渡り鳥の恋





『渡り鳥のような人ね』

哀しげに微笑んで、そう言った人がいた。
顔も名前もおぼろげながら、彼女と交わした言葉は今なお胸の奥に残り続けている。
痛みも未練もないのに、何故いつまで経っても消えないのか。それは未だにわからないまま。





江戸の片田舎の寂れた道場――試衛館。
小野派一刀流を極め、北辰一刀流の道場にも身を置いていた山南敬助にとって、ここはどこの道場よりも質素で貧しく、そして魅力的な場所だ。

純粋に強さを求める者達が集まり、政治を論ずるよりも木刀を振るって剣の腕を磨く日々。
それは名のある道場の者が見れば、時流を読めない愚か者の集団にしか見えないかも知れない。
しかし、大道場の息の詰まる世界に疑問と疲労を憶えていた山南は、試衛館に来てようやく息を吹き返せた気がする。

ここでなら、自分らしく生きられる。

初めて出会った日から、その剣技と人柄に惚れこんだ近藤勇という男を土方と共に相応の地位に押し上げること。
未だ無名だが、どこの道場よりも実戦的な流派、“天然理心流”の名を世に知らしめること。
途方もない、けれどやりがいのある目標を得て、毎日が充実している――と言えなくもないが、頭の痛くなる問題も山積みだ。
一つは、試衛館があまりにも貧乏だということ。道場主の人が好すぎるせいで、台所事情は常に火の車だ。
実家が裕福な土方のお陰で何とか食い繋いでいるが、もう一つの問題は、その原因となっている者達である。


「よし、誰もいねえみたいだな」

狭い廊下で身を潜め、こそこそ辺りを窺う怪しげな後姿を見つけたのは、気分転換に外に出かけようとしたときだった。

「土方さんや山南さんに見つかると厄介だからな、早いとこ行こうぜ」

「そうだな」

前方ばかり気にして、後ろにはまったく注意を払っていない不審な三人組。
三人のうち二人はかなり体格がいいので、狭い場所でひしめき合う姿は見ているだけで暑苦しい。
ふぅ、と小さく息をつき、山南は彼らの背後に忍び寄った。

「永倉君、原田君、藤堂君?」

びくうっと三人の肩が大きく跳ねる。
ぎ、ぎ、と壊れたカラクリ人形のような動きでこちらを振り向く強張った顔は、いかにも“やましいことがあります”と言わんばかりだ。

「さ、山南さん・・・っ、いつからそこに?」

「つい先ほどからです。ところで君達はまた吉原ですか?」

「い、いやぁ、別にそういうわけじゃ」

「そうそう、俺らは別に・・・なあ」

「おや、そうなのですか? 確か先日船の積荷を降ろす手伝いをしてきたと仰っていましたから、てっきり給金が入ったので吉原か賭場にでも繰り出すのかと思いましたが」

「「「うぅっ!」」」

一斉に仰け反るわかりやす過ぎる反応に、もはやため息しか出ない。金が入るとすぐこれだ。
山南が呆れ果てているのを察したのか、永倉がムキになって叫ぶ。

「山南さんは綺麗な姉ちゃんとお話したいとか、浴びるほど酒を飲みたいとか思うことないのかよ! いい大人だろあんた!」

「いい大人だからこそ、愚にも付かない欲望とは縁を切るんですよ」

「まだ若いくせに何枯れた爺さんみてえなこと言ってんだよ!」

「そういう君達は少しは忍耐というものを覚えてはどうなのですか。少し金が入るとすぐに酒だ賭博だと生産性のない使い方をして、逆に借金を作る始末。君達の行いのせいで試衛館の評判まで悪くなるのですよ」

そんなくだらないことに注ぎ込むくらいなら、何故散々世話になっている試衛館のために使おうとしないのか。
日頃の鬱憤もあり、懇々と説教を始めてしまう。すると――。

「まあまあ山南君、もうその辺で」

声とともに廊下の向こうから現れたのは、苦笑を浮かべる近藤と呆れた顔の土方、そしてにやにや笑う沖田だ。
助かった!と目を輝かせる三人だが、近藤の後ろに立つ土方から刃の如き視線を向けられて黙り込む。

