狂ウ獣 後編





たった今、最後の一文字を書き記した書面から筆を上げた土方は、詰めていた息を吐いた。
ざっと文面を見渡して不備がないことを確かめると、ようやく一段落着いたことを実感する。

ふと喉の渇きを覚えた時、小さな足音が近づいてくるのを耳に捕らえた。
音は土方の部屋の前で止まり、障子戸の向こうから控えめな声が聞こえてくる。

「土方さん、雪村です。お茶をお持ちしました」

「入れ」

調度良いところに来たな、と知らず知らず笑みが浮かんだ。
彼女が茶を淹れて来てくれるようになって随分経つが、いつも計ったかのように絶妙な間合だ。

「失礼します」と部屋に入ってきた千鶴から湯呑みを受け取り、土方好みに淹れられた茶で喉を潤す。
一連の動作を、少女は大きな瞳を不安げに揺らしながらじっと見ていた。
あまりに思い詰めた表情に、何かおかしなものでも入れやがったのか、などと疑問に思ったが、茶は至って普通の茶だ。匂いも味も相変わらず土方好みで不振な要素はない。
ならば、問題は娘自身のことか。

「千鶴、言いたいことがあるならさっさと言いやがれ」

「え?」

「さっきからちらちらと、仔犬のような眼を向けられてると気が散って仕方ねえんだよ」

「あの・・・えっと・・・その・・・」

土方に促され、何とか話をしようとする千鶴だが、出てくるのは戸惑いの声ばかり。
段々と苛立ちが浮かぶ土方の顔が見られず、千鶴は俯いた。

伝えたいことは確かにあるのに、説明しようにも相応しい言葉が出てこない。
抱えたものがあまりにも重大過ぎて、だが打ち明けるには信じるに足る確証を持たない。

早く伝えなければ、という思いと、正体不明の子供から聞いた、事実かどうかも解らない話で多忙な彼を煩わせて良いのだろうか、という葛藤が彼女を苛む。

「や、やっぱり何もありません。失礼します」

「おい?」

土方が引き止める間もなく、千鶴は弾かれるように部屋を飛び出していった。
しかし、部屋を出て幾許も行かないうちに、正面から現れた人物に衝突してしまう。

「きゃっ」

「っ!」

勢い良くぶつかってきた少女の身体を、力強い腕が揺るぐこと無く受け止めた。
慌てて顔を上げると、珍しく驚きを浮かべた斎藤の顔が間近にあった。

「ごめんなさい、斎藤さん!」

「雪村?」

謝罪とともに深く頭を下げ、そそくさと駆け去って行く千鶴の背を見送っていると、彼女が出てきた部屋の障子戸が開いて土方が顔を覗かせる。

「斎藤、急ぎの用事か?」

「いえ、ただ今日の稽古についての報告を」

「重要なものじゃないなら、千鶴の話を聞いてやって来い」

「雪村の話を、ですか?」

「ったく、心配事抱えてんのが見え見えなんだよ、あいつは」

土方の言葉に斎藤は彼に一礼した後踵を返し、千鶴の後を追う。
心なしかいつもより早足で進むその足取りに、彼もまた少女を気に掛けているのが見て取れた。



土方の部屋を飛び出した後、千鶴は自室の前の濡れ縁に腰掛け、上がった息を整えていた。

「ど、どうしよう・・・」

結局、土方に話せなかった。
こうしている間にも、どこかで誰かの血が流れ続けているかも知れないのに。

「誰に何と言えばいいの・・・?」

「何をだ?」

苦しげに搾り出された呟きに、突如問いが降り落ちてくる。

「さ、斎藤さん!?」

びくりと肩を竦ませ、恐る恐る振り向くと、すぐ傍に斎藤が立っていた。
いつからそこに居たのだろうか。

思いがけない人物の出現に混乱する千鶴の隣に斎藤は無言のまま腰掛け、真っ直ぐに彼女と眼を合わせる。

「何があった」

端的な問い。しかし彼の強い視線は彼女に逃げることも誤魔化すことも許さない。

「あの・・・」

続く言葉に迷う。
しかし、これは千鶴に与えられた二度目の好機と言えた。
土方には上手く伝えられなかったが、斎藤になら打ち明けられるかも知れない。
千鶴の拙い言葉も、しっかりと受け止めてもらえるかも知れない。

「その、とても困っている子がいるんです」

「お前が見たという子供のことか?」

斎藤の言葉に千鶴の目が丸くなる。

やはりあのことをずっと気にしていたのか、と斎藤は内心で呟く。
彼女の様子がおかしくなったのは、昨日の巡察の時からだ。
その原因といえば、あの不可解な出来事に他ならない。

