|
桜月夜 〜覚醒〜幕間三
暗闇の中を漂う不穏な気配。
一際目に付いたのは禍々しい紅の光を放つ双眸。
眼にした瞬間、全身を感じたことのない戦慄が駆け抜けた。
“あの方達にお知らせしなければ!”
瞬時に逸り立ったこの感情は何なのか。
誰に知らせれば良いのかも解らないのに、ただその思いだけが強く心に残った。
その時ふと脳裏に浮かんだのは、日頃苦手に感じていたクラスメイトの顔だった。
■■■■■
「烝、気がついた?」
ぼんやりとした視界に安堵に涙ぐむ母の顔を捕らえ、烝は内心で首を傾げた。
母親の後ろには見覚えのない壁と天井が見え、ここが自分の家ではないことが解る。
身体を動かそうとするも、やけに全身が重く感じた。特に左腕の感覚がない。
(左腕・・・)
「っ!!」
瞬時に記憶が甦り、烝は恐怖に竦んだ。
(そうだ、俺、紅い目の犬に咬み付かれて・・・)
置かれた状況を理解しようと素早く周囲に視線を巡らせ、ベッドを挟んで母親と反対の位置に意外な人物の姿を見つけて思わず恐怖を忘れてぽかんとしてしまった。
「おはよう、山崎君」
「総司君? どうしてここに・・・ここどこ?」
そこに立っていたのは毎日学校で顔を合わせるクラスメイトだった。
混乱する烝の疑問に答えてくれたのは母親だ。
「病院よ。あなたが凶暴な野良犬に襲われていたところを総司君の親戚のお兄さんが助けてくれたのよ」
その言葉に総司の隣に立つ人物を見る。
烝や総司よりいくつか年上の端正な顔立ちの少年だ。
自分に視線が注がれていることに気付くと、少年は優しい笑みを浮かべた。
「よう、目が覚めたみたいだな」
「あ・・・」
その眼が、その声が、その笑みが、胸が苦しくなるほどの懐かしさを齎す。
総司と初めて会った時も彼に対して懐かしさを感じたが、同時に近寄ることを躊躇わせるものも感じた。
だが、この少年に対しては純粋な懐かしさと深い尊敬の念が湧いてくる。
「あの犬は追い払った。お前の怪我もその左腕だけだ。詳しい状態は検査中らしいけどな」
「た、助けてくれて、ありがとうございます・・・」
「おう、もう夜中に一人で出歩くんじゃねえぞ」
そう言って烝の頭を一撫でし、彼は総司に「帰るぞ」と声を掛けると烝の母に一礼する。
「それでは、俺達はこれで失礼します。お大事になさって下さい」
「本当にありがとうございました。後日お礼に伺わせて頂きます」
深々と頭を下げる母に恐縮したように遠慮を口にするが、いえいえ是非に、と一歩も引かない母に押し切られてしまった彼は成り行きを見守っていた烝に苦笑を返し、総司を伴って病室を後にした。
二人が去った後、病室には烝と母だけが残された。
「礼儀正しい素敵なお兄さんね。二人とも美形だし、将来が楽しみだわ」
にこにこと上機嫌にそう言われると、烝も苦笑いを零すしかない。
だが我が子と向き合うと、途端に彼女は母の顔になった。
「烝、貴方どうして夜中に一人で外を歩いたりしていたの? 本当に心配したわ」
「ごめん、母さん・・・でも俺、どうしても・・・」
言い淀む烝の続かない言葉を、彼女はちゃんと汲み取っていた。
数日前我が子の身に起きた、あまりにも衝撃的な事件。
彼はその決着を付けたかったのだと 。
理解はできる。だが・・・。
「お願いだから、もうこんな無茶はしないで・・・」
必死に涙を堪えて潤む瞳と震える声に随分と心配させてしまったことを知り、烝は深い悔恨を覚える。
「ごめんなさい・・・」
その言葉を繰り返すことしかできなかった。
翌日も、烝は検査のために入院を余儀なくされた。
