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恋ウ心 後編
何だか頭と肩が重い。妙な寒気も感じる。
野菜を洗う手を止め、千鶴は眩暈を堪えるように額に手を当てた。
境内で倒れ掛けた後、一旦は回復したと思っていた体調が、時が経つにつれて再び悪化しつつある。
常にない身体の不調は、幼い頃からほとんど風邪など引くこともなかった千鶴にとって不慣れな感覚で、重く圧し掛かるような苦痛に心身が悲鳴を上げる。
父を手伝って様々な病人や怪我人を見てきたが、彼らの置かれた状況が初めて実感を伴ったものとして我が身に感じられた。
「雪村君、大丈夫か? 随分と顔色が悪いが・・・」
隣で米を研いでいた山崎が、心配そうに問いかける。
大丈夫です、と返したいところだが、医学の心得のある彼に誤魔化しは通用しないだろう。
かと言って、具合が悪いからと夕餉の支度を彼に押し付けるのは気が引ける。いつも山崎は、千鶴など比べ物にならないほど働いているのに。
しかし逡巡する間もなく、山崎に洗っていた野菜を取り上げられた。
「とにかく君は部屋に戻って休むんだ。いいな?」
「う・・・、はい、すみません・・・」
有無を言わさぬ強い口調に逆らう術もなく、ふらふらとおぼつかない動作で立ち上がろうとして ふ、と一瞬気が遠くなった。
「雪村君!」
咄嗟に伸びてきた山崎の腕に支えられ、何とか倒れずに済んだものの、全身を包み込む虚脱感が千鶴の意識さえも暗闇に引きずり込もうとする。
その奥からざわざわと、“何か”が這い出そうとしていた。
「千鶴ちゃん!」
ねっとりと纏わり付く蜘蛛の糸を断ち切るように、鋭い声が沈みゆく意識を現実に繋ぎ止める。
ぼんやりとした視界に、こちらに駆け寄ってくる人の姿が見えた。
「どうして、伊庭さんが・・・?」
駆けつけた伊庭は、山崎の腕に支えられる千鶴を切羽詰った厳しい顔で見つめ、不意に背後を振り返った。
「こちらです!」
誰かを呼んでいるのだろうか。
山崎と伊庭の手が、力の入らない身体をそっと横たえた。
すると足音とともに、「これはいけませんなあ」と聞き覚えのある声が耳に届く。
その人物が何かをぶつぶつと唱えると、すう、と身体から不快感が消えた。
「え?」
この感覚は、もしかして。
はっきりしてきた視界を巡らせると、両側に心配そうに覗き込む山崎と伊庭の顔があった。
そして正面には、先刻境内で千鶴を助けてくれた僧侶が柔和な笑みを浮かべている。
どうやら、また彼に助けられたようだ。
「大丈夫ですか、千鶴ちゃん」
「はい、もう平気です。あの、もしかしてまた先程のように憑依されそうになっていたんですか?」
問いに、僧侶はそうです、と頷いた。
「どういうことですか? 雪村君にいったい何が起きたんですか?」
山崎の警戒心に満ちた眼が僧侶を見据える。
疑問に答えたのは、伊庭だ。
「この世に強い未練を持った魂が、千鶴ちゃんに憑依しようとしているそうです」
意味が解らない、と山崎の眉間に深い皺が刻まれる。
確かに、こんな荒唐無稽な話をいきなり信じろと言われても無理だろう。
しかし今は、彼を納得させている余裕がない。
「千鶴ちゃん、櫛を知りませんか?」
「え?」
「先程の櫛です。おそらく、“貴方の所に戻ってきている”はずです」
その言葉に答えるかのように、彼の手を借りて立ち上がろうとした千鶴の着物の合わせから何かが落ちた。
「え? どうしてこの櫛が?」
それは境内で見た赤い櫛だ。
確か先刻は、この櫛に触れた途端にさっきのように倒れかけて その後、櫛をどうしただろうか。
「ごめんなさい、入れた覚えはないんですけど・・・」
「わかっていますよ」
千鶴の言葉を疑いはしなかった。伊庭も確かに自分の懐に入れた記憶があるからだ。