斎藤の目には映らなかった“子供”の姿。
それが何かを伝えて来たのだろう、と問えば、少女のあどけない顔が驚愕に彩られる。

「信じて、くれるんですか?」

「それはお前の話を聞いてから判断する」

常と変わらず平淡な口調ながら、決して千鶴の言葉を否定しない。
それがとても心強く感じられる。

意を決し、千鶴は“こたろう”から聞いた話を斎藤に語った。


「つまり、羅刹が暴れているかも知れない、ということか」

話を聞き終えた斎藤は、確認するようにそう言った。

「本当に羅刹なのかは解りませんが、もしあの子の言葉が事実ならどこかでたくさんの人が死んでいるかも知れない、それはもっと広がるかも知れないって心配で・・・」

考え込む斎藤の表情の厳しさに、言葉は尻すぼみになっていく。
やはり信用できないだろうか、と肩を落とす。

「信じられないですよね、こんな確証のない話・・・」

「雪村、俺にはあんたの言う子供の姿は見えなかった。   だが」

一旦言葉を切り、千鶴と目を合わせた斎藤の口から、意外な言葉が紡がれる。


「仔狐は見た」





■■■■■





『うん、おいら、狐の妖(あやかし)だよ』


斎藤から聞かされた言葉に絶句し、呆然としている間に千鶴は彼に連れられて西本願寺を出ていた。
“こたろう”が境内に入れないことを知った斎藤に、ならば外でその子供と会おうと促されたからだ。

西本願寺の敷地を出れば、“こたろう”はすぐに千鶴を見つけて駆け寄ってきた。
千鶴の目には小さな子供に映るその姿は、斎藤の目には仔狐と映っていることも確認でき、それを“こたろう”に問えば、子供はあっさりと自分が狐であることを明かしたのだ。

『普通の人間にはおいらの姿は狐にしか映らないんだ。お姉ちゃんは人じゃないから、おいらの言葉も通じるし、人型の姿も見えるんだよ』

“こたろう”の説明に、自分が普通の人間ではない事実を改めて思い知らされる。


「よう、斎藤に千鶴ちゃんじゃねえか」

不意に、聞き覚えのある声が二人の名を呼んだ。
視線を向けると、通り道の向こうからこちらに近づいてくる浅葱色の集団が見えた。

「永倉さん、お疲れ様です」

集団を率いる人物の名を呼べば、彼は部下に屯所に戻るよう指示し、千鶴達の方に歩み寄る。

「二人でこんな所で何してるんだ?」

「新八、巡察帰りのところすまないが、土方さんを呼んで来てもらえるか」

不思議そうに首を傾げた永倉だが、斎藤から感じられる真剣さに「わかった」とだけ返し、屯所の中へと消えた。



ややあって、永倉と共に土方や沖田、平助に原田が続々と集まってきた。

「あれ? その仔狐、さっきの饅頭屋でお前の傍にいたやつだよな」

千鶴の傍に佇む“こたろう”に真っ先に気付いて声を上げたのは平助だ。
彼も“こたろう”を仔狐として視認していたようだ。

「で、何か話があるんだろう?」

土方の問いに「はい」と応え、斎藤は千鶴から聞いた話を解りやすく簡潔にまとめ、土方達に報告した。


「へえ〜、こいつ狐の妖怪なのか〜」

「どう見ても仔狐だよなあ。尻尾も割れてないし」

好奇心に満ちた目でしげしげと“こたろう”を眺めながら、平助と永倉が言う。

狐の妖怪といえば真っ先に思い浮かぶのが九尾の狐だ。
そこまでの大物でなくとも、妖狐とは尾が割れているものだと思っていた。

『おいら、まだ半人前で立派な妖狐になるために修行してる最中なんだよ』

「ふ〜ん、狐の世界にも色々あるんだなあ」

千鶴の通訳でそんな会話が交わされるのを呆れた眼で見ていた土方は、やがて疲れたように長い溜息をつく。

「てめえら暢気な会話してんじゃねえよ。それより、本当に羅刹が暴れてるのか確かめる必要があんだろが」

それもそうだ、と平助と永倉は口を噤む。
代わりに口を開いたのは沖田だ。

「それで、どうするんですか、土方さん」

「事実なら何とかしなきゃならねえだろ。とはいえ、俺達全員が動くわけにもいかねえし、どうしたもんか・・・」

「俺が行きます」

「俺も!」

思案する土方にまず斎藤が名乗りを挙げ、平助もそれに続いた。
だが、彼に向けられた土方の視線は鋭かった。

「平助、てめえは明日昼の巡察があるだろうが」

「俺も夜の巡察があるから無理か・・・」

消沈する平助の隣で、原田が残念そうに肩を竦める。
残るは沖田と永倉だが。

「総司、お前は当然駄目だ。大人しく寝てろ」

「そう言われると思いましたよ」

ふてくされたように零しながらも、沖田は己の体調が羅刹と戦うために長い道程を歩き続けられるものではないという自覚を持っているのか、あえて土方に逆らおうとはしなかった。

