|
戦場の花
夜風に揺らされた枝葉がざわざわと擦れ合う。
ひっそりと静まり返る夜の森の中では、虫の鳴く音がやけに大きく聞こえた。
空を見上げると、木々の合間から見える月は冴え冴えと輝き、細い下弦の光はまるで刃のよう。
地面を覆う落ち葉を踏みしめ、斎藤一は暗闇の中でも確かな足取りで木立を進む。
森を抜けた拓けた平地に構えられた会津軍の野営地には、血の匂いと苦痛に耐える呻き声が満ちていた。
兵士達の中に無傷な者はなく、誰もが疲労の色を隠せない。
そんな彼らの合間を、柔らかな色がくるくると駆け回っていた。
殺伐と濁りゆく空気を浄化するように清々しい一陣のそよ風が舞う様子に、向けられる視線はどれも柔らかく和んでいる。
洋装の兵士達の中、一人だけ淡い色合いの袴姿のその人物はよく目立つ。だからつい彼らも眼で追ってしまうのだ。
小柄な若衆は横たわる重傷者の傍で立ち止まると、その場に膝を付いて優しい声音で話しかけた。
「痛み止めのお薬です。飲んで下さい」
「ああ、ありがとう、雪村君・・・」
そっと頭を持ち上げられた兵士は、口元に宛がわれた湯のみの中の液体を啜る。
薬を溶け込ませたそれは美味しいとは言えないが、自分の身体に触れる小さな手の気遣いが胸に染みてほっとする。
薬を飲ませ終えると、次は隣に横たわる兵士の包帯を手際よく取り替える。
傷の具合を確かめようと注がれる真っ直ぐな瞳は、それがどんなに惨いものでも決して目を逸らすことはない。
弱く儚げな外見ながら、その芯の強さには感服する。
そうでなければ新選組の組長であった斎藤一の傍にはいられないだろうとは、今や誰もが納得していた。
現在、討幕軍との紛争の最前線にいるこの軍を纏め上げている人物こそ、斎藤一だ。
かつて京で会津藩が後ろ盾となって保護していた組織 “新選組”で一部隊を率いていた青年は、本隊が北上した後も会津の地に留まって藩士達と共に戦い続けている。
彼の会津藩への忠義に賛同した僅かな部下と、小さな小姓と共に。
斎藤の部下だけあって、新選組の者達は皆剣の腕もあり、優秀だ。
だが、雪村と呼ばれる小姓は違う。
戦う力など持たず、戦で生かせる知略も持たない、無力な子供。
親が医者ということで怪我人を手当てすることには慣れているし、そちらの知識はあるようだが、生きるか死ぬかの最前線であるここでは焼け石に水だ。
当初は足手まといにしかならない雪村の存在を疎む声もあった。
そんな声を抑えたのは、斎藤を始めとした新選組だ。
貴重な戦力である彼らが小姓の同行を強く望んだため、彼ら自身の手で守ることを前提として存在を許された。
何故そこまで戦場に似つかわしくない子供にこだわるのか。
小姓の存在が彼らの重石となり、軍全体の足を引っ張ることにもなりかねないというのに。
そんな懸念が色濃かったが、今ではこの軍の中に小姓を邪魔に思う者は誰一人としていない。
「あ、組長、ご無事で何よりです」
木立の向こうから近づいてくる人物に気付いた見張りの者が、その正体を視認するや声を上げる。
兵士に頷きを返し、陣営に入って来たのは斎藤だ。
全身を黒の洋装に包んでも尚、大量に浴びた血の色はそれと解る程で、実際にどれほど夥しい血が彼の周囲に流れたのか想像も付かない。
斎藤は夜になると陣を離れて単独行動することがよくある。
