方もさぞ不機嫌になっていることだろう。
彼らの宴会の詳細は、あとで斎藤から聞くから良いとして、いつになく落ち着かない様子の千鶴の方が気になった。
「それで、何があったのですか?」
いつの間にか目の前まで近づいていた山南が、静かに隣に腰を下ろす。
少しだけ寒さが緩んだ気がするのは、彼の身体が風除けになってくれたからだ。
有無を言わせない眼差しに逆らうすべもなく、千鶴は事情を語った。
「実は――」
――それは昼間のこと。
今日は風があり、庭の落ち葉が次々と屯所の中に舞い込んできたため、千鶴はほうきと雑巾を手に掃除に取り掛かった。
そこに平助と原田が手伝いを申し出てくれて、三人でまずは廊下に点々と落ちる枯葉を掃いていた。
途中、永倉の部屋の前に来たときだった。
「新八っつぁん、まだ帰って来ないのかよ」
「伊東さんと呑む酒がそんなに美味いとは思えねえんだがな」
原田が苦笑しながらそう言ったとき、平助が何か考え込むように視線を泳がせた。
最近、彼はよくこんな表情をする。何か言いたげな、迷いのある顔だ。
どうしたの、と問おうとした千鶴は、不意に上がったぼすっという乾いた音に視線をそちらに向けた。
それは平助の手にあるほうきの柄が、永倉の部屋の障子戸を突き抜けた音だった。
「あ、やっべ」
「何やってんだ平助、この間障子張り替えたばかりだってのに」
屯所の障子戸は、暮れに隊士総出で一斉に張り替えたばかりだ。
せっかくの新しい障子戸に大きな穴がぽかりと開き、向こう側が見えている。
「新八っつぁん怒るだろうなあ」
「わざわざ障子戸全部張り替えるのも面倒だし、適当な紙で穴を塞ぐか」
「紙か・・・」
応急措置に使えそうな紙といっても、平助の自室に大量にあった瓦版などは先日の大掃除で処分したばかり。
「新八っつぁんの部屋に何かないかな」
永倉の部屋に入って押し入れを開けると、ばさばさっと大量の本やら紙やらがらくたやらが雪崩落ちてきた。
「ぶわっ」
「大丈夫? 平助君」
「ったく、新八の奴。土方さんに年末くらい部屋の大掃除をしろって言われて、押し入れに無理やり詰め込みやがったな」
「しかも何だよこれ。千鶴は見ちゃだめだぞ」
「え??」
二人は降ってきたそれらを千鶴の目から隠す。
大量の紙はあったが、そのほとんどにいかがわしい絵が描かれていたのだ。
「まさかこの春画を張り付けるわけにはいかねえし」
「ったりめえだろ!」
平助はいかがわしい紙の山をぐしゃぐしゃに丸め、押入れにぽいぽいと投げ入れた。
「補強に使える紙がないか、他の奴に聞いてみるか」
「あるよ。はいこれ」
「え?」
忽然と現れた沖田総司が、千鶴の頭の上に何やら軽いものを載せてきた。
それを見た原田が眉を顰める
「総司、これって・・・」
「子供たちと折り紙で遊んだときにもらった千代紙。捨てるに捨てられなくってどうしようかと思ってたんだよね」
「この部分だけ千代紙って、なんか変じゃねえか?」
「じゃあもっと穴を開ければいいよ」
言うや否や、ぼすっぼすっと指で障子に穴を開ける沖田。そのためらいのなさに、三人は咄嗟に止めることもできず、見守ってしまった。
あとには穴だらけになった障子の物悲しい姿。
仕方なく、平助と沖田に開けられた穴に千代紙をぺたぺたと貼ったものの――。
「・・・この部屋じゃ落ち着かねえな」
「そう? 楽しいじゃない」
ご満悦なのは沖田だけである。
原田も平助も千鶴も、一枚だけやたら派手派手しくなった障子戸を何ともいえない表情で見つめた。
「――ということがありまして」
「それはまた」
山南は笑いを堪えるのに苦労した。結局声が少し震えてしまい、失敗した。
「永倉さんがあの部屋を見てしまう前に、教えて差し上げたかったのですが」
今夜も彼らが帰る気配はない。
しょんぼり肩を落とす千鶴には悪いが、何も知らせずに反応を見たいという悪戯心が芽生える。
しかし山南はそれを覆い隠し、思慮深い大人の顔を作る。
「事情はわかりました。今夜永倉君が帰ってきたら、私の方から伝えておきますよ」
「すみません、山南さん。お願いします」