いや、そもそも櫛は娘の遺体に戻したはずなのだ。
(ということは、やはり・・・)
千鶴から受け取った櫛を僧侶に見せると、彼は神妙に頷いた。
「この櫛に強い念が宿っています。雪村さんの気に触れたせいか、力が強くなっておりますが、西本願寺に預けて頂ければ祓うことは可能です」
このまま現世(うつしよ)に留まり続けるのも、霊にとっては苦痛でしょう。
痛ましげに紡がれた言葉には、どこか真実味があった。
しかし、伊庭は僧侶に櫛を託す道は選ばない。
「千鶴ちゃん、これから僕と一緒に来て下さい。ちょっとトシさんに外出許可をもらって来ます」
「え? あの?」
慌しく屯所に上がりこむ伊庭を、千鶴と山崎は茫然と見送るしかなかった。
物腰穏やかに見えて、伊庭は非常に行動的な男だ。
一旦これと決めたら、友人だろうが新選組副長だろうが悠然と蹴散らしてしまえる。
その後、見事に副長を説き伏せてみせた彼は、千鶴と山崎を伴って屯所を後にした。
夕餉の支度は他の手隙の隊士に任せ、二人はわけの解らぬまま伊庭の後に続く。
ちなみに山崎は、せめてこいつだけは連れて行けと土方に言われ、千鶴の護衛として同行することになった。
道すがら、伊庭は二人に奉行所での出来事を話した。
伊庭が見つけた遺体のことや、その娘と恋仲だったという男のこと。
そして、二人の思い入れの込められた櫛のことを。
「強い未練を残し、櫛に取り憑いた霊とはお春さんのことだと思います。それがどういうわけか、千鶴ちゃんに憑依しようとしている」
「それが事実として、俺達にできることなど何もないのでは? こういうのはやはり僧侶達に任せるのが最善と思いますが」
半信半疑ながらも、山崎は最も確実な方法を提案する。
伊庭とて千鶴が関わっていなければそうした。だが、自分が娘の遺体を見つけたことで、すでに自身も千鶴も巻き込まれている。
だったら、自分が最善だと思う方法を尽くしたい。二度と千鶴が煩わせられることがないように。
ちらりと横目で見た千鶴の顔は蒼白で、今にも倒れそうだ。
この世に未練を抱く霊が憑依しようとしている、と聞かされて良い気分になどなれまい。
それでも彼女が信吉とお春の事情を知って、哀しげに目を伏せたのを見逃さなかった。
自分が一番恐ろしい思いをしているだろうに、僧侶に縋らなかったのも、伊庭の後をおとなしくついて来るのも、きっと彼女も同じ思いを抱いてくれているのだと、そう信じたい。
「千鶴ちゃんと山崎君は先に河川敷に向かって下さい。僕もすぐに行きますから」
そう言うと、伊庭は一旦二人と別れ、雑踏の中に消えた。
■■■■■
夕焼けの色に染まる空の下、千鶴は山崎と共に橋の傍に立って伊庭を待っていた。
日が高いうちは橋を行き来する人の姿もあったが、日暮れの時間を迎えるとやがてまばらになり、今や通る人の姿はない。
この橋の下で若い娘が殺された。
その無念が宿るという櫛は今、山崎の手の中にある。
千鶴が持つのは危険だし、千鶴と離れれば櫛が勝手に彼女のもとに戻ってしまうため、伊庭が持つこともできないからだ。
伊庭はお春という娘の未練を何とか晴らしてやりたいと考えているようだが、果たして上手く事が運ぶのだろうか。
ざわざわと、胸の奥に不快な闇が蠢く。
何度も山崎の手の中に櫛があるのを確認しても尚、自分のすべてが飲み込まれるかのような暗闇の恐怖が迫ってくる。
何事もなければいいのだけれど。
震える手をぎゅっと握り締め、祈りにも似た気持ちでそう思う。
やがて、橋の向こうに伊庭の姿が見えた。
彼は一人ではなく、後ろから頼りなげな足取りで見知らぬ男がついて来る。
「彼が信吉か?」
ぽつりと落とした山崎の呟きを耳にした瞬間、ざわりと全身が総毛立った。
なんで・・・? ・・・ねえ・・・なんでやの・・・?
