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屯所怪奇録
じめじめした梅雨がようやく明けると、厳しい暑さの夏がやってきた。
蒸せ返るような熱気に包まれる京の夏は、江戸から来た者達には辛い暑さだ。木陰すら逃げ場とならないのだから。
まだ比較的涼しい朝のうちに雑用を終わらせた千鶴は、山崎の部屋で帳面と向き合いながら額に滲む汗を拭った。
簾のお陰で照りつける日差しは遮られているが、うだるような暑さはまったく衰えない。
「今日も暑いですね・・・」
最近では聞かない日のない言葉を思わず呟いてしまうと、山崎もうんざりした顔で頷いた。
「屯所内でも暑気あたりで体調を崩す隊士が続出しているようだな」
「そうですね。昼間は部屋に篭っている羅刹隊の皆さんは特に辛そうです」
「こればかりはどうしようもないからな。夏が過ぎるまで耐えてもらうしかあるまい」
昼間は外に出られず、井戸で行水することも水辺で涼むこともできない羅刹隊士は、蒸し暑い室内でひたすら耐えるしかない。
夏以外の季節なら寝ていればいい話だが、酷暑の中では眠れるはずもなく疲労ばかりが蓄積してゆく。
万が一にも腹を下して厠の住人にならないよう身体が冷える食べ物は与えられず、
少しでも室内の風通しを良くしてやりたくとも、一般隊士が間違って部屋に入る恐れがあるから閉め切るしかない。
せめてもの慰めになればと水を張った盥を置いてあるが、こうも蒸し暑いと濡らした手拭いもすぐに熱を持ち、団扇で扇いでもぬるい風しか起こせずに却って不快な気分になってしまうだろう。
「山南さんは大丈夫でしょうか」
「あの方ならきっと乗り切れると言いたいが、先日藤堂組長が山南さんの部屋からくぐもった忍び笑いを聞いたらしい」
「え」
「日没には早い時間だったから、おそらく暑さで眠れずにいたのだろう。何故笑っていたのかは、怖くて確認できなかったそうだ」
「・・・・・・」
なにそれこわい。
口をついて出かけた言葉を、千鶴は喉の奥に飲み込んだ。
き、きっと誰かと話していたか、面白い本でも読んでいたのだろう。
そう自分を納得させ、不穏な予感を振り払った。
――そんな千鶴の願いも虚しく、山南の部屋では今まさに不穏な空気が漂っていた。
薄闇に、きらりと光る丸い眼鏡の奥の鋭い目が、“ある物”を凝視したまま二度、三度と瞬く。
(これはいったい何でしょう?)
目の前にあるのは、薬と思しき液体の入った試験管が数本。色から見るに変若水ではなさそうだ。
では何なのかと問われても、返せる答えがない。
というのも、連日の猛暑のせいで最近の記憶が途切れがちだからだ。
そして気が付けば、部屋の中には用途の知れないものが増えていた。
山南は顎に手をやり、う〜んと唸った。
これらが己が作り出したものなのは確かだ。
朦朧とした意識の中で、手だけは黙々と作業していた記憶がある。
だが自分が何を作ったのかがさっぱり解らない。解らないが故に、気になる。
(永倉君の酒に混ぜてみるか、藤堂君なら頼めば飲んでくれるでしょうか)
いや、しかしこれは飲み薬なのか?