誰にも何も言わず、いつの間にか姿を消す彼に何処に行っていたのかと問う声がないのは、薄々と彼らも察しているからだろう。
すぐそこまで迫っていると思われた敵軍が、何者かの襲撃を受けて撤退していたことが何度もあったのだから。
夜襲を仕掛けるのなら自分達も共に戦うのに、と歯痒い思いをしている者も多いが、新選組の部下ですら置いてけぼりにされる中、斎藤に同行を許されているのは雪村だけだ。
斎藤と共に消えた後、彼と共に戻る時もあれば一足先に戻って来る事もあるが、毎回必ず同行しているようだ。
今夜もまた暫く前に斎藤と共に陣から姿を消していたが、雪村だけが先に戻るや疲れも見せずに怪我人の手当てに走り回っている。
鋭い瞳で陣の中を見回していた斎藤は、小さな後姿を見つけると強張っていた表情を緩めた。
安心しきった、家に帰ったかのように安らいだ表情。
滅多に感情を表すことのない男が、唯一の相手だけに見せる愛おしさに満ち溢れている。
やがて手当てを終えたのか、立ち上がった雪村は何かを探すようにきょろきょろと周囲を見回す。
その目線が斎藤の姿を捕らえると、嬉しそうな笑顔となって足早に彼の元に駆け寄った。
「斎藤さん、お帰りなさい」
「ただいま」
答える声音も、小姓を見る眼も包み込むように優しい。
ふと雪村は傍に転がっている桶を見つけると顔を綻ばせてそれを拾い上げた。どうやら探し物はそれのようだ。
「水を汲みに行って来ますね」
「共に行こう」
でも、と躊躇いを見せる雪村に「あんたを一人にはさせられん」と答えれば、それ以上の反論もなく二人は共に陣の外に出て行く。
そんな二人の後姿を、兵士達は微笑ましく見送っていた。
野営地からしばらく歩いた先に、小川が流れている。
手にした桶を浸して水を汲み上げた千鶴は、ふと隣に立つ斎藤を見上げて問いかけた。
「斎藤さん、よろしければ上着を洗いましょうか?」
「いや、どうせ明日にはまた汚れるのだから構わぬ。だが自分の身体くらいは洗うことにしよう」
「え?」
斎藤は上着を脱いで千鶴に預けると、その下の服も脱いで上半身裸となった。
真っ赤な顔で慌てて斎藤から視線を逸らす千鶴の傍に膝を付き、彼は脱いだ服を水に浸して絞り、それを手拭い代わりとして顔や身体を拭き始める。
「千鶴、どうした?」
「い、いえ・・・っ」
彼を見ないようにと顔を背けている千鶴に斎藤は不思議そうに問いかけてくるが、答えようのない千鶴はただぶんぶんと首を振るしかなかった。
顔や髪を拭った後の白い服が、星明りに照らされて酷く汚れたのが解る。
自分が斬った者達が流した血。
羅刹となった身には、狂気へと誘う麻薬。
しかしどれだけ多くの人間を斬っても、噴き出した血を浴びても、彼にとってもはや脅威とはなり得ない。
隣に視線をやると、思いっきり顔を背けて俯く小さな姿がある。
真っ白なうなじに対し、真っ赤に染まる耳。
苦しさに悶えていた時、その耳朶にぷくりと小さく溢れたほんの少しの血の雫が彼を狂気から救ってくれる。
血を求める衝動は、血を飲めば抑えられる。
だが彼にとって千鶴は守るべきもので、わずかな痛みも味わって欲しくない。
だからと言って、彼女以外から血を飲みたいとは思わない。
千鶴だからこそ、肉体的にも精神的にも救われるのだ。
“雪村君は同行させない方が良いのでは?”