繰り返す疑問の声。
痛い、哀しい、辛い、愛しい、憎い。
ぐちゃぐちゃとした色んな感情が、奔流のように流れ込む。
「・・・っ」
「雪村君?」
千鶴の異変を察した山崎が、気遣わしげに覗き込む。
すっかり色を失った千鶴の顔を見た彼は焦りを浮かべ、今にも倒れそうな身体を支えようと腕を伸ばす。
「・・・んで」
消え入りそうな声が震える唇から零れた。
光を失った虚ろな目は、ただ一点を見つめて動かない。
「雪村君、しっかりしろ」
何かがおかしい。
生気のない無表情の中、唇だけが同じ言葉を延々と繰り返している。
「千鶴ちゃん?」
こちらに歩み寄る伊庭も、千鶴の様子がおかしいことに気付いたようだ。
山崎と伊庭の心配そうな声を霞掛かった意識の端で聞きながらも、感情の失せた目は伊庭の後ろの男のみを捉え、白い頬に一筋の涙が伝う。
憎い・・・愛しい・・・憎い・・・
相反する想いが嵐のように駆け巡る。
少しずつ、彼との距離が縮まっていく。
泣き腫らした赤い目と憔悴しきった顔は、いつもの彼と違うけれど。
それでも、間違いなく彼だ。
その時、千鶴の取った行動はあまりにも意外なもので、山崎は止めることができなかった。
反応したのは、伊庭一人だけ。
瞬時に抜き放った刀で、千鶴の小太刀を受け止める。
橋の上で刃を交えたまま微動だにしない二人の間近に立つ男は、腰が抜けたようにへたり込んだ。
千鶴の小太刀は、真っ直ぐに彼に向かっていたのだ。
「千鶴ちゃん」
刀を手にしながらも、伊庭の声は包み込むように優しい。
その声に、ぴくりと千鶴が反応する。
冷たい闇に覆われた胸の中に、そっと吹き込んだ爽やかな風。
微かな希望に縋るように手を伸ばすと、その先に新緑を思わせる瞳があった。
いつも優しく千鶴を見てくれる瞳。柔らかな声。
彼の存在はまるで春の陽射しのように、安心感を与えてくれる。
「伊庭・・・さん・・・」
凍りついていた表情に千鶴の意思が戻った。
そう安心しかけたのも束の間、千鶴は小太刀を引いたと思うと、尻餅を付いたまま茫然とする男に再び刃を向ける。
「ひ・・・っ」
小太刀は男に振り下ろされる前に、再び伊庭の刀に阻まれた。
『なんで? なんでやの・・・?』
なんで、と繰り返す呟きに伊庭と信吉が怪訝な顔になる。
伊庭にとってそれは聞き覚えのない声で、信吉にとっては聞き覚えのある声だったからだ。
「雪村君、やめるんだ!」
後ろから山崎が羽交い絞めにし、千鶴の動きを封じる。
その腕を振り解こうと身を捩りながら、憎しみに燃える眼が信吉を睨む。
『なんで来てくれんかったん? うちが嫌になったんやったら、そう言うてくれたら良かったのに!!』
千鶴の口から発せられた悲痛な叫びは、“千鶴の声ではなかった”。
「お春・・・ちゃん・・・?」
『うち、信吉さんに殺されなあかんほど嫌われてたん? そんなにうちが邪魔やったん?』
ぼろぼろと涙を流す千鶴の顔が、別の娘の顔と二重になって見えた。
山崎は知らないが、それがお春の顔であると伊庭と信吉には解った。
「やはり、あなたですか。お春さん」
「本当に、本当にお春ちゃん?」
(お春? まさか、本当に ?)
