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捜シ者 後編
朝、眼を覚ました千鶴は、自分が何処に居るのかをすぐには理解できなかった。
見渡した室内の内装も、障子戸から覗き見た外の風景も、見覚えのないものだったのだ。
何故自分はここにいるのだろう、と混乱しかけたが、やがて昨日聞かされた話を思い出してようやく心を落ち着ける。
恐る恐る触れた頭部にはすでに瘤はない。
少し力を入れて触れると鈍く痛みが走るが、それも数刻経てば感じなくなるだろう。
(夢じゃなかったんだ・・・)
頭部に残る痛みが、昨日の出来事を現実のものだと知らしめる。
「千鶴、起きてるか?」
身支度を整えていると、障子戸の向こうから藤堂平助の声が聞こえた。
「あ、うん、どうぞ」
「おはよう、よく眠れたか?」
現れるなり明るい笑顔を向けられ、思わずほっとする。
今の千鶴にとって、平助の明るさは何よりの救いだ。
「あの、昨日はごめんね。皆さんに失礼な態度取ってしまって・・・」
「気にすんなよ、お前が混乱するのも無理ないって。ところで今のお前の状況、山崎君から聞いてるか?」
口調は何気なさを装っているものの、若草色の眼には隠しきれない懸念が滲む。
不安そうに見つめてくる平助に、千鶴は頷いてみせた。
「私が新選組に来てから三年も経っているんだよね・・・」
「ああ、今ではお前、皆とすごく仲良くやってるんだぜ」
だから怯えることないんだ、と平助が励まそうとしてくれているのは千鶴にも解った。
しかし彼女は、気分が落ち込んでいくのをどうしようもなかった。
「でも私、三年経ってもまだ新選組にいるんだね・・・」
「千鶴・・・」
出会って間もない頃の千鶴なら、未だに解放されていない事実に動揺するのは無理もないことかも知れない。
それでも、彼女の哀しげな表情に、この数年間で培ってきた温かな思い出を否定されたようで、胸が痛んだ。
■■■■■
小さな子供が歩き回っている。
右へ左へ、ぐるりと回ってはきょろきょろと辺りを見渡し、また別の方向へ。
今にも泣き出しそうな表情で、子供は必死に何かを求めている。
何をしているのだろう。
失くしたものを探しているのか、はぐれた親や兄弟を捜しているのか。
自室前の縁側に腰掛け、沖田は子供をじっと見つめていた。
すると、向こうから原田が歩いてくるのが見えた。
原田の方に駆けていた子供は、そのままの勢いで彼にぶつかるかと思われたが、突然子供の姿が消えた。
「あれ?」
原田は何も気づかぬ様子でこちらに歩いてくる。
よく眼を凝らして見ると、彼の後ろに駆け去る子供の姿があった。
「もしかして、通り抜けた?」
呆然と子供を凝視していると、沖田に気づいた原田が「よう」と手を上げた。
「左之さん、子供見えた?」
「子供? ああ、境内で遊んでるガキ共のことか?」
どうやら原田には先程の子供の姿が見えていなかったようだ。
では何故自分には見えたのだろうか。
首を傾げて考え込んでいると、原田はやれやれとばかりに窘めてくる。
「総司、寝てないと土方さんにどやされるぞ」
「そんなのいつものことでしょ。それより左之さんは何してるの?」
「ちっとばかり買い物にな。あ、お前も食うか?」
ひょい、と持ち上げたのは甘味屋の包みだ。
さして甘いものを好んでいるわけでもない原田がわざわざ買いに行くということは、それが誰に対してのものなのか容易に窺い知れる。
「千鶴ちゃん、やっぱりあのまま?」
「平助が言うには変わりないみたいだな。状況は理解しているようだが」
一晩経てば自然と記憶が戻るのではないか、と僅かな期待を抱いていたが、残念ながらそう都合良くはいかなかったらしい。
「少しは反省したか?」
「反省? 何のこと?」
見上げると、どこか意味ありげな笑みを浮かべる原田の顔があった。
「お前の過去の態度を、だよ。千鶴に怯えられて、ちょっとは傷ついたんじゃねえか?」
「別に。あの子にどう思われようが関係ないよ」
「そうかよ、ったく素直じゃねえな。迷子の子供みたいな顔してるくせによ」
原田は苦笑しつつ、包みを解いて「ほれ」と団子を差し出す。
子供をあしらうような態度に眉を寄せながらも、沖田は一串手に取ってぱくりと齧りついた。