うっかり組長を殺してしまったら新選組にとって大きな痛手だ。ここは自分で飲むべきか。だが自分が死んでしまっては元も子もない。
(どんな効果があるか知りたいのは山々ですが、処分した方がいいのかも知れませんね)
誰かで実験したいという思いを必死に堪え、試験管に手を伸ばす。
そのとき、部屋の向こうから誰かが近づいてくる気配を感じた。
「山南さん、ちょっといい?」
「沖田君ですか、どうぞ」
障子戸を開けた沖田はむわりとした熱気に顔を顰め、遠慮なくスパーンと開け放った。
沖田がそこに仁王立ちしているなら一般隊士は恐れて近寄らないだろうと、山南は彼の行為を黙認する。
「平助が山南さんの様子がおかしいって騒いでたんで様子を見に来たんですけど、この部屋に閉じこもってたんじゃおかしくもなりますね」
様子を見に来た、という言葉に山南は苦笑を浮かべる。
自分が血に狂ったとき、殺しに来るのはきっと彼か斎藤のどちらかだろう。
「ごらんの通り、あまり眠れない日が続いていましてね。自分でもよくわからない薬を作っていたようです」
「それ何の薬? 例のアレじゃありませんよね」
「それがわからないので、捨てようとしているところなんですよ」
「ふうん、捨てるならちょっと混ぜてみてもいいですか?」
「混ぜる?」
「うん。この液体が全部混ざったらどんな色になるか見てみたいし」
試験管の中の液体はすべて色が違う。青やら黄色、緑に茶色。
その中で桃色の試験管を手に取った沖田は、「千鶴ちゃんみたいで美味しそう」と呟いた。
「混ぜるのは構いませんが、特に面白い色にはならないと思いますよ」
「単なる好奇心ですよ」
言いながら沖田はきらきらと目を輝かせ、興味深々といった面持ちで謎の薬を見ている。
山南が使っていない硝子の容器を取り出すと、彼は嬉々としてその中に薬を流し入れた。
(得体の知れないものは誰かに飲ませたくなる私と違い、沖田君は混ぜてみたくなるんですね)
微笑ましく沖田の実験を眺めていると、すべての薬が混ざり合ったその瞬間、ぼわんっ、と爆発が起きた。
「「え?」」
予想もしていなかった事態に呆気に取られる二人。
もうもうと立ち上る煙を吸わないよう袖口で鼻や口を押さえながら周囲を見渡すと、開け放たれた出口から次々と煙が漏れ出していくのが見えた。
そうして煙は瞬く間に屯所中に広がった。
■■■■■
「総司、何をした?」
氷の如く冷たい眼差しにこもる静かな殺気に、名指しされた当人は叱られた子供のように唇を尖らせた。
「どうして僕が原因だって決め付けるのさ?」
「違うのか?」
「違わないけど」
ぐっと拳を握りしめ、斎藤は刀に手を掛けたくなる衝動を耐えた。
抜いたところで、この男にはあっさりかわされるだろう。こんなことで無駄に体力を消耗したくない。
ただでさえこの騒動で疲れ果てているのだから。
突然発生した正体不明の煙は、屯所中を大混乱に落とし入れた。
すわ敵襲か天変地異かと上へ下への大騒ぎとなり、煙で周りの様子がよく見えないせいで柱やら人にぶつかって怪我をする者多数。
その煽りでそこら中で襖や障子が破れ、厨では次々に皿が割れた。料理の支度中でなかったのだけが救いだ。
何より問題なのは、その後だ――。
煙の発生現場である山南の部屋では現在、土方と斎藤と平助が元凶と思わしき沖田と山南が逃げ出さないよう取り囲んでいた。
別に見張ってなくても逃げたりしないのに、と沖田は思ったが、土方と斎藤の表情を見て何となく口に出せなかった。
しばらくして、屯所内の被害を調べていた原田と永倉、隊士達の様子を診て回っていた山崎と千鶴も山南の部屋にやってきた。
面子が揃うと、厳しい顔で黙っていた土方が口を開いた。
「こりゃいったいどういうことだ、山南さんに総司」
形の良い眉がピクピクと震え、彼の怒りが爆発寸前なのが見てとれる。
自分達が怒られているわけではないのに、傍観者達は居た堪れない気分になった。むしろ平気な顔をしているのが怒られてる二人というのが腑に落ちない。
「ですから、わざとじゃないんですって。山南さんが作った妙な薬を混ぜたら爆発しただけなんですから」
まるで“ちょっと料理失敗しちゃったー”と言うような軽い口調で事情を語られた。
土方は頭痛を耐えるようにこめかみを押さえながら、山南に問う。
「で、いったい何の薬を作ったんだ?」
「そうですね、先程の爆発のおかげで何となく思い出したのですが、連日の猛暑のせいでどうやら私は相当参っていたようなのです」
「「「「「・・・・・・・・・・・・」」」」」
確かに羅刹隊の置かれた状況は相当過酷なため、誰も何も言えなくなった。
つまり暑さの中で無意識のうちに造りだされた偶然の産物ということか。
「そこで現状をどうにかしたいと考えていたとき、以前山崎君や雪村君が話していたことを思い出しました」
「え?」
何故ここで自分達の名前が、と山崎と千鶴は思わず目を瞠った。
「薬とは用法や容量によっては毒になる。毒もまた扱い方によっては薬になる、と言っていたでしょう?」
「それは、確かにそう言いましたが」
それとこれとにどんな関わりが?
