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鬼姫は眠る 八
「千鶴ちゃん、皆、無事に江戸を出られたみたいね」
江戸を発って会津を目指す道中、人通りのない雑木林で先回りしていたらしいお千に呼び止められた。
いつも傍に控える君菊の姿がなく、彼女は一人のようだ。
「あんた護衛も付けずに何やってんだ」
呆れた口調で言ったのは薫だが、全員が同じ意見なのは表情でわかる。
さっぱりとした気性から忘れがちになるが、お千はこれでも名家の姫君だ。
それでなくとも治安が悪くなる一方の昨今、若い娘がたった一人でこんな場所をうろついていいはずがない。
「どうしても千鶴ちゃんに伝えておかなきゃいけないことがあるのよ」
『何かあったの?』
張り詰めたお千の様子に、不安が芽生える。
この先を聞くのが怖い、と反射的に思ったが、それと同時に聞かなければ一生後悔するという確信もあった。
「彰義隊のことはもう知ってるわよね?」
『ええ、もちろん』
「箱根でも彰義隊の決起に呼応した旧幕府軍の部隊による戦があったらしいんだけど、かなりの打撃を受けたみたいなの。その部隊の名前が、遊撃隊だって」
『遊撃隊!?』
驚いたのは千鶴だけではなく、不知火以外の全員が目を瞠った。
彼らにとってその隊の名は、一人の男を思い出させる。
「確か伊庭さんの部隊でしょう? この前、千鶴ちゃんが言ってた・・・」
『うん・・・』
伊庭八郎――。
幕府直参旗本の侍で、新選組とも交流の深い人物であり、千鶴にとってはかつて兄のように慕った幼馴染でもある。
お千と伊庭は面識があった。京にいた頃、千鶴が伊庭と共に島原の辺りを歩いていると偶然お千が通り掛り、互いに名乗り合ったのが出会いだ。
江戸の実家に戻った千鶴を折に触れて訪ねてくれた時は、雑談の中で伊庭のことも話題に上った。
その時に彼が鳥羽伏見の戦で遊撃隊として戦ったと話したのを、お千は憶えてくれていたのだ。
「伊庭さんの行方は今お菊が調べているところだけど、とりあえず千鶴ちゃんに報せておこうと思って」
お千の伊庭への印象は良かった。彼からは、千鶴への純粋な好意が感じられたから。
千鶴の方も、随分と伊庭に心を許しているように見えて、内心微笑ましく思ったものだ。
そして、彼ならば――と密かに思った。
新選組の人達のように先の見えない危うい立場にいるわけでもなく、風間のように高圧的な性格でもない。
むしろ誰よりも千鶴との相性が良さそうで、彼が千鶴を大切にしてくれるなら、自分も出来る限りの手助けをしたいと思ったほどだ。
その伊庭が生死不明になったと知って、居ても立ってもいられなかった。
もしかすると辛い現実を千鶴に見せてしまうかも知れないけれど、自分が彼女の立場なら、どんな結果であろうと伊庭の安否を知りたいはずだと考え、報せに来たのだ。
案の定、千鶴は今にも伊庭のもとに飛んで行きたそうに、そわそわと落ち着きをなくしている。
「気になるのか?」
依り代として千鶴の魂を身に宿す薫には、妹の動揺が手に取るようにわかった。
心なしか、霊魂であるにも関わらず顔色が悪いようにも見える。
「もう死んでいるかも知れないぞ。それでも伊庭を捜したい?」
あえて最悪の結末を示唆すると、千鶴の顔が泣き出しそうに歪んだ。
『それでも、確かめたい・・・』
先日、不知火から齎された原田の死の報せが千鶴の脳裏を過ぎる。
ほんの数ヶ月前まで、京で共に笑い合っていた人達。
あの頃の賑やかな日々は、もう遠い過去の話のようだ。
鳥羽伏見の戦で井上が命を落とし、江戸に向かう船上では山崎が亡くなった。
江戸に戻ったのちも、新選組は甲府での戦に敗北した上、近藤の斬首に続いての原田の訃報。
彼らは、いつ死んでもおかしくない状況にあるのだと、改めて思い知らされる。