そして午後には検査結果が出て感染症などの心配もなく、通院の手続きを終えてようやく家に帰ることができた。
傷口が熱を持ち始めたため、さらに数日は家で安静にしていたが、週末に両親が総司達の家にお礼に行く時には烝も同行することを強く願い出た。
学校に行けば総司には会えるだろうが、烝は歳三と名乗ったと母から教えられた、あの少年に会いたくて仕方なかったのだ。
お礼なら自分で言いたい、と引かない烝の言葉に両親は無理をしないようにという約束と共に許可を出した。
山深い場所に、広大な敷地が広がる。
まさかこんな山奥のこんな広々とした土地にこんな大きな家が建っているとは思わなかった。
門を抜けた後も、本邸までは車で移動しなければならない程に遠く、道の途中にはいくつかの建物も見えた。これはもう一つの集落と言えるかも知れない。
「総司君ってこの家から学校まで歩いて通っているのかしら? 大変ねえ・・・」
茫然と呟く母の言葉に烝は全面的に同意せざるを得ない。
同時に総司の身体が心配になる。
彼は他の子供達と比べると若干身体を壊しやすいことを、保険委員を務める烝は知っていた。彼が体調を崩すと学校でその世話をするのは烝の役目だ。
そんなこともあって総司と烝が接する機会は多いのだが、何故か彼に対する苦手意識は薄れるどころか、日々積み重なっていくのが不思議だ。
特に総司が烝に何かしたわけでも、言ったわけでもない。彼を嫌ってるわけでもないし、むしろ文武に秀でた総司を尊敬する気持ちすらある。しかしどうしても彼に対する警戒心が抑えきれない。
(そりが合わない、というか・・・)
逆に総司と登下校を共にしている、一つ年下の一とは気が合うのだが。
悶々と考え込んでいるうちに、車が車庫と思われる場所に着いた。
来客用の駐車場に車を停め、烝は両親と共に一際大きな邸宅に向かった。
事前に電話で連絡していたこともあってか、すぐに家人が出迎えてくれて居間へと通された。
そこには総司と歳三と、その両親と思わしき男女の姿があった。
すぐさま大人同士で挨拶合戦が始まり、口を挟めずにいる烝の傍に歳三と総司が近づいてきた。
「長くなりそうだから来なよ。話もあるしさ」
「え? あ、うん」
「父さん、こいつ借りるぜ」
歳三が声を掛けると、「おう、子供は子供同士、元気に遊んで来い!」と力強い応えが返る。
「怪我人なんだがな・・・」
苦笑混じりの歳三の呟きは、挨拶の応酬の中に掻き消された。
二人に案内されて入った広い部屋には一や平助の他、烝より年上の少年が数人彼らを待っていた。
「おう、そいつか。例の犬に襲われたってのは」
「山崎君、怪我の具合は大丈夫か?」
部屋に入ってきた烝に、短髪で体格の良い少年と一が声を掛けてくる。
彼らと言葉を交わしている間に歳三は部屋の奥へと歩を進め、一番年長と思われる高校生くらいの少年の隣に腰を下ろした。
その左右に総司達がそれぞれ腰を下ろし、烝は歳三と向き合うように敷かれた座布団に正座する。
「さて、お前には聞きたいことがいくつかあるんだが、まずは自己紹介だな。総司と一、平助は知っているな? 俺はこいつらの親戚の歳三だ」
「僕は敬助です。初めまして」
歳三の隣に座る知的な印象の少年が言った。
「俺は新八、よろしくな」
真っ先に声を掛けてきた少年が笑顔を浮かべる。
「俺は左之助、よろしく頼むぜ」
母が会ったら将来が楽しみだわ〜、と瞳に星を浮かべそうな少年だ。
そういえば新八と左之助は去年まで総司達と一緒に登下校していたのを見かけた覚えがある。