さすがの山崎も、驚きを隠せない。
伊庭が言った、強い未練を残す魂。
それが宿るという櫛を見やると、黒い靄のようなものが手に絡み付こうとしていた。
「な・・・っ」
赤い櫛を黒く染める闇は、触れた部分から生気を吸い取られるかのような虚脱感を齎す。
身体に力が入らず、よろめく山崎の腕の中から逃れた千鶴 お春は小太刀を構え直し、信吉を守るように立つ伊庭と向かい合った。
『退いて』
伊庭は苦笑を浮かべ、刀を構える。
『退いてくれんのやったら、あんたから先に斬ります。せやから退いて!』
「話を聞いて下さい、お春さん。あなたを殺したのは信吉さんではありません」
『手を下さんかったってだけやろ? あの男達は言うてた。うちは邪魔やて。信吉さんにとって、邪魔な存在やって・・・っ!』
「違う、お春ちゃん・・・」
信吉が何か言おうとしたが、お春は聞きたくないとばかりに小太刀を手に突進する。
信吉を殺す。邪魔をするなら、この侍も一緒に斬る。
伊庭さんを・・・斬る・・・?
「いや!!」
伊庭の刀と切り結ぶより先に、千鶴の動きが止まった。
両手で柄を握り締めていたはずが、二つの意思がせめぎ合うように、刀を持つ左手を右手がきつく掴む。
「千鶴ちゃん!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい伊庭さん・・・私・・・っ」
伊庭に刀を向けてしまった。その事実に打ちのめされ、ガタガタと身体が震える。
そんな彼女に、伊庭は安心させるように柔らかな笑みを浮かべた。
「僕なら大丈夫ですよ」
伊庭の声は穏やかで、泣きたくなるほど優しい。
いつもそう。彼は優し過ぎるほど千鶴に優しいのだ。
心から気に掛けてくれて、心配してくれる人なんて、今まで父しかいなかった。
そんな人を、傷つけるわけにはいかない。
『お願い、あなたには悪いて思うけど、この人だけは・・・っ』
必死な声が聞こえる。
まるで見えない糸に操られるかのように、千鶴の意思に反して小太刀を握り締めた手が信吉に狙いを定め、足はそちらに向かって踏み出す。
千鶴の意思の力だけでは抑えきれない。
「お願いです、伊庭さんなら・・・私を取り押さえられますよね?」
「僕が千鶴ちゃんを乱暴に扱えるわけがないでしょう」
「そんなこと、言ってる場合じゃ・・・」
「お春さん、あなたの無念はわかりますが、その身体は僕の大事な女の子の身体なんです。返して頂けませんか?」
千鶴を通して彼女の中のお春に語りかけると、二重に映るもう一つの顔が歪んだ。
本来は可愛らしい顔立ちだろうに、復讐心に囚われて美しさも愛らしさも失っている。
「それに先程言った通り、信吉さんはあなたを殺していません。彼は今朝までどこかに軟禁されていたそうです」
『・・・・・・え?』
「いきなり殴られて、納戸に閉じ込められていたそうですよ。気が付いた時にはすでに夜で、その後必死に扉をこじ開けて出て来たんです」
そう言って伊庭は信吉の手を指し示す。
真っ赤に腫れ上がり、所々皮が剥けて血が滲むその手は、力任せに何かを殴り続けたような、痛々しい有様だ。
お春の動きが止まった。千鶴の中で渦巻いていた憎しみと殺意が、戸惑いに変わる。
左手から柄を握る力が失われ、素早く右手に持ち替えた小太刀を山崎の方に落とすと、彼はすぐに拾い上げてくれた。
「彼を軟禁した者や貴方を襲った下手人は、町方の皆さんが捜査しています。だから」
「お春ちゃん」
伊庭の言葉を遮って、信吉がよろよろと前に出る。
動けずにいるお春から眼を逸らさず、傷だらけの手で彼女の手を取った。
「お前が望むんやったら、俺を殺してええねんで」
「ちょっと待って下さい。何を言っているんです?」
「止めんといてください。彼女のいない人生なんて、俺には考えられへんのや。お春ちゃん、その小太刀で俺を刺してくれ。一緒にあの世へ行こう」
((え? ええ!?))