「じゃあ斎藤と新八、お前らが行って来てくれ」

「御意」

「おう」

そして土方の視線は不安げに佇む千鶴に向けられる。

「その仔狐と意思の疎通ができるのはお前だけだ。だからお前にも行ってもらうことになるが、絶対に無茶するんじゃねえぞ。常に斎藤か新八の傍から離れるな」

「はいっ」


そうして、千鶴は斎藤と永倉と共に夕暮れの京の町を歩みだす。

三人の先頭を行くのは小さな仔狐。
皆を助けられるかも知れないという希望を抱き、傷だらけの足で彼は懸命に駆けた。





■■■■■





日が落ちた山道は深い暗闇に閉ざされていた。

“こたろう”が灯してくれた狐火が無ければ、千鶴は足を踏み出すのを何度躊躇っただろう。
前を行く斎藤の先導と、後ろにつく永倉の手助けがあるからこそ、彼女は安心して山道を進むことができた。


しばらく山道を進んでいると、ふと斎藤が低く呟きを落とした。

「血の匂いがするな」

「ああ、嫌な気配だ」

永倉も応じ、二人の間に緊張感が高まるのを感じ取った千鶴も密かに気を引き締める。

慎重に歩を進める中、前を行く斉藤が足を止めた。

「斎藤さん?」

不思議そうに名を呼ぶ千鶴に、斉藤が鋭く言った。

「眼を綴じていろ」

「え?」

「俺が手を引く。だからあんたは目を綴じろ」

有無を言わせない口調に、千鶴は戸惑いながらも手を斉藤に預けて目を綴じる。
そうして再び歩き出し、永倉は斉藤の言葉の真意を悟る。

彼らが進む先には、木々の合間から差し込む月の光が、山道に横たわる人や動物の死体を照らし出していた。


山道を奥へと分け入るうちに、獣の唸り声が耳に届くようになった。
道端に転がる死体の数も増えていく。
もうすぐ目的地か、と斎藤と永倉の刀の柄を握る手に力が篭る。

予想していたよりも遠い距離を詰めた先に、青白く光を放つ一角が見えた。
千鶴達の足元を照らす光と同じもの。それは大量の狐火だ。

『あそこだ! 良かった、全滅してない・・・』

“こたろう”の切羽詰った声に、少しの安堵が混じる。

「何だありゃ? 狐だらけじゃねえか!」

思わず漏らされた素っ頓狂な叫び。

永倉が驚くのも無理は無かった。
狐火に照らされたその空間では、大勢の狐達が暴れていたのだ。

いや、正確には暴れているのは中央に集まる何匹かで、周囲を取り囲む狐達は中央を見据えたまま微動だにしない。
いったいどういう状況なのだろうか。


『中央の狐達は狂った奴らだ。周りの狐達はそいつらを抑えてる』

“こたろう”によると、最初に狂ったのは一匹だけだった。
だが、狂った狐を止めようとした狐達が、次々と同じ状態になったのだと言う。
手を出すことができないと悟った狐達は、その妖力によって狂ったもの達を結界の中に閉じ込めた。
それが、今の状態となっている。

『だけど、皆疲れてる。妖力が尽きたら終わりなんだ』

そこまで言った後、“こたろう”は千鶴達を見上げた。

『お願い、皆を助けて!』

懇願する“こたろう”の言葉を千鶴が伝えると、斉藤と永倉は刀を抜いた。

「あれが羅刹なら殺すしかない。それでも良いのだな?」

『このままじゃ、皆が死んじゃうから・・・』

仕方ない、と頷く“こたろう”の小さな身体が震える。
悔しげに歯を食いしばる姿は、酷く痛々しい。

「雪村、あんたはここで待て」

「はい」

千鶴が頷くのを確認し、斉藤と永倉は狐火の方に踏み出した。

並び座る狐達の間を抜けると、何かを通り抜けたような感覚を覚える。
周囲の空気が濃密なものとなり、結界の中に入ったのだと肌で感じた。

結界の中に入ってきた人間に気付き、狐達が一斉に斉藤と永倉を見た。
狂気に満ちた紅い瞳が、新たな獲物の出現に興奮したように煌く。

「羅刹、だな」

「ああ」

以前、山南が変若水の実験をした動物達と全く同じ状態だ。

白かったはずの毛に付着する夥しいほどの赤。
彼らの足元に横たわる狐の死骸からは大量の血が失せているのも見えた。

結界が解かれれば、自由になった彼らは仲間の狐達の血を啜った後、人里に降りて人間を襲うようになるのは目に見えている。
そうなる前に、今ここで全滅させなければならない。