この大きな家と敷地に親戚同士が暮らしているなんて、さぞ賑やかな毎日だろう。
「俺は山崎烝です。先日は助けて下さり、ありがとうございました」
彼らを前にすると自然と背筋が伸びた。
「で、だ。あの夜お前が夜中に一人でうろついていた理由を話しちゃくれねえか? お前がナイフを持ち歩いていた理由もだ。あの犬とは偶然遭遇したのか? それとも・・・」
「あの犬は、どうなったんですか?」
一番訊きたかった質問だった。
烝の必死な視線を受け止めた歳三は抑揚のない声音で、だがはっきりと答えを返す。
「俺が殺した」
「えっ!?」
「まずかったか?」
「いいえ、ありがとうございます!」
そう言って深々と頭を下げる。
顔を上げると、歳三達のもの問いたげな視線が注がれていることに気付き、烝は彼らに事情を伝え始めた。
「実は、あの犬は俺の犬の仇なんです」
今思い出しても、あの夜の恐怖と怒りと悲しみは消えない。
数日前の夜、烝は愛犬の散歩に出ていた。
普段は日が暮れる前に散歩に出るのだが、その日は友達と日が落ちるまで遊んでいたため、夕飯の後に行くことにしたのだ。
家や街灯の明かりがあるとはいえ夜の道は暗かったが、恐怖は感じなかった。
暗闇の中、紅く光る双眸と出会うまでは 。
まず“それ”に気付いたのは隣を歩く犬だった。
突然足を止め、前方を見つめながら落ち着かなげに吠え始める犬の様子に困惑していると、暗い夜道の向こう側に紅い光を見た。
何だろう、と凝視する闇の中、近づいてきた“それ”が街灯の明かりにぼんやりと浮かび上がる。
薄汚れた白い犬。だが、瞳が異様な光を発している。口からは涎が流れ落ち、どう見ても尋常ではない。
ふと飼い犬を見下ろすと、ひどく怯えている様子が窺えた。
烝は愛犬を庇うように前に出て、手に持っていたトングで白い犬を追い払おうとする。
しかし白い犬は烝に狙いを定め、牙を剥いて襲い掛かってきた。
咄嗟にトングで応戦するも、凄まじい速さで白い犬は烝に喰らい付こうとした。
咬まれる、と襲いくるであろう痛みを覚悟する烝の前に立ちはだかったものがあった。
夜を切り裂く悲痛な悲鳴。
それが愛犬のものだと認識するのに時間は必要なかった。
そこまで話し終えたところで、血塗れになって倒れた犬の姿を思い出した烝は昂ぶる感情を抑えようと深く息を吸った。
「あの後、騒ぎに気付いた周りの家から人が出てきて白い犬を追い払ってくれて、病院に連れて行ってくれました」
犬は一命を取り留めたものの傷は深く、今尚痛々しい姿となっている。
自分を助けようとして大怪我をした愛犬の姿に烝が涙を流すと、彼は自身の痛みを堪えて飼い主を心配して擦り寄ってくる。その優しさが嬉しくて、申し訳なくて、烝の中に白い犬に対する憎悪が燃え上がった。
「成る程な、それで仇を討とうと思ったわけか」
「しかし無謀ですね。それほど凶暴な犬を相手に君一人でどうにかなると思ったんですか? 事実歳三君が来なければ、君はあの犬に食い殺されていたかも知れませんよ」
「・・・・・・はい」
敬助の厳しい言葉に烝は深く項垂れる。
「でも、あいつは、龍之介は、俺のせいで死ぬところだったんです。俺があの日、龍之介の散歩を忘れなければ、あんなことには・・・」
苦しげに搾り出された言葉に、「ぶはっ」と奇妙な声が被さった。
顔を上げると、その場に居る少年達の中で総司と左之助が腹を抱えるように蹲っていた。
全身がふるふると小刻みに震え、時折苦しそうな息遣いが聞こえる。
烝はもちろんのこと、歳三以外の全員が呆気に取られたようにそんな二人を見た。
