選びし道の先





「お前に選ばせてやろう。切腹か、この薬を飲むか」

感情のない冷たい紫電の瞳が自分を見下ろし、淡々と告げた。
差し出された赤い液体に、言い知れない恐怖を感じた。
だが、自分が生きる道はその“薬”にしかなかった。

まだ死ねない。

その一心で、びいどろの瓶に手を伸ばした。

果たしてその決断は正しかったのか。
今更ながら己の判断に疑念を抱く。


あの時、死を選んだ方が自分にとっては幸せだったのではないだろうか。

こんな、死よりも辛い苦痛を味わうくらいなら。



身体の奥からこみ上げてくる苦痛に、抑えきれない呻きが漏れる。
喉が急激に渇き、燃えるような熱さが呼吸を奪う。

苦しい・・・苦しい・・・!

身体中が悲鳴を上げる。
心臓がどくどくと激しい鼓動を刻む音が聞こえるようだ。

(薬・・・早く薬を・・・っ)

いつも入れていたはずの懐に薬の包みの感触が無い。
無くなっていたことに気づかず、補充できていなかったのか。

迂闊だった。
巡察に出る前に、確かめておくべきだったのに。

暗闇の中でも紅く光を帯びる眼が素早く周囲を見る。
誰かに薬を分けてもらえないか。
仲間の誰か、もしくは今夜自分達を統率する組長ならば、薬を持っているはずだ。

そうしなければ自分は・・・。


「組ちょ・・・」

懸命に声を絞り出そうとした時、幾つもの荒々しい足音が聞こえた。

「新選組、覚悟!」

現れた男達が一斉に刀を抜き放つ。
対して今夜自分達を統率する組長、沖田総司は獰猛な笑みすら浮かべて刀を抜いた。

「覚悟するのは君達だよ」

一瞬ののちに吹き上がる血に、一層心臓が大きく脈打った。
他の仲間達も血の匂いに興奮し、黒かった髪を真っ白に染めていた。

これでは駄目だ。

霞む意識を必死に繋ぎとめながら、せめて血を見ないで済むようにと立ち並ぶ家屋の隙間に身を隠す。
そして震える手で腰に差した脇差を抜き、腕に当てた。

「くっ・・・!」

痛みに顔を歪める。
思いの他深く斬ってしまったようだ。

傷から溢れ出た己の血を啜ると、ふ、と苦しさが和らいだ。
見ると、傷はすでに塞がっていた。
己の身体がすでに普通の人間のものではないのだと思い知らされる。

何とか落ち着きを取り戻して仲間達のもとに戻ると、すでに戦いは終わっていた。
髪を白髪に染め上げた仲間達は、しかしまだ血に狂うことなく沖田組長の指示のもと浪士達を捕らえていく。

沖田組長はこちらに気づくと、にまりと笑った。

「君、さっきいなかったね。誰かの血を飲んだ?」

「自分の血です」

「そう、ならいいよ」

探るような目線には一欠けらの容赦も無い。
自分の言葉が嘘だった場合、彼は瞬時に刀を抜いただろう。

それは他の幹部が組長であっても同じで、沖田組長だけが厳しいわけではない。
彼らは自分達を統率する組長であると同時に、監視者でもある。
血に狂った者を容赦なく殺すのも、彼らの役目なのだ。


『自分の血など、たいした効果はない。やはり他人の血でなくては』

そう言って狂気に満ちた笑みを浮かべていた仲間は、先日幹部の手によって粛清された。

いずれ自分も、彼と同じ運命を辿るのだろうか。
そんな恐怖を抱えながら、自分は“新撰組”として戦い続ける。



そもそも自分は間者として新選組に入隊した。
だが、新選組副長である土方歳三と総長である山南敬助の目を掻い潜って動くのは容易ではなく、一瞬の気の緩みから間者であることを知られ、捕らえられてしまった。


『お前に選ばせてやろう。切腹か、この薬を飲むか』


壮絶なる拷問の後、告げられた言葉。

その時の自分には、まだ死ねない理由があった。
自分の忠誠は新選組ではなく、“本当の仲間達”にこそ捧げられていたからだ。
生きていれば、仲間達のためにまだ何かできるかも知れない。
いつかは故郷に帰れるかも知れない、という希望があったから、自分は“新撰組”となった。

けれど、自分が置かれた状況は過酷なものだった。
昼間は動くことができず、夜は厳しい監視下に置かれた。
何より、戦わねばならないのは己自身とだった。
仲間のために働くことも、家族のもとに帰ることもできない身体となり、生きることすら苦痛と感じる。