会津藩士達と共に戦うようになって、何度も言われた言葉。
彼らの懸念も解る。
かつて京の町を隊を率いて巡察していた頃、父を探したいと同行を望む彼女に対して、気持ちは解るが安全な屯所でじっとしていて欲しいと思ったものだ。
壮絶な死闘の末に風間千景を倒し、彼女を狙う“鬼”という脅威が去った現在、戦場を連れ回すのは危険でしかない。千鶴の身の安全を考えれば遠い地に避難させるべきなのだろう。
だが、彼にはもう千鶴を手放すことはできない。
彼女の存在があるからこそ、羅刹の毒に狂うことなく戦える。
彼女の傍でならば、戦で疲れきった心と身体を休めることができる。
(結局、守られているのは俺の方かも知れぬな)
自嘲気味に心の中で呟きつつ、斎藤は千鶴に声を掛ける。
「千鶴、上着を」
「あ! はいっ」
ぎゅっと斎藤の上着を抱きしめていたことに気付き、千鶴は咄嗟に後ろを振り返った。
途端に目の前に斎藤の鍛え上げられた肉体が現れ、ぼんっと音が聞こえそうなほど顔を真っ赤に染め上げる。
上着を受け取った斎藤は素肌の上に直接それを羽織り、洗い終えた服を千鶴に渡した。
「済まないが、干しておいてくれ」
「は・・・はい・・・」
おずおずと差し出された手に濡れた服を手渡し、自身は水を張った桶を持ち上げる。
「陣に戻るぞ」
「はい・・・」
促されて立ち上がると、傍で自分を見下ろす斎藤と目が合った。
湿りを帯びた髪が月の光を浴びてキラキラと輝いているようにも見える。
「風邪、引かないで下さいね?」
「ああ」
少し身を屈め、触れるだけの口付けが落とされる。
それはすぐに千鶴から離れ、代わりに絡まるのは互いの指。
「行こう」
手を繋いだまま斎藤の後ろを歩きながら、千鶴は熱を持った頬に濡れた服を押し付けた。
服と夜風の冷たさに、少しでも頬の熱が冷めてくれればと願いながら。
■■■■■
陣営を離れる斎藤と雪村の後姿が夜の闇の中に消えた頃。
二人を見送っていた見張りの兵士は、共に見張りとして並び立つ兵士に声を掛けられる。
「あの二人を見ていると、心が和むな」
当初は雪村の同行をよく思っていなかった会津藩士である同志の言葉に、新選組の頃から斎藤の部下として剣を振るってきた兵士はにやりと笑う。
「随分意見を変えたものだ」
「そう言うな。我々が良く思わなかったのも仕方のないことだろう」
彼の言い分も理解できる為、それ以上藩士をからかおうとは思わなかった。
そして彼は独り言のように、呟きを落とす。
「雪村君は、俺達が忘れがちなことを思い出させてくれる」
共に戦い続ける日々の中、斎藤を始め新選組の兵士達が何の力も持たない小姓を守る様子を見ていると、自然と彼らの心境にも様々な変化が生まれた。
暗い絶望しか齎さない不利な戦場の最前線で、唯一つ柔らかな光を放つ一輪の花を思わせる雪村千鶴の存在は、彼らが守るべきものたちの象徴だ。
「家族、友人、大切な人達が生きる場所を守るために俺達は命を懸けている」
戦の中で見失いがちになる、自分達が戦う理由。
今、会津では誰もが戦っている。
前線にいる自分達のような兵士はもちろんのこと、その帰りを待つ家族も、女も子供も、皆一丸となって 新政府軍の圧倒的な力に圧されても尚、誇りを失うまいと。
戦う力を持たなくとも、自分の出来る事を見つけて力を尽くそうとする雪村の姿は、そんな人達の姿そのものだ。
だからこそ、守らなければならない。
だが、新しく仲間となった彼らが知らない、新選組だけの秘密もあった。
それは 斎藤一が“羅刹”であること。
常に斎藤の部下として付き従ってきた彼は、斎藤が羅刹となった経緯を知る。
羅刹だからこそ、彼はどんな危険な戦でも鬼神のような戦いができる。
そんな彼を狂気から救えるのは、雪村千鶴しかいない。
彼女を失えば、きっと斎藤は“人”ではいられなくなるだろう。
「ところで・・・」
ふと、思い出したように話題が変わった。
「雪村君はやはり女性か?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや」
不自然な長い沈黙の後、そっと眼を逸らして否定してみる。
わざとらしいだろうか、と内心で冷や汗を流していたが、幸いにもそれを指摘されることはなく「そうか」と相手は納得してくれた。
「新選組に女性がいるわけがなかったな」
「ああ」
「斎藤殿は求婚されたのだろうか」
「まだだ」
「そうか」
その後、二人の間に落ちた沈黙の中、自分の失言に気付いた時には誤魔化すことも否定することも無意味なほど時間が経過していた。
そして組長と小姓が仲睦まじく手を繋いで戻ってきた上、可憐に頬を染めた小姓の様子に、もはや隠すのも馬鹿馬鹿しいと諦めたのは言うまでもない。
〈了〉
12.2.20up
斎藤さんの部下なだけあって天然ボケ。
千鶴ちゃんの性別はもうバレバレです(笑)。
|