千鶴の中で二人分の戸惑いの声が上がる。
だが千鶴の手を掴む信吉の手は、伊庭によって容赦なく引き剥がされた。
「絶対に駄目です。千鶴ちゃんの体で殺人なんてさせません」
断固とした口調は、一歩も引かぬという強い意志が込められていた。
さっきまでの穏やかな眼差しはどこへやら。お春に小太刀を向けられた時にさえ見せなかった怒りの色が、新緑の瞳にはっきりと表れる。
伊庭の純然たる怒りに、確かにこの見知らぬ子に殺人の罪を着せるのは酷だと思い直し、信吉は伊庭を見た。
「じゃあ貴方なら良いですよね、お侍さんだし」
「僕は誰にでも刀を向けたりしません。それに、僕に斬られたことが世間に知れたら貴方の家族にまで被害が及びますよ」
「え?」
伊庭の身分の高さを鑑みれば、彼がその辺の不逞浪士とはわけが違うことは容易に知れよう。
将軍奥詰役という肩書きを持つ侍が町人を斬ったことが公になれば、いったいどうなるか。
偉い侍に無礼を働いたとして、信吉はもちろんのこと、その家族まで白い目で見られ兼ねない。
「そ、それじゃあそちらの方!」
矛先は山崎に向かう。が、答えはにべもない。
「無闇に町人を斬ったりしたら、新選組の名に傷が付く。無理だ、他を当たってくれ」
「それじゃあ誰が俺を殺してくれるんですかあああっ」
そんなことを言われても・・・。
伊庭と山崎は、困惑の表情で互いに視線を交わす。
こんなに必死に斬られたがる人間を初めて目にした。
『・・・・・・っ』
何ともいえない重苦しい空気の中、ふいに鈴の音のような笑い声が響いた。
笑っているのは千鶴 いや、お春だ。
『なんやもう、おかしゅうて・・・』
「お春ちゃん・・・?」
『もうええよ。あんたがうちを裏切ったんやないてわかったから、充分や・・・』
いつの間にか千鶴や櫛を纏わり付いていた黒い靄のようなものが消え、淡い光の中にお春の姿がぼんやりと浮かび上がった。
その表情にもう憎しみの色はなく、哀しげに、しかし嬉しそうに微笑んでいる。
『伊庭さん、千鶴さん、えらい迷惑掛けてしもうて申し訳ありまへん』
深々と頭を下げたお春は、最後に焼き付けるように信吉をじっと見つめる。
結い上げた髪には、牡丹の模様の赤い櫛が差してあった。
『もう一緒にはいられへんけど、どうか幸せになって・・・』
花のような微笑を残し、お春の姿はすう、と光の中に消えた。
「待っ、お春ちゃん!」
慌てて手を伸ばすが、光は天に向かって駆け上がりながら茜の空に溶ける。
カラン、と固い音に足元を見れば、赤い櫛が落ちていた。
がくりと膝から崩れ落ちた信吉は、愛しい人がもういない事実に声を枯らして泣いた。
「伊庭さん、お怪我はありませんか?」
ようやく身体の自由を取り戻した千鶴は、傍らに立つ伊庭を見上げて問う。
「ええ、大丈夫です」
「よか・・・っ、・・・っ」
「千鶴ちゃん、泣かないで。僕なら何ともありませんから。ね?」
「う・・・っ、伊庭さんに、怪我させたらどうしようって・・・」
「ああ、困ったな。貴方を泣かせたかったわけじゃないのに・・・」
涙の膜で揺れる視界では伊庭の表情は見えないが、弱り果てた声が彼が本当に困っていることを窺わせる。
けれど千鶴は涙を止めようとは思わなかった。
伊庭が無事で良かった。
お春と信吉の間の誤解が解けて良かった。