いや、そもそも生きているのかどうかすら、もう解らない。


そんな、生きる意味も希望も失った日々の中、不意に灰色の世界に彩りが灯った。

前川邸から見える八木邸の庭に、いつ頃からか姿を見せるようになった少年。
一見、まだ元服前の前髪の少年だが、自分の眼には“少女”に見えた。

着物越しにも解る、小さくて華奢な肢体。
所作には男の荒っぽさが微塵も感じられず、むしろ男では決して持ち得ない女の柔らかさを感じる。

何故新選組屯所に女がいるのかは解らない。
だが、故郷に残してきた妹と同じ年くらいの少女の存在は、いつしか心に安らぎを与えてくれるようになった。
巡察以外では前川邸から一歩も出られない自分では、彼女に話し掛けるのはもちろん、近づくことも許されないのだけれど。

起きていられる僅かな時間、遠くから眺めるしかできないが、どうやら彼女は幹部達の手によって屯所に置かれていることが解った。
彼女に話し掛けるのは幹部達だけで、一般隊士とはほとんど接触が無い。
彼女が望んで新選組屯所にいるのではないのだというのは、何人かの幹部のまるで彼女を監視しているかのような態度から見て取れる。

それでも幹部の傍で細々とした雑用をこなす彼女は、少しずつ屯所に馴染んでいった。
当初は強張っていた表情も、やがて可愛らしい笑みを浮かべるようになり、幹部達の態度も徐々に柔らかくなっていく。
その過程を見守りながら、自分もまた安堵した。
彼女が辛いだけの毎日を送らずにいられるのが嬉しかった。


「君はいつも雪村君を見ていますね」

ある日、いつものように密かに八木邸を見つめていた自分に話しかける声があった。
はっと振り向いた先には、気配を感じさせずに佇む一人の男の姿。

「そ、総長・・・」

新選組総長、山南敬助。いや、元総長か。
彼は先日、自分達と“同じ存在”となったのだから。

「何故あの子が気になるのです?」

物言いは穏やかだ。だが、目線は鋭い。
偽りや誤魔化しを一切認めない、刃のように鋭利な光が宿る。

「妹と、同じ年頃だったので・・・」

答えに総長は瞠目し、柔らかく笑んだ。

「そうですか」

隣に立った総長は、窓の向こうから聞こえてくる声に眼を細めた。

「雪村君には男の庇護欲をそそる何かがあるようですね」

聞こえてくるのは彼女の声と、もう一人は藤堂組長のようだ。
井戸で汲み上げた水を張った桶を運ぼうとする彼女に、藤堂組長が「俺が持つよ」と話し掛け、遠慮する彼女に「いいからいいから」と言い募る。
ここが京で恐れられる新選組屯所であるのを忘れさせるような微笑ましいやり取りだ。

「何故、彼女はここに?」

新撰組の一隊士でしかない自分が訊いて良いのか解らないが、ずっと抱いていた疑問が口をついて出る。
総長は気を悪くすることも、余計なことを訊くなとも言わず、淡々と呟いた。

「彼女の存在は、我々にとっても鍵となるかも知れません」

「それはどういう意味でしょう?」

しかし、総長はその問いには答えてくれなかった。
ただ底知れない深い色の瞳で八木邸を見つめていた。



それから少しして、新選組は西本願寺へと屯所を移した。





■■■■■





人ならぬ身となって数年が経っていた。

最近、自分の身の限界を実感する。
血を求める衝動が日に日に強くなり、間隔も短くなっているのだ。

それでも自分はまだ誰かを殺して血を啜ったことはない。
薬も、己の血も気休めにすらならず、苦しみは酷くなる一方だ。
このままでは誰かを殺して血を啜るようになるのに時間は掛からないだろう。

「俺を、殺して下さい」

もう限界だと悟り、総長に懇願した。
総長は痛ましげに自分を見つめ、「そうですか」とだけ呟く。


総長が自分達“羅刹”を救う手立てを模索していることは知っていた。
彼が羅刹には辛い昼間でも、変若水の研究をしているのも。
自分も何度かその手伝いをしたのだから。

そんな彼にこのようなことを言うのは裏切りにも等しいのかも知れない。
しかし、自分はもう何の役にも立たないのだ。

発作を抑える薬も、改良した変若水も、いくつも試してきたが、もう何をやっても自分には効かない。
薬が効かなくなった自分を、総長は強制的に眠らせることで救ってくれていた。

だが、起きればすぐに発作に苦しみ、自分が自分で居られる時間はほとんどない。
夜の巡察にも、出られなくなって久しい。

『血を飲め』

仲間達が幾度となくそう言い、血を飲まそうとしてくれたが、自分は結局自分以外の血を口にすることは無かった。
飲めば苦しみは消え、命永らえたのかも知れないが、どうしても飲めなかった。それが同じ羅刹の血であっても。

