彼女の願い





芯まで凍えるような蝦夷地の冬の朝。
京とはまた違う寒さに、春まで布団の中で丸まっていたいという願望を必死に耐えながら、相馬主計は自室の扉を開けた。

(話には聞いていたが、蝦夷地の寒さは生半可じゃないな)

下手をすれば建物の中でも凍死しかねない極寒。
京の寒さも相当なものだったが、まだ日中の陽射しの温もりがあるから救われた。
ここでは一日中雪が止まないという日が珍しくもない上、雪が止んだからと言って陽射しの恩恵があるわけでもない。むしろ降雪時より寒い場合すらある。

「よう、相馬。今朝も冷えるな・・・」

ほぼ同時に別の部屋から出てきて震える声でそう言ったのは、同僚の野村利三郎だ。
洋装の上に綿入れを羽織るという奇妙な格好だが、気持ちは痛いほどわかるから叱れない。

「戦の前に寒さで死んじまったら、俺死んでも死にきれねえよ・・・」

「そうだな」

とはいえそれが現実になりかねないのだから、蝦夷地の冬は恐ろしい。
火を絶やさないようにしたり、身体が温まる料理を作ったりとあれこれ工夫はしているが、地元民すら毎年凍死者が出るほどの厳しさだ。
冬を乗り越え、無事に春を迎えられる者が果たしてどれほどいるのだろうと、朝から憂鬱な気分になる。


外に出ると、すでに早起きの隊士達が屋根に上って雪を下ろしていた。
夜の間に降り積もった雪を協力して掻き下ろす作業は、すっかり日課になった。
相馬と野村も早速それに加わって、早朝の労働に精を出すのだった。

或る程度雪下ろしを終えれば身体が温まり、野村も綿入れを脱いでいつもの格好に戻った。

「さてと、そろそろ朝餉の時間だな」

「飯かあ、ここでの唯一の楽しみだよな」

「お前の楽しみは雪合戦だろう」

軽口を叩き合いながら大広間に向かう途中、どこからか聞こえてきた話し声に二人は足を止めた。
思わず声のする方を探したのは、聞こえたのがよく知る人達の声だったからだ。

「あれ、雪村先輩じゃねえ?」

「伊庭さんと話しているようだが、様子が変だな」

伊庭八郎と雪村千鶴。
春に江戸で別れた後、この蝦夷地で先日久しぶりに再会した二人だ。
所属は遊撃隊だが、伊庭は新選組幹部達と親しく、千鶴に至っては一年前まで新選組の一員で、局長付き小姓だった相馬達の先輩に当たる。
そんな二人が実は恋仲であるというのは、今や公然の秘密となっている。

いつもこちらが照れるほど仲睦まじい二人なのだが、どうも雰囲気がおかしい。
さらに近づいてみると、彼らの会話が耳に届いた。

「伊庭さん、お願いですから」

「駄目です」

「そんな、どうしてですか?」

「どうしても、駄目なものは駄目です」

「でも、このままじゃ」

「何と言われようと聞けません」

二人のやり取りに相馬と野村は唖然とした。自分達の見ている光景が信じられなかった。
千鶴のお願いなら何よりも優先して叶えようとするはずの伊庭が、彼女の懇願を突っ撥ねている。
千鶴が頼み込んでいるのに心を揺らさずにいられるなんて、自分達の知る伊庭とは思えない態度だ。