口の中にみたらしの甘さが広がる。
それがいつもより味気なく感じてしまうのは、きっと気のせいに違いない。
■■■■■
原田からの土産だ、と平助が団子を持ってきてくれたので、千鶴は茶を淹れる為に彼に案内されて厨に訪れた。
今の千鶴にとっては初めて使う釜戸だが、不思議と身体が覚えているようで、茶葉を扱う手に迷いはない。
毎日ここに立って皆の分の茶を用意していた、という平助の言葉は事実のようだ。
原田が買ってきてくれた団子がお気に入りだとか、屯所内では進んで様々な雑用をこなしていたとか、平助や山崎から聞かされた話からは自分が如何に新選組に馴染んでいたのかが窺えた。
しかし今は、部屋から出ることにすら勇気が要る。
何より、他の隊士達と顔を合わせるのが怖い。
最近では朝夕の食卓を共にすることにも慣れてきたものの、千鶴は常に自分が監視されているのを感じていた。
いつ斬られてもおかしくない状況に、気が休まる時などなかった。
どうすればいいのか解らず、立ち竦んでいた彼女に対して周囲は優しくはない。
平助ですら、“その時”がくれば自分に刀を向けるだろう。
そんな状況に置かれていた千鶴にとって、突然三年後の屯所に放り込まれ、幹部達と仲良くしろと言われても無理な話だ。
「おや雪村君、もう身体は大丈夫なのかい?」
平助と千鶴しかいなかった厨に突然割り込んだ第三者の声に、千鶴はびくっと身を竦ませる。
しかしその声が井上源三郎のものだと知ると、ほっと胸を撫で下ろした。
「源さん、どうしたんだ? 夕餉の支度にはまだ早いんじゃないの?」
平助の問いに井上は「そうなんだけどね・・・」と言葉を濁し、千鶴の手元を見て笑みを浮かべる。
「良かったら、そのお茶を一杯もらってもいいかね?」
「え? あ、はい、どうぞ」
「ありがとう」
二人分を淹れた後の残ったお茶を別の湯飲みに注ぐと、井上はそれを盆に載せてにこにこと機嫌良く厨を出て行った。
「お茶を飲みたかったのかな?」
「かもな。じゃ、俺達も戻って団子食おうぜ」
平助に促され、千鶴も彼の後に続く。
自分に宛がわれた部屋に入ろうとした時、どこからか微かに何かの音が聞こえた気がして立ち止まった。
辺りを見渡しても、音がどこから聞こえているのか解らない。
だが、耳に捉えた音が“医者の娘”である彼女にとって聞き覚えのある音なのが気になった。
襖も障子戸も締め切った薄暗い部屋の中では、沖田の苦しげな咳の音が響いていた。
発作的に繰り返すそれによって、ようやく収まる頃には随分と体力を削られてしまった。
荒い呼吸を何度か繰り返した後、沖田は新鮮な空気を求めて障子戸を開ける。
(あ、またいる)
庭に、走り去っていったはずの小さな子供の姿を見つけ、濡れ縁に足を踏み出す。
と、同時に廊下の向こうからこちらに近づいてくる足音に気づいて目線をそちらに向けた。
「あれ、源さん、土方さんに用事だったの?」
「ああ、お茶を差し入れてきたんだ」
そういえば、いつもなら千鶴が土方にお茶を持って行く時間だ。
その帰りに沖田の部屋に寄って言葉を交わすのも日課となっていた。
今の千鶴にそれを望むのは無理だろうけれど、などと取り止めのないことを考えていると、庭を歩き回る子供がしゃがみ込んで泣き出してしまった。
「ねえ、源さん。子供が見える?」
「ん? ああ、境内で遊んでいる子供達の声が聞こえるね」
「やっぱり見えないんだ」
一人ごちる沖田に、井上は「無理せず休んでいるんだよ」と言い置いて歩き去る。
残された沖田はしばらく逡巡した後、縁側から庭に下りて子供に近づいた。
「ねえ、そこで何してるの?」
話しかけると、子供は涙に潤んだ大きな瞳で沖田を見上げた。
間近で見ると、子供がとても可愛らしい少女であるのが解った。
年の頃は三つか四つの小さな少女は、突然話しかけてきた沖田に眼を丸くしていたが、彼の笑みに安心したのかおずおずと口を開いた。
『あのね、さがしているの』
「何を?」
『だいじな子。きっとあの子もわたしをさがしてる。いっぱいしんぱいしてるから』
「その子は何て名前?」
『なまえ・・・? なまえは・・・・・・』
少女の口が何かの名前を象ろうとする。
しかしそれは声とはならず、沖田の耳に届かない。
ごめん、何て言ったの?