「そういやあ源さんが今、庭で干し柿を作ってんだよなあ。三人とも暇そうだし、当然手伝うよな?」

「ハイ・・・」

「喜ンデ手伝ワセテイタダキマス・・・」

肩を落とし、とぼとぼ庭に向かう三人。これで今日は出掛けることなどできないだろう。

(まあ、どうせ明日になれば気を取り直して遊びに行くのでしょうけどね)

へこたれないところが彼らの長所である。それをもっと役立つ方面で生かして欲しいものだが。
そう考えたのは自分だけではないようで、土方は三人を追い払った後も苦味走った顔のまま無造作に頭を掻く。

「ったくあいつら、いつもろくな事考えやがらねえ」

「トシも山南君も、三人に対して厳し過ぎではないかな。彼らもたまには羽目を外したいときがあるだろう」

「あんたは甘過ぎるんだよ。そんなんじゃあいつらが付け上がるだけだろうが」

「そうですよ、近藤さん。彼らには多少厳しい方がちょうどいいのです」

そう言いつつも、彼らの実力は山南も土方も認めている。近藤を慕って試衛館の食客になったところも自分達と同じだ。
確かに困った連中だが剣や槍の腕は確かだし、人柄も信用できる。
これだけの面子が揃っているのなら――と希望を抱かせてくれる、頼もしい男達だ。
そんな彼らが存分に力を振るえるような環境を整えることこそ、土方や山南の役目だ。


「ところで山南さん、これからどこかに出かけるんですか?」

沖田の問いかけで、山南は自分が外出するつもりだったのを思い出す。

「ええまあ、散歩でもしようと思っていたのですが」

「じゃあ僕と一緒に近所の子達と遊びましょうよ。山南さんが一緒に遊んでくれたら、皆喜びますよ」

「そうですね」

沖田はよく近所の子供達と遊んでいる。
時々山南もそれに加わり、手習いを教えることもあった。
そのお陰で近所の人達から、子守の礼だと作物などを譲ってもらえるし、円満な近所付き合いとなっていた。

今日は特別な予定もない。沖田と共に子供達の相手をして過ごすのも良いだろう。
そう考えて外に出るや、聞き慣れた話し声が聞こえてきた。

「ったく、あの人、本当に男かよ。酒にも女にも興味ねえなんて有り得ねえだろ!」

「山南さんの歳なら、もう将来を誓った相手がいてもおかしくないよな」

「だが山南さんの周囲に女がいるのを見たことないぜ。土方さんはよく言い寄られてるが」

「きっと俺達の知らねえところで遊んでるに違いねえ。そうでなきゃ実は女じゃなくておと・・・」

「男より女子を好みますよ。それに私が一人身なのは、単に心惹かれる相手がいないだけです」

冷ややかな声に混じる静かなる殺気に、三人は凍りついた。

何と間の悪い連中だろう。
山南の後ろで土方と沖田は同時にそう思った。

そうして始まる長い長い説教の嵐。
巻き込まれる前にさっさと遊びに出かけた沖田が、夕暮れ時に帰って来る頃には流石に終わっていたが、精根尽き果てた三人組は板張りの床に寝っ転がって動かなくなっていた。心なしか、随分とやつれたような気がする。
死屍累々の部屋で唯一生存しているのは、土方だけだ。