「もう、伊庭さんのわからずやっ」

あまりに頑なな彼に、とうとう千鶴が堪りかねたように叫び、踵を返して走り去ってしまった。
その後姿を見つめていた伊庭は、やがてぽつりと言った。

「わからず屋はどちらでしょうね、まったく」

「伊庭さん、いったいどうしたんですか?」

「先輩と喧嘩っすか? 珍しい」

声を掛けると、伊庭は意外な言葉を言われたとばかりに目を丸くした。

「喧嘩に見えましたか?」

「いや、どう見ても喧嘩でしたよ」

問い掛ける視線を向けられ、相馬も困った顔で頷いた。
この目で見ても信じられないが、あれは喧嘩だった。

「そうですか」

伊庭は思案するように首を傾げ、そのままどこへともなく歩き去った。

残された相馬と野村は、互いに困惑の表情を見合わせた。





■■■■■





「八郎と雪村が喧嘩だ?」

相馬達から持ちかけられた相談に、上司である土方歳三は素っ頓狂な声を上げた。
部屋に来るなり揃って深刻そうな様子で話し出すから何事かと思えば、何だそれは。

「その顔、信じてないですね? 本当なんですって! 俺らこの目で見たんですから!」

「誰も嘘だとは言ってねえよ。そうじゃなくてだな」

「あの二人ですよ? “すべて世はこともなし”を地で行く暢気で平和な二人が喧嘩っすよ? 天変地異の前触れかって思うでしょう!?」

「野村、相手は一応先輩小姓と元奥詰ってことを忘れてねえか?」

相手が誰であろうと遠慮のない奔放さは、沖田や永倉を思い出す。
思い返せば、相馬と野村によく稽古を付けていたのはあの二人だったか。悪い影響ばかり与えやがって・・・。

「伊庭さんに限って雪村先輩を泣かせるような真似をするとは思いませんが、何だか心配です」

「悪いこた言わねえから、あいつらのことは放っとけ。下手に関わらねえ方がいい」

「ですが・・・」

「土方君、ちょっといいかい?」

ノックの後、扉の向こうから聞こえたのは大鳥圭介の声だ。

「大鳥さんか。開いてるぜ」

「失礼するよ。隊の編成について意見を聞かせて欲しいんだけど」

執務室に入ってきた大鳥は、部屋にいるのが土方だけでないことに一瞬驚き、「お取り込み中かな?」と首を傾げた。

「すみません、俺達はすぐに出て行きますから」

相馬が野村を連れて部屋を出ようとしたとき、ふと思い出したように大鳥が言った。

「ところで、さっき雪村君と会って話したんだけど、様子が変だったよ。しばらく伊庭君と距離を置きたいって思い詰めているみたいで。あの二人、何かあったのかな」

「ゆ、雪村先輩が・・・?」

「それって、まずいんじゃ・・・」

あの沖田総司の我侭にすら耐え抜いた、菩薩の如く寛容な彼女に距離を置きたいとまで言わしめる事態。やはりただ事ではない。
顔色を変えて部屋を飛び出した二人は、土方が呼び止める間もなく廊下の奥に消えていった。

「大鳥さん、あんた余計なことを・・・」

「えっ? 僕何か悪いこと言った?」

土方は深い深いため息をついた。
面倒なことにならなければいいが――。


一方、飛び出したはいいが、こういう類いの揉め事を経験したことのない野村は、いったい何をどうすればいいのかわからなかった。

「どうしよう相馬、どうすりゃいいんだ? 雪村先輩に早まったことしないでくれって頼み込むのか?」

「まずはお二人の諍いの理由が知りたい。本山さんや遊撃隊の人達に話を聞いてみるから、お前は雪村先輩や伊庭さんの様子を見ていてくれ」

「わ、わかった」

二手に分かれ、相馬は本山の部屋に向かった。
江戸で別れた後、二人を一番近くで見ていた本山小太郎ならば、きっと何かわかるはずだと望みを懸けて。

事情を話すと、彼はぽかんと口を開けて凝固した。

「え、あの二人が喧嘩?」

「本山さんは何かご存知ではありませんか?」

この反応を見る限り何も知らないだろうとは思ったが、一応問うてみる。
答えはやはり、予想通りのものだった。

「いいや。あの二人が喧嘩なんて有り得ないって。きっと何かの誤解だよ」

そう言われるのも無理はない、と相馬は目を伏せた。
あんな場面に出くわしてなければ、自分だって信じないだろう。

野村が言っていたように、伊庭も千鶴も人一倍穏やかな性格だ。
伊庭が僅かながらも怒りを露にするのは、千鶴に対して誰かの悪意が向けられたときだけ。
互いに対する思いやりの深い二人の間で、諍いなど起きるわけがない。

やはり手掛かりは得られないのかと諦めかけたとき。

「あ、でもこの前雪村さんに妙なこと訊かれたな」

「妙なこと?」

「伊庭に頼みごとを聞いてもらうにはどうしたらいいだろうって。雪村さんが頼めば伊庭は何だって聞くよって言ったんだけど、納得してなさそうな顔だったな」

(先輩から伊庭さんに頼みごと、か)

相馬達が見たのも、千鶴が伊庭に何かを頼んで、伊庭がそれを断るという場面だった。
つまり千鶴にはどうしても伊庭に頼みたい何かがあるが、それは伊庭にとっては受け入れられないものということ。
それほどまでに伊庭が拒否するなら千鶴が無理強いするはずがないのだが、彼女にも譲れない一線なのだ。