そう問おうとした時、不意に少女の姿が消えた。
「?」
いきなり消えてしまった少女に、思わず呆気に取られる。
(まさかとは思ったけど、やっぱり幽霊ってやつなのかなあ)
原田にも井上にも見えず、不意に現れたり消えたりする少女。
見たところ、彼女の足元には影もなかった。
沖田の幻想か、もしくは霊の類か。
どちらにしても、何故自分にだけ彼女の姿が見えるのかが解らない。
(僕が一番“死”に近いからかな)
自嘲的に笑み、そんなことを思う。
ごほ、と喉の奥から不快な感覚が込み上げる。
またか、と心の中で毒づきながらも、咳き込んでしまうのを抑えられない。
ここにいては誰に見られるか解らないため、急いで部屋に戻ろうとするも、酷くなる発作が歩く力さえ奪っていく。
ふわ、と柔らかな感触が背に触れた。
落ち着かせるように何度も背を撫でられるのを感じる。
誰かに見つかったようだ。
説明が面倒だなあ、と内心うんざりするが、断続的に襲う咳を止める術もなく、背を撫でる手を拒む余裕もなかった。
ようやく咳が収まって渋々後ろを振り返った沖田は、意外な人物がそこに居るのを眼にして驚愕した。
「千鶴ちゃん?」
「あ、あの、すみません・・・。咳の音が聞こえたので・・・」
おどおどとした態度は、先程まで優しく背を撫でてくれた手の持ち主とは思えないほどだ。
苦しんでいる人間を放って置けるような性分でなないことは知っているが、こんなにも怖がっている相手によく触れられたものだと彼女のお人好し振りに感心する。
(まあ、君らしいといえばそうなんだろうけど)
思えば池田屋で負傷した時も、まだ僕に怯えていたくせに彼女は甲斐甲斐しく世話をしようとしていたっけ、と過去を振り返る。
あの頃は彼女のお節介を煩わしく思い、態度にもそれを隠そうとはしなかった。
しかし今は。
「心配してくれてありがとう」
「い、いえ・・・っ」
素直に礼を言うと千鶴は驚きに眼を丸くし、そして照れたように頬を赤らめた。
(あれ?)
千鶴の表情を可愛いと思うと同時に既視感のようなものを覚える。
それが何なのかを見極める前に、千鶴は「失礼しますっ」と一礼して慌しく走り去ってしまった。
引き止める間もなく逃げられ、一人立ち尽くす沖田はやがて苦笑を零した。
■■■■■
夜も更け、草木も眠りにつく頃。
沖田は濡れ縁に腰掛けて、自分の目にしか映らぬ少女と言葉を交わしていた。
あの後も、少女は現れたり消えたりを繰り返し、彼女を見つける度に沖田は少女に話しかけていた。
少女のたどたどしい言葉を繋ぎ合わせ、朧げな予感だったものがやがて確信へと変わる。
すっかり自分に心開いて笑顔も見せてくれるようになった少女に、沖田はある決意を秘めて切り出した。
「ねえ、僕と一緒においで。会って欲しい人がいるんだ」
不思議そうに首を傾げる少女に手を差し伸べると、小さな手で沖田の指を掴む仕草をした。
だが、彼女の手は沖田の指をすり抜けてしまう。
けれど幼い少女はそれに気づいておらず、沖田もまた彼女に気づかれないよう細心の注意を払った。
「こっちだよ」
少女の手から指が離れないよう、ゆっくりと歩き出すと、彼女も小さな足で沖田についてくる。
沖田が目指したのは、千鶴の部屋だ。
音を立てないよう、細心の注意を払って障子戸を開けて中に入る。