「総司、帰ったのか」

「山南さん、新八さん達を相当締め上げたみたいですね」

「ま、鬱憤晴らしになっていいんじゃねえか」

自分に被害がないので、土方も沖田も余裕綽々だ。

「ちなみに単なる興味で訊きますけど、本当に山南さんには親しい女の人いないんですか?」

「俺が知る限りいねえな。誰に対しても当たり障りのない態度だしな」

「土方さんみたいに、もらった恋文を自慢することもないから山南さんの女性遍歴って謎ですよね」

「おい、俺は自慢したわけじゃねえ。お前が目敏く見つけて方々にばら撒きやがったんだろうが」

「そうでしたっけ? でも山南さんて、何かに執着したら凄そうですよね。惚れられた女の人が可哀想かも」

「山南さんも総司には言われたくねえんじゃねえか?」

「そんなに私の女性関係が知りたいのですか?」

割り込んできた声に、二人揃って押し黙る。
振り向けばいつの間にか入り口に山南が立っていた。いつものにこやかな微笑が薄ら寒い。

しかしここで怯まないのが、沖田と永倉達の差異である。

「山南さん、ちょうどいいところに。今日一緒に遊んだ女の子が、大人になったら山南さんのお嫁さんになりたいって言ってましたよ。結構可愛い子ですけど、どうします?」

「沖田君、暇なら井上さんを手伝って夕餉の支度でもしてきては如何です?」

「・・・つまんないの」

沖田といえど山南が相手では執拗に絡むことはできず、これ以上怒らせる前に退散する道を選ぶ。
残された土方は、気まずい空気の中で山南から目を逸らしつつ口を開いた。

「わ、悪かった、な」

「まったく、君達は揃いも揃って」

こいつらと一緒にしないでくれと抗議したいのは山々だが、ここは黙っていた方が賢明だろう。

「しかし、私が女遊びをしないというだけで騒がれるとは思いませんでしたよ」

「こいつらなりに、あんたに女っ気がないのを心配してるんじゃねえのか」

「むしろ永倉君の必死さの方が心配になりますけどね」

「だが山南さん、もしいい相手がいるなら俺達に遠慮することないんだぜ。所帯だって持ちたけりゃ持ったって」

「今の状況で結婚など考えられませんよ。明日食べるものにも難儀している有様ではないですか」

「・・・まあそうだな」

二人の視線が屍と化している三人に向けられた。
せめてこの連中が餓えないくらいに道場を大きくしなければ、土方も山南も所帯など持てないだろう。
嫁を娶ったところで、いらぬ苦労を掛けてしまうのは、近藤の奥方を見れば容易に想像できる。

「確かに、今あんたに道場より大事なものができるのは困るな。近藤さんを押し上げるのは、俺一人の力じゃ無理だ」

「この場所よりも大切に思えるものなど、そうそう出てくるとは思えませんね。お互いに」

違いねえ、と笑う土方の声をどこか遠くに聞きながら、山南は内心でぽつりと呟いた。

(結婚――ですか)

彼らが言った通り、いつの間にか所帯を持ってもおかしくない年齢になった。

普段おくびにも出さないが、そういった機会がこれまでなかったわけではない。
仙台藩士だった頃は何度か縁談を持ちかけられたし、脱藩して各地を点々としている頃にも近づいてくる女はいた。けれど、どんな美女が相手だろうと結婚に踏み切ることはできなかった。
別に相手に不満があったとか、見過ごせない欠点があったとかではなくて、一生を共にしたいとまで思えなかったのだ。

(私は意外と理想が高いということなのでしょうか)

己に情熱がないとは思わない。試衛館と近藤への想いの強さは、自分でも驚くほどなのだから。
もしもそれと同じくらい強い想いで誰かを愛することができれば、きっと全力で手に入れようとするだろう。

そんなことを思ったとき、誰かの面影が脳裏に浮かび上がった。
もうおぼろげにしか憶えていない女だが、その存在は何故か胸の内に刻み付けられている。
それは彼女の存在そのものというより、別れ際の言葉が印象的だったからだ。


“彼女”と出会ったのは試衛館に来る前、別の道場で剣術を学んでいた頃のこと。確か出稽古先の道場主の娘だったか。
試合後、山南の剣の腕にいたく感銘を受けた彼女が、頬を染めながら話しかけてきたのが始まりだ。

知り合ってから、彼女は山南が世話になっている道場に度々訪れるようになった。
目的が自分であることは誰の目にも明らかだったが、彼女から何も言われなかったため、山南もあえて踏み込む真似はしなかった。
周囲からそれとなく彼女との仲を進展させるよう働き掛けもあったけれど、そこまで心が動かなかった。

そうして月日が流れ、二人の関係に何の進展もないまま、山南がその道場を去る日が来た。
別れのとき、それまで何も言わなかった彼女が、想いを匂わせるようなことを口にした。