彼女が悪いわけではないのに申し訳なさそうに頭を下げ、千鶴は部屋に戻っていった。
それを見届けたあと、山南も腰を上げた。
(とりあえず、永倉君の部屋がどうなっているか見に行ってみましょうか)
心なしか弾む足取りで闇へと消える。
その後、二番組組長の部屋の周辺で忍び笑いが聞こえるという怪談話が、しばらくの間屯所を騒がせるのだった。
■■■■■
四日目の夜、千鶴の部屋の近くまで来た山南は、今夜は縁側に彼女がいないことに安堵して踵を返そうとしたものの、ふと何かに気付いて足を進めた。
部屋の前まで近づくと、内側から障子戸が開く。
鋭い視線を真っ直ぐに向けてくるのは、沖田だ。どうやらこちらの気配を敏感に察したらしい。
「なんだ、山南さんか」
「皆さんお揃いで何をしているのですか?」
見れば部屋の中には千鶴の他に原田や平助もいる。
こんな夜更けに若い娘の部屋に押しかけるなど、褒められる行為ではない。
「山南さん、こんばんは」
「今夜は外で帰りを待つような無茶をしてはいないようですね」
「はい。永倉さんも斎藤さんも、明日には帰って来てくださるって約束してくださいましたから」
聞けば、土方の命令で相馬や山崎らと共に島原に永倉たちの様子を探りに行っていたのだという。
そこで少し話をする機会があり、明日には屯所に戻るという約束を取り付けたらしい。
彼らは交わした約束を破ることはないはずだし、千鶴の心配ごとはなくなったと言っていい。
ならば、ここで彼らはいったい何をしているのか。
「そういえば、今日は随分と騒がしかったような気がしますが、何をやらかしたのです?」
「な、なんだよそれ。まるで俺らが悪いことしたような言い方だな」
「違いますか?」
「うぅ・・・」
平助の目が泳いでいる。やはりこの三人、何かやらかしたな。山南はそう確信した。
「話してくれますね?」
穏やかな口調ながら、それは問いかけではなく命令だと付き合いの長い面々はすぐに理解する。
やがて諦めたように、原田が口を開いた。
「実はよ――」
――それは夕刻のこと。
小姓三人組と監察方が任務の準備のため出かけたあと、原田は斎藤の部屋を訪ねていた。
「斎藤、いるか〜って、ああそうか。まだ島原に行ったきりだった」
相変わらず殺風景な部屋はしんと静まり返り、人の気配はない。
(どうにも調子狂うな)
毎日のように顔を合わせていた永倉や斎藤が屯所にいないことが、妙に味気ない。
物足りないというか、胸の奥に寒々しい風が吹いているような気分だ。
すると、どこからか悲鳴が聞こえた。――悲鳴?
きょろきょろと周囲を見渡していると、廊下の向こうから沖田がやって来た。
「左之さん、一君の部屋の前で何してるの?」
「斎藤に借りてた本を返しに来たんだよ。留守だってこと忘れてたぜ。ところで何か騒がしくないか?」
屯所のあちこちから、怒号や悲鳴や何かが壊れる音が聞こえてくる。
「屯所で飼育している豚や鶏が逃げ出したんだって」
「は? なんでだよ」
「さあね、食べられたくなかったんじゃない? 僕もさっき鶏を一羽捕まえて閉じ込めたところ」
豚や鶏は、松本良順の勧めで食用に飼育しているものだ。
しかし生き物の飼育に不慣れなせいで、よく脱走騒ぎが起きる。
今日も今日とて誰かがドジ踏んで逃がしてしまったようだ。
「じゃあ俺も捕り物に参加しなきゃな」
「左之さん、総司、そっちに行ったぞ!」
平助の声に振り返った二人の目に、必死に逃げ惑う豚の姿が飛び込んでくる。
突進してくるそれを反射的に避けた二人の後ろの斎藤の部屋は障子戸が開けられたままで、豚は勢いよく部屋に飛び込んだ。直後に上がる、何かが壊れるような音。
「「あ」」
「何やってんだよ二人とも! 捕まえてくれって!」
「おお、そうだった」
殺風景だった斎藤の部屋の畳には豚の足跡が一直線に残り、押入れのふすまは無残な状態となっていた。
豚は身体の前半分がふすまに突き刺さった状態で動けなくなり、短い手足をバタバタさせながら哀れな鳴き声を上げている。
「よし、これなら捕まえられそうだな」
部屋に駆け込んできた平助と協力し、縄で縛り上げる。