すでに明かりの消えた部屋の中では、微かな呼吸の音だけが静かな空間を満たす。
布団の中で無防備に寝息を立てる千鶴から少女に視線を移すと、彼女はじっと千鶴を凝視していた。
「ここが君が戻る場所だよ」
優しく言い聞かせるように言うと、少女は驚きに目を瞠った。
ああ、やっぱり彼女によく似ている。
「君がどうして一人で彷徨い出てしまったのかは解らないけれど、君が戻らないと皆が困るんだよね」
だからお帰り、と促すと、少女は泣きそうな表情で首を振った。
『でも、あの子をみつけなきゃ・・・』
「君一人の力じゃ無理だよ。どこにいるのか解らないんでしょ?」
尚も動かない少女の前に膝を着き、眼を合わせる。
幼く無邪気なだけだった表情が、少しずつ彼の知るものに変わっていくのが解る。
あともう少しだ。
「僕が一緒に捜してあげる。だから、戻ってよ、“千鶴”ちゃん」
名を呼んだ瞬間、彼女の中で明らかな変化が起きた。
見る間に空気に溶け込むように透明度を増す少女に、沖田は冗談めかして、けれど心からの本心を口にする。
「君が構ってくれないと、毎日がつまらないんだ」
消えゆく少女が、微笑んだ。
仕方ないですね、と言いたげに大人びた笑顔で 。
「・・・ん・・・?」
少女が消えると、間を置いて千鶴が眼を覚ました。
ぼんやりとした眼と視線が合い、沖田は冷やりとした風が通り抜けた気がした。
昨日の衝撃が蘇ったかのように、身体が硬直する。
またあの恐怖に満ちた眼を向けられたらどうしよう、と身構えた時、小さな声が「沖田さん・・・?」と呟いた。
しばらく夢現をたゆたうようにぼーっとしていた千鶴だが、ハッと起き上がるときょろきょろと周囲を見渡し、沖田を見た。
「えっと、私どうして寝ているんでしょう? 沖田さんと巡察に出ていたはず、ですよね?」
「良かった、思い出したんだ」
自然と笑みが広がり、細い身体を抱きしめる。
途端に腕の中の彼女がピシッと凍りついた。
それでも沖田が優しく頭を撫でていると、徐々に力を抜いて彼女が凭れ掛かるのを感じた。
「何だか長い夢を見ていた気がします・・・」
「どんな夢?」
「誰かを捜している夢でした」
「誰を捜しているの?」
「誰・・・でしょう? やっぱり父様でしょうか?」
「ふうん」
確かに、千鶴が捜す人物といえば雪村網道しか彼女にも沖田にも心当たりはない。
しかし、小さな“千鶴”の物言いからは父親ほどの年齢の相手ではないように感じた。年の近い友達、あるいは・・・。
千鶴も何か違う気がするのか、しきりに首を傾げている。
「早く思い出せるといいね。でないと僕が約束を果たせないし」
「約束?」
訊き返す声に返事はせず、沖田は千鶴をぎゅっと抱きしめ、腕を離した。
「そういえば子供達とも約束してたっけ。明日、一緒に遊ぼうね」
明るく言い放ち、沖田は軽い足取りで部屋を出て行った。
残された千鶴はわけが解らず座り込んだまましばらく動けなかった。
そうしているうちに徐々に己の状況が頭に入ってくる。
周囲を見渡せば今は夜。それもかなり遅い時間だ。
さっきまで寝ていたのだから当然自分は寝巻き姿で。
何故か沖田はさっきまで部屋にいて、しかもしっかりと抱擁までされてしまった。
冷静に一つ一つ確かめているうちに、襲い来るのは羞恥と混乱。
(い、いったいどういうことなの っ!!??)