決定的な意見の相違。
それが二人の間に生じているのだとしたら、綺麗に解決させるのは難しいかも知れない。


その後、相馬は何人かの遊撃隊の隊士や新選組隊士にも話を訊いてみたが、それ以上の情報は得られなかった。
誰に訊いても、二人の様子はいつもと変わらないという言葉しか出ないのだ。

野村と合流すると、二人は相馬の自室で互いの情報を交換し合った。
相馬が聞き込みをしている間、野村は千鶴の様子を探っていたらしい。
そして千鶴を見張っていれば、自然と伊庭もどこからか現れるのは今日もいつもと変わらなかった。

また言い争うのかと思いきや千鶴は普段通りに伊庭にお茶を淹れ、伊庭もにこやかにそれを飲んでいたという。
二人の間に今朝の諍いの遺恨はまったく感じられなかったと、野村は報告を締めくくった。

「わけわかんねえ。喧嘩してるならもっと空気がギスギスしてそうなのにな」

むしろ千鶴は「お疲れではありませんか?」「お部屋で休まれますか?」と伊庭を常に気遣っていた。
対して伊庭は「貴方のお茶を飲んだら元気になりました」と甘やかに答え、千鶴と盗み聞きしていた野村を赤面させた。
この一件が片付いたら二度と二人の会話を盗み聞きなんかしねえ、と野村は心に固く誓った。

「正確には“喧嘩”ではないのかも知れない。雪村先輩にはどうしても伊庭さんに頼みたいことがあり、伊庭さんはそれを拒否しているんだ」

「伊庭さんが嫌がる頼みごとなんて想像もつかねえよ。あの人、先輩が頼めば蝦夷の凍りついた海にだって飛び込みそうなのに」

「それとなく雪村先輩と話してみよう」

千鶴と話をする時間はいくらでも作れる。
伊庭の小姓という肩書きの千鶴は、役職に就いてはいない。
主に伊庭の身の回りの世話と、食事の支度や掃除など、細々とした雑事を担うくらいだ。
相馬や野村も共に厨に立ったり、一緒に掃除をすることも多い。その時なら話ができるだろう。





■■■■■





夕方、厨に来てみると、すでに何人かが準備を始めていた。
その中に千鶴の姿もあり、相馬と野村は彼女のもとに向かう。

「先輩、俺達も手伝います」

「相馬君、野村君、いつもありがとう」

礼と共に、柔らかな笑みを返される。思わずほっとする、心があたたかくなる笑顔だ。
入隊したばかりの頃、慣れない小姓の仕事を一から丁寧に教えてくれた彼女は、二人が失敗してもこんな風に笑みを浮かべて応援してくれた。
局長や副長、組長達とはまた違った意味で心から尊敬する存在。

江戸で別れたあと、散々世話になったのに何も恩返しができなかったことを、二人はずっと気に病んでいた。
そんな彼女が困っているなら、何としても助けたい。
それが二人が抱く強い思いだ。


夕餉の支度を手伝う間、相馬はどう切り出すべきか迷っていた。
一見、千鶴はいつもと変わりがないように見える。悩み事があっても他人に簡単に洩らすような彼女ではないが、切っ掛けがないとこちらも立ち入ったことを訊けない。
すると、口を開いたのは野村だった。

「そういえば、伊庭さんは食べ物に好き嫌いあるんですか?」

「美味しいものが好きなんだって。嫌いなものはわからない」

確か彼の趣味は食べ歩きだったか。京にいた頃は甘味屋巡りをしていたと聞いたことがある。
その頃の伊庭は将軍奥詰という輝かしい地位にいたはずだが、何をしに京に来ていたのだろう・・・。

「伊庭さんは島田さんと同じくらい甘味がお好きでしたよね。蝦夷地では手に入らないのが残念ですね」

作物が碌に育たないこの荒れた地では砂糖は非常に希少で、甘味などの嗜好品は存在しない。
本州から持ち込んだ分にも限りがある為、京にいた頃のように気軽に菓子を作ることはできなくなった。