そして伊庭も遊撃隊として戦うことを決めた時から、彼らと同じように明日をも知れぬ命なのだ。
薫の言う通り、伊庭を捜してももう会えないかも知れないけれど、それでも自分の目で確かめたかった。
「なら行くぞ」
『兄様』
いいの?と不安げに問われ、薫は返事の代わりに相馬達に向き直った。
「ここからは別行動だ」
その一言で十分だった。
相馬も野村もすでに納得済みらしく、揃って頷いてみせる。
「俺達のことは気にしないで下さい。伊庭さんのご無事を願っています」
「先に会津に行ってるからな。また会おうぜ」
後輩二人の力強い言葉に、幾分心が軽くなる。
『不知火さん、二人のことをよろしくお願いします』
「おう、こいつらのことは任せときな。ちゃんと群れに帰しておくからよ」
「・・・あの、群れからはぐれた野生動物のような言い方はやめて頂けませんか」
不知火に抗議しつつも、言い得て妙だと思う自分もいて、相馬は複雑な気分になった。
そういえば新選組は京で壬生狼と呼ばれていたのだったか。
すると、同じことを考えたらしい野村が目を輝かせた。
「つまり俺達ってはぐれ狼? おお、何かかっこいいかも」
「いや、お前らは迷い犬だろ」
薫の容赦ない突っ込みに、不知火とお千が同時に噴出した。
そうして相馬達に一時の別れを告げ、千鶴と薫はお千と共に歩き出す。
大切な人の生死を確かめるために。
■■■■■
『ここに、伊庭さんが・・・』
伊庭の行方を追って辿り着いたのは、横浜にある英語翻訳家の家だった。
君菊が伊庭の親友である本山小太郎を尾行したところ、彼が人目を忍んでこの家を訪れていたことから、ここで伊庭が静養しているのではないかと当たりをつけてくれた。
家には医者が何度か出入りしているらしく、もしかすると誰かが怪我を負っているかも知れないとも聞かされ、否応にも伊庭の容態が楽観視できないものだと察せられた。
「俺はここで待ってるから、行って来いよ」
『うん』
薫に背を押されるように、千鶴はその家に向かって踏み出した。
玄関を通り抜け、『お邪魔します』と誰にともなく言いながら、見知らぬ人の家の中に入り込む。
人の気配はない。医者も今日は来ていないようだ。
(伊庭さん、どこにいるんだろう)
一つ一つ部屋を覗いてみるしかなさそうだ。
伊庭を探すためとはいえ、見ず知らずの他人の家を勝手に歩き回るのはやはり気が引ける。
幸い、目的の部屋はすぐに見つけられた。
布団が敷かれた一室に、その人は静かに横たわっていた。
『伊庭・・・さん・・・』
苦痛を耐えるように険しい寝顔ながら、数ヶ月振りに見る伊庭の顔だ。
江戸で最後に会った時と比べて少し雰囲気が違うのは、髷を切ったからだろうか。
おそらくは土方達と同じように、洋装に改める際に切ったのだろう。
ようやく伊庭に再会できた安堵よりも、傷だらけの痛々しい姿に涙が込み上げる。
「・・・っ」
どこか痛むのか、苦しげに呻く伊庭の右手が自身の左腕を掴む。
その瞬間、目に飛び込んできた光景に千鶴は息を呑んだ。
彼の左腕には幾重にも包帯が巻かれているが、そこにあるはずの手首から先がなかった。
『あ・・・あああ・・・』
心が、引き裂かれそうなほど痛い。
霊魂の身に流れるはずのない涙が、止め処なく溢れて頬を濡らす。
『伊庭さん、伊庭さん・・・っ』
透ける手でいくら触れても、伊庭の腕から左手が失われた事実は変わらない。
剣で生きる剣客が腕を失うことがどういうことか。自らも小太刀を学ぶ千鶴にだってわかる。
幼い頃、優しく頭を撫でてくれた、優しいお兄さんの手が大好きだった。
成長し、京で再会した伊庭が新選組屯所に訪れ、沖田や斎藤と試合をする姿に憧れた。
いくつもの記憶が溢れ、戻らない時への絶望の涙を流す。