「おい、どうしたんだよ左之」
新八の声にやっと顔を上げた左之助は、眼に涙すら浮かべて烝を見やる。
「り、龍之介、て、お前の犬の名前か?」
「え? はい」
「いいね、ナイスネーミング・・・っ」
口元を手で覆い、総司は顔を伏せたまま震え続けている。
烝にも、他の面々にも総司と左之助の状態が理解できた。
間違いなく彼らは笑い転げている。
烝を慮ってかあからさまに声には出さないが、抑え切れない笑いが全身の震えに表れていた。
その後、犬好きらしい平助に愛犬のことを訊かれ、元は野良犬だったのを烝が拾ったことや、性格は素直ではないものの情に厚いことや、強がっていても実は臆病なことなどを口にする度、総司と左之助から堪えきれない笑いが漏れる。
犬の名前で何故これ程までに彼らの笑いのツボを刺激してしまったのだろうか。
全く理解できない烝は怒りを感じるよりも、ただ当惑するだけだった。
この時、一人だけ周囲の喧騒を他所に眉間に皺を寄せて眼を綴じていたのが歳三だ。
だが無表情を保ちながらも、歳三もまた必死に笑いを堪えていたと後日敬助が教えてくれた。
ようやく総司と左之助が落ち着いた頃、歳三が不意に切り出した。
「山崎、お前うちの道場で修業してみるか?」
「え?」
「お前は少し無謀なところがあるからな。もしもの時の為にも身体を鍛えた方がいいぜ」
「うちの道場なら色んな武道が経験できるぜ。主に剣術主体だが、一は居合いをやってるし左之は槍術、歳兄は色々とわけわかんねえ。他にも合気道や弓道や柔術、ついでに華道と茶道も母ちゃん祖母ちゃんが教えてくれるぜ」
歳三の言葉を引き継ぐように、新八がさらに続ける。随分ざっくりした説明だが。
そして二人に言われた言葉を考えてみる。
確かに歳三に言われた通り、烝は弱い。白い犬の件では己の力量を省みず無茶をして、両親をひどく心配させてしまった。
そんな彼を救ってくれたのが歳三だ。
彼は烝や龍之介を襲った凶暴な犬をその手で殺したと言った。あの狂気に満ちた犬を殺せるほどの力を持っているということだ。おそらく、この場にいる全員が歳三に並ぶ実力の持ち主なのだろう。
ぞくり、と烝の全身に言いようのない戦慄が走った。
「実は、君が会った白い犬と同じような凶暴性を持つ動物もしくは人間が、これからも生み出される可能性があるんですよ」
「え!?」
「お前もまたそいつらと遭遇しないとは限らねえ。護身程度の力は身につけた方がいいぜ」
敬助や左之助の言葉に偽りや脅しは一切ない。
何故そんなことを知っているのか、あの白い犬の正体は何なのか。
訊きたいことはたくさんあるが、何よりも烝の中に芽生えたのは彼らの力になりたいという強く純粋な思いだった。
少しでもいい。彼らの力になりたい。役に立ちたい。
その為には、自分自身も強くなりたい。
「で、どうだ、山崎。俺達の仲間になってみるか?」
ハッと顔を上げると、歳三を始め全員が烝の答えを待っていた。
誰もが温かな笑みを浮かべ、その眼に烝の存在を受け入れている。
胸の中いっぱいに喜びが満ち、烝は思わず声を張り上げていた。
「はい、よろしくお願いします!」
これから彼らと時間を共にできることが嬉しい。
彼らに近づけたことで、烝の中の何かが満たされたような気がする。
まだ幼い少年が、やがて“新選組監察方、山崎烝”の位置に辿り着くまで、あと数年の時を要した。
〈了〉
11.10.20up
幕間第三弾は山崎さんです。本能的に沖田さんが苦手です(笑)。
ちなみに山崎家のわんこ=井吹君の生まれ変わりではありませんので(苦笑)。
|