殺気を漲らせながら飛び掛ってくる狂う獣達の目の前を、鋭い刃の軌跡が閃いた。





人間以外に動くものがいなくなった頃、結界が解かれた。
濃密だった空気が、夜の冷たい風に吹かれて霧散していく。

「斎藤さん、永倉さん!」

二人に駆け寄った千鶴は素早く視線を走らせ、彼らに怪我がないのを確認すると安堵の息をつく。
そして、息絶えた狐達を見ると、痛ましげに瞳を曇らせた。

そんな三人の傍に、“こたろう”が歩み寄る。

『皆を助けてくれてありがとう』

泣きそうに歪んだ笑顔でそう言って、深く頭を下げた。
見渡せば、周囲を囲む狐達もまた、三人に頭を下げていた。


その後、深く掘った穴の中に、死んだ狐や血に染まった土や落ち葉を埋めた。
弔いが終わると、狐達はそれぞれ散り散りに走り去っていった。
残ったのは“こたろう”だけだ。

彼の案内で山を下り、“こたろう”と別れを告げると三人はようやく屯所への帰途に着く。
その道すがら、斉藤は隣を歩く千鶴にふと視線をやった。

「あんたのお陰で被害が拡大する前に羅刹を倒すことができた。礼を言う」

「え?」

「そうだな、俺達じゃ狐の言葉なんて解らなかったからな。千鶴ちゃんがいてくれて良かったぜ」

「そんな・・・」

何のてらいもなく賞賛の言葉を贈られ、千鶴の頬が染まる。

「でも、私だけでは何もできませんでした。だから、力を貸して下さってありがとうございました、斎藤さん、永倉さん」

素直な千鶴の言葉に、斉藤と永倉の表情が和らぐ。
己の功績など気にもしない奥ゆかしさは、何とも彼女らしい。
だから自分達も彼女には手を差し伸べたくなるのだ。

そんな二人の思いなど知らない千鶴は、それにしても、と引っ掛かっていた疑問を口にする。

「いったい何故彼らは羅刹になってしまったのでしょう?」

僅かな間、沈黙が落ちる。
その静けさの中、斉藤が口を開いた。

「山南さんによれば、羅刹化したものの血を飲めば、そのものも羅刹となってしまうらしい」

斉藤達はこれまで、血に狂った羅刹を幾人も斬ってきた。
その時に流れた血を最初の妖狐が、何らかの拍子に口にしたのかも知れない、と語る。

最初に狂った妖狐を止めようとした仲間が次々羅刹化してしまったのは、その妖狐の血を飲んでしまった為だろう。
獣が獣を止める際、相手の身体に噛み付き、力で捻じ伏せる。
止める相手が何倍もの力を得た場合、止める方も必死になり、血が出るほど歯を立ててしまう。
結果、狂った獣の血を口にして羅刹化してしまったのだろう。

狂っていく仲間達を、ただ結界の中に閉じ込めて見ていることしかできなかった狐達は、どれだけ辛かったか。
斉藤や永倉の剣によって殺すことでしか救いがなかった獣達を思うと、あまりにも哀しい。

そんな千鶴の背を大きな手がぽん、と叩く。

「まあ、俺達の手で被害が広がるのを阻止できたんだ。それで良しとしようや」

な?と笑いかけられ、千鶴の表情にもぎこちなくも笑みが宿る。

「はい」

すぐに割り切ることはできないだろうが、少しだけでも元気を取り戻せた様子の少女の笑顔に、斉藤と永倉もほっとする。


斎藤も永倉も、胸を過ぎったもう一つの可能性を千鶴に告げることはできなかった。

確かに、新選組が斬った羅刹の血を偶然口にした可能性はないわけではない。
だが、もう一人狐に変若水を与えられる人物が居ることを彼らは危惧した。

もしも、変若水の実験のためにわざと妖狐に与えられたものだとしたら。
さらに、その人物が狐が“妖”であることを承知で飲ませたのだとしたら。


その予想は外れてほしいと、願わずにはいられなかった。

心優しい少女が傷つくことがないように。


月の光が優しく照らす夜道を、三人は取り留めの無い会話を交わしながら歩き続ける。

明かされない真相の中に潜む影への不安を封じ込めて。



〈了〉

12.10.20up

と、糖度がない・・・(滝汗)。
一応、千鶴ちゃんが斎藤さんに信頼を寄せていることや、
斎藤さんが千鶴ちゃんを気に掛けていることを表現したつもりなのですが・・・。
ちなみに、こたろう君以外の狐さんは人型取る余裕がないので
千鶴ちゃんの目にも狐としか映っていません。



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