その夜、彼女が眠りにつくことができなかったのは言うまでもない。
■■■■■
朝。
千鶴が記憶を取り戻したという報せに、事情を知る隊士達は一様に安堵し、喜んだ。
そんな中で爽やかな朝に似つかわしくなく、不機嫌さを隠そうともしないのが一人だけ。
「面白くない」
恨みがましげに半眼を据わらせ、沖田総司は言葉通りの態度で吐き捨てた。
やさぐれる沖田が座り込む広間には、斎藤や原田や永倉の姿もあるが、誰もが複雑な表情で沖田を見る。
「一緒に遊ぼうって約束したのに、何故平助なんかと巡察に行ってるのさ。しかも記憶が戻ったはずなのに僕を避けてない? いったいどういうことさ」
「いや、どういうことってお前・・・」
「千鶴からすりゃ無理ねえだろが・・・」
何とも言えない空気に永倉と原田の疲れたような突っ込みが虚しく溶ける。
二人の声など耳に入っていない沖田はぶつぶつとどうやって平助を亡き者にするか、と物騒な計画を練っている。
「そもそもあんたが夜中に千鶴に不埒な真似をしたのが悪いのだろう」
「不埒って何さ。僕は何も悪いことしてないよ」
バチッと斎藤と沖田の間に強烈な火花が散る。
そもそもの事の発端は昨夜のこと。
千鶴が記憶を取り戻した後、沖田はその足で土方の部屋に向かった。
相変わらず夜中まで机に向かっていた彼の元に突然現れ、「千鶴ちゃん記憶取り戻しましたよー」と能天気に言い放ったのだ。
それに対する土方の返事がこうである。
「今何時だと思ってやがるんだ総司!!」
鬼の副長の怒声は、夜の静寂を引き裂いて屯所中に響き渡った。
慌てて集まった彼らは、そこで事の次第を知ったのだった。
そして一夜明け、千鶴の自分達への怯えは全く見られず、一安心していたのも束の間。
彼女は沖田だけを避けていた。 真っ赤な顔で。
「そりゃ夜中に男と二人きりになって寝顔を見られ、あまつさえ抱擁までされちゃあ普通の女なら居た堪れないだろうよ」
しかも相手はとことん初心な娘である。
彼女の心境を思うと、流石に気の毒でならなかった。
一方沖田は、せっかく記憶を取り戻して自分に怯えなくなった千鶴と楽しく遊べると思っていたのに、その楽しみを奪っていった平助への恨みをひたすら募らせていた。
「今日が平助の命日かもね」
恐ろしい笑顔と共に紡ぎだされた言葉は、物騒なことこの上なかった。
ぞくっ
京の町を巡察する新選組八番組の組長は、突然背筋に走った悪寒に思わず足を止めた。
「どうしたの、平助君」
「いや、何かすげー嫌な予感が・・・」
「?」
わけが解らず、不思議そうに首を傾げる千鶴に平助の方も説明のしようがなかった。
とにかく嫌な予感がしたのだ。それも、自分の命に関わりかねないほど。
それが何なのかと訊かれても、自分の方が問いたいくらいである。
すると、そんな二人に近づいてくる人物があった。
「雪村さん、先日は大丈夫でしたか?」
二人の視線が向けられた先には、楚々とした美しい娘がいた。
「薫さん?」
「あの後、とても心配しておりました」
その言葉に、一昨日千鶴が殴られて気絶した現場に彼女もいたことを思い出す。
「あ、ありがとうございます。幸いにもたいしたことはありませんでしたから」
「そうですか」
千鶴に笑顔を向けた後、薫は口の中で小さく呟く。
「やはりあの程度では思い出さないか・・・」
「え?」
「何でもありません。ご無事だったのならいいんです。では」
そう言って、しとやかに一礼して踵を返す薫を、平助が「なあ」と呼び止めた。
「あんた、こいつを殴った奴の顔見たのか?」
「いいえ、突然のことに驚いてしまって、気が付けば逃げておりましたので」
「・・・ふうん」
胡乱げに薫を見ながらも、平助はそれ以上追及しなかった。
ちょっとでも覚えていたら教えて欲しいと言い募りたいのは山々だったが、ぐっと我慢する。
まさか不逞浪士でも何でもない町娘を問い詰めるわけにはいかないのだ。
今度こそ二人に背を向けた薫は、ゆっくりとした足取りで遠ざかっていく。
その口元に浮かぶ妖しい笑みに、気付く者はなかった。
〈了〉
13.3.20up
思いの他ほのぼのした話になりました。
何故沖田さんに子ちづちゃんが見えたかというと、
自分がいながら怪我をさせてしまった罪悪感や、
怯えられたショックが人一倍強かったからかと思われます。
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