「そうだね、甘味には疲れを取る効果もあるし、できれば食べさせてあげたいな・・・」

顔を俯かせる千鶴の様子が、少し変わった。隠しきれない翳りが顔に表れる。
今が好機だと判断し、相馬は思い切って問いかけた。

「先輩、もしかして何か困ってることがあるのでは?」

「俺達で良ければ相談に乗りますよ」

千鶴は困ったように二人を見た。

「私、そんなに顔に出てた?」

「いえ、そういうわけでは。正直に言うと、昼間先輩と伊庭さんが揉めているのを見てしまったんです」

途端、千鶴の顔が真っ赤になった。

「き、聞いてたの?」

「少しだけっすよ。何か珍しく先輩が伊庭さんに怒ってたから」

「だ、だって・・・あれは、その・・・」

じわぁ、と黒目がちな瞳に涙が込み上げてくるのを見て、相馬と野村はぎょっとした。
な、泣くのか? 俺達が泣かせた!?

しかし彼女の高ぶる感情は自分達に向けられたものではなかった。

「私は、伊庭さんのことが心配なだけなのに・・・」

「先輩・・・」

「なのに、伊庭さんは添い寝するって聞かないから・・・っ」

「「・・・・・・・・・・・・は?」」


添い寝?


「千鶴ちゃん、相馬君達が固まってますよ」

突然、この場にはいないはずの声が聞こえた。
振り向くと、そこには柔和な笑顔の伊庭八郎その人がいた。

「うわ、伊庭さんっ」

「いつからそこに!?」

「先ほど本山に千鶴ちゃんと喧嘩してるって本当かと問い詰められまして、気になって捜していたんです」

現れた伊庭に、千鶴は意を決したかのような勢いで高らかに宣言した。

「伊庭さん、今夜こそ私、一人で寝ますっ」

「駄目だと言ったはずですよ」

「ええと、それはいったい何故・・・?」

遠慮がちに野村が口を挟むと、伊庭は何をわかりきったことを訊くのかと言わんばかりに答える。

「夜は冷えるのですから当たり前でしょう。千鶴ちゃんが寒さで眠れないなんて、あってはいけませんから」

「だからって毎晩一緒に寝てたら伊庭さんがゆっくり休めないじゃないですか。せめて私を抱きしめて眠るのはやめた方が」

「嫌です」

「身体の疲れが取れませんよ」

「大丈夫です」

「伊庭さんたら」

「駄目です」

にべもない伊庭の態度が、昼間のそれとは違って見えてきた。これは――ただの痴話喧嘩だ。

「あの伊庭さん、そんなに心配なら温石を使えばいいのでは・・・?」

というか、温石がなくては相馬達だって眠れない。
皆そうしているものだと思っていたが、二人は使っていないのだろうか。

「温石なんかより千鶴ちゃんを抱きしめる方がいいんです」

あんたが先輩を抱いて寝たいだけかい。
零れ出そうになった言葉を野村は必死に飲み込んだものの、顔にはしっかり出ていた。

言葉を失う二人が見守る中、美麗なるかんばせに憂いを浮かべた伊庭がそっと千鶴の手を取り、請うように言い募る。

「千鶴ちゃんは僕の腕の中で眠るのは嫌ですか? 君のぬくもりがあると、僕はとても安心できるのに」

「ず、ずるいですっ。そんな顔で、そんなこと・・・っ」

湯気が出そうなほど真っ赤になる千鶴を、伊庭は優しく抱きしめる。
おずおずとしがみつく小さな手に気づいたのだろう。哀しげな表情が一転、満面の笑顔になった。
伊庭の背後で燦然と輝く“勝利”の文字の幻影が見えた気がした。


「えっと・・・」

「だから言っただろうが、下手に関わるなって。あいつらの喧嘩なんざ犬も食わねえんだよ」

いつの間に現れたのか、伊庭に劣らないほど整った容貌に呆れを滲ませた土方がすぐ後ろに立っていた。
彼の表情や目に宿る達観の色は、土方がこういう騒ぎに慣れていることを窺わせる。
試衛館や新選組で多くの変人達を纏めてきた彼の長年の苦労を垣間見たような気分だ。


この日、相馬と野村は一つの教訓を得た。

男女の揉め事には関わるべからず――と。



〈了〉

18.7.30up

真夏に真冬の話(汗)。
五稜郭に合流した日に伊庭さんと千鶴ちゃんは同衾したわけですが、
蝦夷地の夜のあまりの寒さに、その後も伊庭さんは千鶴ちゃんを抱きしめて眠っている
という妄想から生まれた話でした。



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