「・・・くっ」
ふいに伊庭が身じろぎ、よろよろと上体を起こした。
『伊庭さん、駄目です! まだ寝ていなきゃ!』
自分の声は彼に届かず、触れることもできないのに、千鶴は必死に伊庭を布団に押しやろうとする。
しかし伊庭は右手に刀を取り、ふらつく身体を引きずって庭に面した障子戸を開け放った。
『あ、兄様』
玄関の方にいたはず薫が、何故か庭にいた。
まさか伊庭は彼の気配を察して動いたのだろうか。
薫の方も予想外の出来事なのか、目を丸くして伊庭を見ている。
「誰・・・ですか・・・?」
「驚いたな。俺の気配に気づいたのか」
薫は思わず感嘆の声を洩らした。
千鶴の慟哭の叫びについ庭まで入って来てしまったが、まさか気配に感付かれるとは思わなかった。
かなり衰弱しているようだが、彼は相当の実力者のようだ。
「・・・千鶴ちゃん? いえ、違いますね。何者です?」
薫の顔を見て驚愕に彩られた伊庭の表情に、冷酷な殺気が宿る。
『伊庭さん、お願いですから寝ていて下さい!』
「おい、俺が何者かはちゃんと説明してやるから、とにかく寝てろ。千鶴が泣いてる」
「・・・? 千鶴ちゃんがいるんですか? どこに?」
「お前のすぐ傍に、って、刀を抜こうとするな! そんな身体で無茶な奴だな」
性質の悪い冗談と受け取ったのか、怒りを湛えた眼が薫を睨む。
だが、千鶴によく似た面差しの顔が当惑に彩られている様に何かを感じ取ったのか、伊庭は殺気を収めた。
「貴方が何者かはわかりませんが、どうやら千鶴ちゃんと関係がありそうですね・・・」
「少なくとも敵じゃない。千鶴はお前には見えないが、確かにそこにいるんだよ。魂魄の状態で」
その瞬間、全身から力が抜けたかのように伊庭が崩折れた。
『伊庭さん!』
「お、おい!」
慌てて駆け寄ると、伊庭の苦痛に満ちた顔に涙が伝うのが見えた。
「魂魄ってどういうことですか? 千鶴ちゃんは・・・亡くなったのですか? いったい誰が・・・っ!」
「死んでないよ。今は俺の身体を依り代に霊魂の状態を維持してるんだ。身体には戻れない事情があるんでね」
「どういう、ことです?」
「説明してやるから、とにかく布団に戻るぞ」
伊庭の身体を支えてやりながら部屋に入り、布団の上に彼を寝かせた後、薫は改めて自分の名を名乗った。
「俺は南雲薫。千鶴とは十年以上前に生き別れになったが、双子の兄妹だ」
「千鶴ちゃんの、きょうだい・・・?」
生き別れになった経緯や江戸での再会、綱道との出来事など。
千鶴が驚きに目を丸くするほど、薫は伊庭に事実を包み隠さず話すことに躊躇いがなかった。
すべてを話し終えた後、伊庭はしばらく何も言わなかった。
眼を閉じて、事実を一つ一つ頭の中で整理しているのか、静寂だけが部屋の中を満たす。
やがて、敵意は消えたものの警戒心が覗く目が薫を見据えた。
「貴方の言葉を信じるに足る何かが、証明できますか?」
その問いも尤もだと、薫は思った。
こんな話をいきなり信じろなんて、無理な話である。
しかし薫は相馬達の時は面倒だとしか思わなかった事情説明が、伊庭に対してだけは苦ではなかった。
というのも、彼には同族にすら抱くことがない共感のようなものを感じているからだ。
そしてその思いを、素直に口にする。
「離魂したことで、千鶴はあんたの記憶を取り戻した。あの頃の千鶴が壊れずに済んだのは、あんたのお陰だ」
「?」
益々意味がわからない、と表情が語る。
育ちが良いのだろう。伊庭は感情表現がとても素直な人間らしい。
薫は、初めて“伊庭八郎”の名を知った日のことを思った。
魂魄となった千鶴と薫が江戸で兄妹として再会して間もない頃、薫は千鶴と二人きりで過ごす日々を大いに楽しんでいた。
もちろん早く千鶴をもとに戻さなければならないという思いもあったが、妹が自分を思い出し、『兄様』と呼んでくれる幸せは何にも変え難い。