「何故そこまで頑なに血を拒むのです」

苦しむ自分に、総長が不可解だと言いたげに問うた。

どう答えれば良いのか。
ただ、一滴でも誰かの血を飲んでしまうと、そこで終わってしまうと思ったのだ。

「俺は、俺のままでいたい」

結局、相応しい言葉は何も思いつかず、理由になるかどうかすら怪しい子供の我侭のような言葉だけが漏れた。
その時、脳裏に浮かんだのは“本当の仲間達”や家族、そして“彼女”の顔だ。

変若水を飲み、羅刹となって、彼らに二度と会えないのだと解っていても、自分は“人間”であることにしがみ付いていたかったのだ。


苦しんで、苦しんで、苦しみ続けて。
それでも尚、楽になる道を選べなかった。





ふらふらと、不安定な足取りでどこかを目指して歩く。

自分はどこを目指しているのだろう。
そんな困惑とは裏腹に、己の足はひたすらどこかに向かっている。

やがて、一つの部屋の前で立ち止まる。

「誰ですか?」

障子戸の向こうから、柔らかな声が聞こえた。
この声は・・・。

声の主を思い出そうとする前に、身体が勝手に障子戸を開け放つ。
暗い部屋の中、敷かれた布団の上に座る寝巻き姿の女が一人。

ああ、そうだ、彼女だ。

自分がずっと見つめ続けていた娘。
髪を下ろし、寝巻きを纏う彼女は誰が見ても男には見えない。
早く彼女が本来の姿に戻れる日がくればいいのに、と思い続けていた。

だが、思い通りにならない身体は腰の刀を抜き放った。
何故自分は彼女に刀を向けているのだろう。
疑問と混乱が頭の中を駆け巡る。

そんな己の口からは、今まで出したことのない奇声が発せられた。

「血を・・・お前の血を寄越せ!!」

叫び、振り下ろされた刃が娘の柔肌を切り裂く。
吹き出る紅い血潮。
苦痛に歪む娘の顔。
すべてが現実味のない夢の出来事のよう。
彼女が流した血を狂喜しながら舐める己を、自分だと認識できない。

彼女の血は甘く、己の中から力が湧き上がってくるのを感じる。
血を飲むということは、これほどまでに甘美なものだったのか。いや、彼女の血だからだろうか。

もっと血が飲みたい。
身体がそう要求する。
更なる血を求め、刀を手に獲物を見据える。

血を流し、怯える少女を。

(駄目だ、彼女は・・・彼女だけは・・・っ!)

理性が叫ぶのに、身体はまったく言うことを聞いてくれない。
自分の身体を制御できない。
ただ血を求め、狂ったように声を上げる。

(誰か、誰か彼女を助けてくれ!!)

じりじりと彼女との距離が近づく。
止めろと叫んでも、刀を握る手は躊躇いなく彼女へと振り下ろされようとして。

「おい、生きているか!?」

現れた人物に、安堵した。
刀を手にした土方副長の、あの頃と同じ紫電の瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。

彼女を守るために、副長の刀が俺を切り裂いた。
そして次々と集まってくる幹部達。

血を求めて暴れる、意思のない身体を土方副長の刀が、原田組長の槍が貫く。


ああ、良かった。
これでもう、君を傷つけることはない。


そうして、俺の意識は闇へと消えた。





■■■■■





「申し訳ありません。私の監督不行き届きです」

そう言って山南敬助は倒れ伏した羅刹を見やる。


『殺して下さい』

彼がそう懇願したのは、昨夜のこと。
あの時に望み通り殺してやれば、こんなことにはならなかったのだろうか。

血を飲めば楽になると何度も言い聞かせ、他の羅刹隊士達も心配していたというのに、最後まで血を飲まなかった男。

結果、ここまで血に狂ってしまった。

妹のようだ、と心から慈しんでいた少女を襲うまでに。

(自分のままでいたいと、あれ程望んでいたのに・・・)

これが変若水が齎した結果だと言うのなら、自分達は何というものを生み出してしまったのだろう。


「雪村君、大丈夫ですか?」

彼が傷つけてしまった少女。
彼女が、彼が抱いていた想いを知ることはない。
知ればきっと、彼女は彼のために心を痛めてしまうから。


彼が慈しみ、そして傷つけた娘の血に触れた時。
山南もまた、羅刹の狂気の片鱗に触れる。



〈了〉

13.7.20up

千鶴ちゃんを襲った羅刹で妄想してみました。
羅刹は血を飲み過ぎても狂ってしまいますが、
まったく飲まなくても狂ってしまうようなので
我慢し続けた結果、こうなってしまったという話です。



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