その間、沖田は腹を抱えて笑い転げていた。
「――とまあ、こんなことがあってよ」
「不運だったね。一君の部屋」
「他人事みたいに言うなよ」
話を聞き終えた山南は、思わずこめかみを押さえた。
言葉の通じない動物が起こした騒動では怒るに怒れないが、豚や鶏に翻弄される隊士たちのていたらくもどうなのか。
「それで、沖田君は何をしました?」
「え? 僕ですか?」
山南は千鶴が何か言いたげに沖田を見た瞬間を見逃さなかった。
そもそも豚が斎藤の部屋を荒らしただけなら、沖田はここにいないはずだ。
おそらく彼らは、明日の掃除の手伝いを彼女に頼んでいたのだろうから。
「僕はたまたま鶏が目の前に現れたので、捕まえて手近な部屋に放り込んだだけですけど」
「その部屋とは誰の部屋です?」
「多分、土方さん?」
「なるほど」
昼間は休んでいる山南が飛び起きてしまうほどの屯所の騒ぎ。
それはまさしく土方の怒号だったのだが、やはり原因はこの男か。
「私や相馬君たちが戻ってきた頃には捕獲されていましたが、障子戸がいくつか壊されて、土方さんの部屋は鳥の羽だらけになって、何人か怪我人も出ていました」
帰るなり怪我人の手当てに奔走したであろう千鶴と山崎には同情する。
すっかり夜が更けた時間では掃除もままならず、屯所の中は豚や鶏が暴れ回ったあとも生々しいのだろう。
「原田君と藤堂君は明日の朝から隊士たちと掃除しなさい。沖田君は土方君の説教をおとなしく聞くこと。いいですね?」
「はーい」
「わかってるって」
「昨日も掃除したのになあ・・・」
「私も、掃除がんばります。永倉さんの部屋はまた別の障子戸が壊されてしまったし、斎藤さんの部屋もめちゃくちゃで・・・。お二人が帰ってきたらどんなお気持ちになられるか」
けなげな千鶴の言葉に、山南の表情が和らぐ。
「雪村君が気に病むことはありませんよ。屯所にいない二人が悪いのです」
「そうそう、あの二人が屯所にいれば防げた災難だしね」
「お前が言うなよ総司」
土方さんが怒り狂ってるのは誰のせいだと思ってるんだ、と恨みがましげな平助の言葉にも沖田はそ知らぬ顔だ。
「ところで」
不意に、山南の声色が変わった。
原田や平助は思わず腰を浮かし、沖田も眉を上げて彼を見た。
「君達はこんな夜更けに若い娘の部屋に押しかけることがどれほど非常識なことか、わからないわけじゃないですよね?」
にっこりと微笑む顔が怖い。笑っているのに、纏う空気が重い。
「そ、そうだよな、もう休む時間だもんな!」
「おお、そうだな。明日も忙しいんだし、寝るとするか」
血相を変えて慌しく出て行く平助と原田に続き、沖田も「おやすみなさ〜い」と部屋を後にする。
あっという間に去っていく三人を呆気に取られて見送った千鶴は、静かに立ち上がる山南に笑顔を向けた。
「私も今日は休みます。話を聞いてくださってありがとうございました」
「いえ、こちらこそ楽しい時間を過ごせましたよ」
それは本心だ。この数日、千鶴のおかげで退屈しなかった。
とりあえず、これから屯所の被害状況を調べ、不機嫌絶頂にいるであろう副長に報告することとしよう。
その結果、永倉や沖田に怒りの矛先が向かうだろうが、それは彼らの責任である。
音もなく障子戸が閉じ、千鶴は部屋にひとりとなった。
明日は早起きして掃除しよう。
いそいそと布団を敷き、横になる。
明日にはようやく永倉と斎藤が帰ってくる。
やっといつもの日常が戻ってくるのだ。
――翌朝。
掃除が終わるどころか始まる前に屯所に戻ってきた永倉と斎藤が、自室の惨状にしばし絶句したのは言うまでもない。
〈了〉
23.1.5up
明けましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします。
山南さんと千鶴ちゃんの夜の逢瀬です。
色気はありません(笑)。
『天雲の抄』の元日が舞台です。
永倉さん、斎藤さん、土方さんごめんなさい・・・
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