そんな幸せいっぱいの日々を過ごす中、診療所に伊庭という男からの手紙が届いた。
物質に触れられない千鶴のために手紙を開いた薫は、視界に映った妹への好意に溢れた文面に、思わず詰問口調で「この伊庭八郎って何者?」と問いかけていた。
千鶴はどこから話そうかと少し躊躇い、心からの声で言った。
『とても、とても特別な人』
伊庭のことを語り始めた千鶴の表情はとても穏やかで、懐かしさと切なさが入り混じった複雑なものだった。
その表情で、伊庭が彼女にとって言葉の通り、とても特別な人間なのだと感じた。
――話は千鶴が“鬼姫”と共に記憶を封印した後、薫とも生き別れになった頃に遡る。
記憶を失ったばかりの頃の千鶴は、それまでとは別の意味で不安定だった。
自分が鬼であることも忘れ、両親や故郷、兄弟の記憶も失った幼い千鶴は、自分の置かれた状況が理解できずにいた。
そばにいたのは自分とそっくりな顔の男の子と、剃髪の中年の男。
しかし間もなく男の子はいなくなり、家には千鶴と中年の男だけが残された。
診療所を営む家には大勢の人達が出入りし、“先生”と呼ばれる男はいつも忙しく働いている。
診療所に出入りする人達は皆優しく、千鶴ににたくさん話しかけてくれた。
お陰で彼女は少しずつ状況を受け入れ始め、“雪村綱道”が自分の父親であると認識した。
それじゃあ、いつの間にかいなくなったあの男の子は誰だったのだろう。
綱道にそれを問いかけると、返ってきた答えは「そんな子はいなかった」だった。
不思議に思いながらも、ほんの数日過ごしただけの男の子の存在は、いつしか千鶴の記憶から消えていった。
だが、小さな千鶴の胸には常に不安が渦巻き、無意識に“誰か”を探し求めていた。
物分りの良い子供ではあったが、その気持ちが何なのかを理解できるほど大人でもなく、漠然とした不安を抱えたまま綱道の娘として過ごす日々を送る。
やがて、患者として訊ねてくる人達が気を利かしてくれたのか、同い年くらいの子供達が遊びに誘ってくれるようになった。
友達ができたことで、不安が薄れてきた矢先。
千鶴の身体の特異性が、子供達に知られた。
――化け物
子供達はそう叫び、千鶴に石を投げるようになった。
忘れかけていたはずの不安が、再び千鶴の中にどろどろとした感情を呼び起こす。
それは今思えば、綱道が毎晩千鶴に聞かせていた呪詛のような言葉の記憶だったのだろう。
あの時は千鶴の心が壊れる音を聞きつけた薫が助けてくれたが、守ってくれる兄はそばにいない。
『そんな私を守ってくれたのが、八郎お兄さんだったの』
石を投げた子供達を叱り飛ばし、千鶴を守ると約束してくれた優しい男の子。
武家の子息でありながら蘭学に興味を持ち、以前から診療所に訪れて本を読んでいた大人しい少年が、伊庭だった。
周囲からは変わり者だと思われていたらしいが、穏やかで優しい年上の少年のことが、千鶴は大好きだった。
そして彼が何度も繰り返してくれた言葉は、胸の中を覆い尽くしていた暗いどろどろを拭い去ってくれた。
“あなたは化け物なんかじゃない”
その言葉はかつて薫が何度も繰り返した“お前は鬼姫なんかじゃない”という言葉と同じように、千鶴への想いに満ちた優しい言葉だった。
この人は信じられる――。
そう、心から感じた。
その後、大人達に叱られたのか、子供達からの嫌がらせはなくなった。
再び友達に戻れることはなかったが、伊庭以外の同年代の子供がすっかり苦手になってしまった千鶴にはその方が楽だった。
幼い千鶴にとってただ一人の友達だった伊庭だが、しばらく経つと診療所に訪れなくなった。
そもそも侍の子供と町人の子供は、本来一緒に遊ぶことはない。
寂しがる千鶴に綱道はそう言って、「八郎君はきっともう来ないだろうね」と残酷な現実を突きつけた。