「例えば人間の自我を崩壊させてしまう阿片も、少量ならば医者が手術の際に麻酔として使用することもある。痛みや苦しみを緩和させる作用があるのです」
「つまり何が言いたいんだ、あんたは」
「もしかして山南さんは、暑さを緩和できるものを作ろうとしていたのですか?」
恐る恐る口を挟んだのは千鶴だ。
山南はよくできましたとばかりに、にっこり笑った。
「そういうことでしょうね」
「そういうこと、じゃねえだろ! 屯所が大混乱で余計に暑苦しくなってるじゃねえか!」
「大いなる挑戦に犠牲は付き物ですよ」
「それで隊士達が犠牲になったわけかよ!」
土方の怒りが怖くて黙っていた平助や永倉も、突っ込まずにはいられなかった。
「心配しなくても二度と同じ薬は作れませんよ。何をどう調合したのかも憶えていないのですから」
「こんな騒動を何度も起こされてたまるか!」
叫んだあと、土方は大きくため息を吐いた。
結果としてこんな事態にはなったが、山南の研究を一概に叱ることはできない。自分や羅刹隊を苦境から救うためにしたことなのだから。
それは他の面々も同じなのか、もう山南を責める声はない。
だからといって事態が好転するわけではないが。
「それで、山南さんは薬に何を混ぜやがったんだ?」
「とりあえず、ワライタケは間違いなく入ってるよね」
「屯所中で笑い声が響いてるな。これ夜中だったら不気味だよな」
「昼間でも気味悪いって。何かの呪いみたいだ」
煙が晴れたあとも混乱は続いた。
運悪く煙を吸い込んだ者達が次々と奇妙な状態に陥ったのだ。
眠りこけ、呼びかけても叩いても起きない者、くしゃみが止まらなくなった者、酩酊状態な者。
症状はいくつかあれど特に多いのが、笑いが止まらない者、だ。
今もあちらこちらで、ヒ〜ッヒッヒッヒやらウヒャヒャヒャヒャやらオーッホッホッホと高らかに笑う声が聞こえてくる。
笑い転げるうちに陽気な気分になったのか、褌一丁で踊りだす者まで現れ、騒がしいことこの上ない。
当然巡察など出られるわけがなく、彼らが元に戻るまでは無事だった隊士達だけで行かなければならないだろう。
「どうにかできるか、お前ら」
問われて、山崎も千鶴も首を振る。
薬の成分がわからない以上、毒が抜けるまで放っておくしかない。幸い命に別状はなさそうだし。
そう答えると、組長達は揃って肩を落とした。
その後も笑い声は一晩中止むことはなく、西本願寺周辺一帯を恐怖のどん底に落とした。
翌日には無事に元に戻ったものの、しばらくの間、京の人々の間で呪いだの妖怪だのの噂が絶えることはなかった。
これは、とある夏の日の怪奇話である。
〈了〉
18.6.10up
山南さんが原因で騒動を起こしてみたかっただけです(笑)。
『遊戯録弐』で羅刹隊は夏でも密室の中で
我慢しなければならないという記述があったので、
山南さんなら何とかしようとしたのかなと思いまして。
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