そして哀しい結末を迎えた男と女を想って、今だけは涙を流していたかった。
声を殺して泣き続ける細い肩を、温かな手がそっと抱き寄せた。
■■■■■
数日後、伊庭は千鶴とともに西本願寺の本堂を訪ねた。
先日世話になった僧侶に礼と、ことのあらましを伝えるためだ。
その前に、と千鶴は一足先に彼から話を聞くことができた。
信吉を軟禁し、お春を殺した下手人と指示した黒幕が捕らえられたのだ。
あの日の翌日から、信吉がお春を殺した下手人を捕らえるために精力的に町方と協力したのが功を奏したようだ。
結果、黒幕はとある大店(おおだな)の主の妻だった。
その大店には若い娘が居り、以前から信吉に想いを寄せていたらしい。
当然信吉はお春にぞっこんなため、娘からの求愛を拒んだのだが、それを知った母親が不逞浪士に金を渡して二人を襲わせたのだと言う。
その後、浪士達は大店ならもっと金が取れると睨み、強請りに現れたところを、張っていた町方達にあえなく御用になったのが昨日の出来事だ。
大店の主や娘は何も知らなかったようだが、かと言って人の口に戸は立てられない。
今後、彼らへの周囲の目は厳しいだろう、と町方役人がしみじみ言っていたらしい。
「信吉さんは、今後どうされるんでしょう?」
大店の事情は考えても仕方がない。
だが、関わってしまった以上、やはり気になるのは信吉のことだ。
「昨日会った時は少しすっきりした様子でしたよ。少なくとももう死のうとは思っていないでしょう」
幸せになって、と恋しい娘からも言われたのだから。
『今はまだお春ちゃんを忘れることはできないし、幸せになれるかも解らないけれど・・・。お春ちゃんに恥じない生き方をしていきたいと思います』
そう言って、彼は泣きそうな顔で笑っていた。
「僕は、彼に自分を重ねていたのかも知れません」
「え?」
恋仲の娘の遺体に縋り付き、泣き叫んでいた信吉の姿に心を揺さぶられた。
もしかすると、いつか自分が彼の立場になるかも知れないと恐怖を抱いたのだ。
伊庭が誰よりも守りたいと思うのは、この世でたった一人。雪村千鶴だけ。
だがこのまま千鶴が新選組にいるなら、あらゆる危険が彼女の身に降り掛かる。
たとえ傷がすぐに癒える特殊な体質を持っていても、千鶴は戦う力などないか弱い女の子だ。
(トシさん達の剣の腕を信頼していないわけではないけれど)
果たして彼らは千鶴を守ってくれるのだろうか。
それだけの強い覚悟を持って、千鶴を屯所に置いているのだろうか。
離れている間に彼女が失われてしまう可能性。
考えるだけで芯から恐怖を感じる。
(本当はこのまま、保護してあげたいのだけど)
その申し出は一度断られてしまった。
もう一度問うても、同じ返事が返るだけだろう。
自分の剣の腕は、元はといえば彼女のために磨いたものだ。
今では千鶴以外にも大事なものがあるし、千鶴が容易に新選組を離れられない事情も解っている。
互いに自分の感情だけで動くことは許されない。
それでも、伊庭が一番守りたい人は、今も昔も彼女だけなのだ。
〈了〉
16.6.11up
最初から最後まで伊庭さんが走り回ってます。
千鶴ちゃんのためなら相手が霊だろうとなんのその。
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