実際には、伊庭は千鶴にしばらく会えなくなるという手紙を認めていたのだが、その手紙が千鶴の目に触れることはなかった。
千鶴のために強くなり、偉い武士になって千鶴を守りたいという、幼くとも一人前の男のような誓いを、綱道は千鶴に伝えるつもりはなかったのだ。
一人ぼっちになった千鶴の胸の中に、またどろどろとした不安が芽生えそうになったが、以前までとは違ってその頃の千鶴には伊庭と過ごした記憶があった。
彼に貰ったたくさんの優しさを支えに、不安を胸の奥底に仕舞い込んだ。
そうして年月が過ぎ行く間に、伊庭の記憶は薄れていったが、彼の言葉はいつまでも千鶴の支えであり続けた。
傷がすぐに治るという特異体質を隠す約束も、心無い言葉に決して折れない強さも、すべては彼からもらったもの。
伊庭のことを忘れてしまっても、彼の存在は千鶴の奥深くで確かに根付いていた。
「俺がいなくなった後、千鶴の心を守ったのはあんただ。それについては、感謝している」
千鶴から伊庭の話を聞いた後、薫は彼に会ってみたいと思った。
会ったらまずは、感謝の気持ちを伝えたかった。薫ができなくなったことをやってくれた彼に。
「礼を言われるようなことはしていません」
そう言って初めて笑みを浮かべた伊庭だが、すぐに悔しげに顔を歪めた。
「僕の剣は、彼女を守るために磨いてきたものなのに、肝心な時に動けないなんて・・・っ」
「その怪我で会津まで行けるわけがないだろうが。いいからあんたは大人しく療養してろよ」
これほどの重症を負いながら、千鶴のために何も出来ない己に心底怒りを感じている伊庭の想いの深さに、薫は驚きを隠せなかった。
彼の剣の腕が一流であることは、先程自分の気配を察したことからもわかる。
本人の資質や恵まれた環境にいたお陰もあるだろうが、伊庭が剣を手にした理由の一端は千鶴を守るという幼い頃の誓いだ。
彼もまた、自分と同じように長い年月千鶴を想い続けていたのだろう。
(でももう、伊庭は刀を持てない)
血の滲む包帯に巻かれた、手首から先がない左腕。
いかに剣術が優れていても、片手で斬り合いはできない。
彼の剣士としての命は、断たれてしまったのだ。
「あんたは、これからどうするんだ? まだ戦い続ける気なのか?」
「僕は武士ですから。信じた道を進むだけです」
つまりそれは、これからも遊撃隊として戦うということだろうか。
伊庭の真意を測りかねていると、伊庭が薫の顔をじっと見つめた。いや、薫を通して千鶴を“視て”いるのだ。
「千鶴ちゃんは、憶えているでしょうか。幼い頃、交わした約束を」
伊庭と千鶴の間で交わした約束というと、彼女を守るという誓いのことだろうか。
いや、それは先程思い出したと言ったはずだから、別の何かか?
「僕は今でも諦めきれずにいるんです。・・・彼女と共に歩む、未来を・・・」
言葉尻は寝息の中に消えた。
軽く瞼を閉じて眠りに落ちる伊庭。相当無理をしていたのだろう。
『おやすみなさい、八郎お兄さん・・・』
優しく囁き、千鶴の透ける手がそっと伊庭の頬を撫でる。
夢うつつに千鶴の手の感触を感じているのか、寝顔はとても安らいだものだった。
「行くぞ、千鶴」
『うん・・・』
しばらく伊庭の寝顔を見つめた後、薫は千鶴を促して腰を上げた。
名残惜しげに千鶴が振り返る気配を感じながら、そっと障子戸を開けて部屋を出る。
初夏の日差しが一瞬差し込んだ部屋は、再び薄闇と静寂に覆われた。
〈次〉
17.3.30up
八話目です。
一話まるごと伊庭さんの話になりました。
伊庭さんの本編の出番はこれで終わりなので、書きたいことを詰め込みました。
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