『行ってしまうのね? けれど私をあなたの行くところに連れて行ってはくれないのよね・・・』

『やめた方がいいですよ。いらぬ苦労を背負い込むことになりますから』

やんわりとそう言うと、彼女は泣きそうな顔で笑った。

『わかっていたのよ。私ではあなたを繋ぎとめられないって。あなたはいつも優しいけど、決して本心を見せてくれなかったから』

彼女とはたくさん話をしたが、何も印象に残っていない。自分が何を話したかもよく憶えていない。
取るに足らない会話――それだけだったから。

『今度、父の知り合いの方の紹介で人と会うことになったの』

『そうですか』

親の紹介で会う相手。彼女の様子から察するに、それは取りも直さず結婚に繋がる縁結びだ。
余程の事情がない限り、とんとん拍子で決まってしまうもの。

それがわかっていても、山南の心は些かも揺れなかった。
彼女を連れて行きたいとも、傍に置きたいとも思わなかったから、いつもの笑顔で告げた。
『幸せになってくださいね』――と。

みるみるうちに涙が込み上げて揺れる目が、まるで存在を焼き付けようとするかのように、こちらをじっと見た。

『あなたは渡り鳥のような人ね。時が来れば何の未練も残さずに飛び立っていってしまう』

結婚するかも知れないとほのめかしても、何の執着も見せなかった山南の態度に、ただその程度なのだと思い知るには充分過ぎた。
その傷ついた目と言葉が、初めて山南の琴線に触れた。

『あなたにも、どこまでも共に生きたいと思える存在ができるといいわね。敬助さん』

決して手放すことができない。
そんな相手が現れたら、あなたはどんな顔をするのかしら。

いつかあなたが本気で欲しいと思える相手が現れたなら、その人に散々焦らされればいいわと冗談めかした恨み言を吐き、彼女は背を向けて去って行った。

その背を追おうとは思わない。自分ではない誰かとの結婚も、心から祝える。
なのに彼女との最後の会話だけは、いつまでも心に残って消えなかった。



ふっと目を開けると、あの頃いた道場とは比べ物にならない寂れた道場が目に映った。
日々の暮らしは貧しいが、この“試衛館”こそがようやく得られた自分の場所だ。

(試衛館や近藤さんより大切な存在、か)

そんな相手が自分や土方に現れるのだろうか。
現時点では、見果てぬ夢よりも尚遠く感じられる。





■■■■■





「山南さんは仙台のご出身なんですか?」

すっかり夜も更けた時刻、差し入れのお茶を手に山南の部屋を訪ねてきた少女――雪村千鶴と何気ない会話を楽しんでいると、不意に彼女が興味深げに声を上げた。

「ええ、そうですよ。会津と同じ陸奥の国です」

「私も陸奥の生まれなんです」

「それは奇遇ですね。仙台ですか? それとも会津?」

意外な接点に、山南の声も心なしか弾んだ。

「詳しい場所まではわかりませんが、五つくらいの歳まで陸奥の山の中の集落で暮らしていたと父から聞いたことがあります」

「雪深い山の中の暮らしは、さぞ大変だったでしょうね」

あまりにも不便だから、山を下りて雪の少ない江戸に移ったのだろうか。
千鶴の父、雪村綱道とはこんな立ち入った会話はなかったので推測するしかない。

「陸奥の国ってどんな所ですか? 私、その頃の記憶が全然なくて」

「そうですね。陸奥と言っても広いですが、共通しているのは冬はとても寒い場所です。京の寒さも身に堪えますが、それとはまた違う寒さで・・・」

故郷のことなど普段は気にもしないのに、語り始めれば言葉が溢れ出た。
彼女がじっと聞き入ってくれるから、つい話が止まらなくなってしまう。

やがて言葉が途切れると、千鶴がそっと尋ねた。

「ご家族に会いたいと思うことはないんですか?」

「以前はたまに手紙を送っていましたよ。今は私は死んだことになっているのでやめてしまいましたが」

「・・・・・・」

「そんな顔をしないでください。私はとっくに割り切っていますから」

それは本心だ。家族が気がかりではないといえば嘘になるが、脱藩すると決めたときから二度と仙台の地を踏まない覚悟はしている。
今更過去を思い出したからと言って、感傷に耽るほどの思い入れもない。

尚も晴れない千鶴の表情に、山南はちょっと困った。彼女には暗い顔なんてして欲しくないのに。
しばらく考えたあと、話題を変えることにした。

「ねえ雪村君、結婚とはどういうものだと思いますか?」

「けっこんっ!?」

何故いきなりそんな話に??

くるくると変わる千鶴の表情は、思っていることがわかりやすくて面白い。

「私には縁のないものなので、ちょっと他の方の意見を聞いてみたくなりまして」

「こ、心に決めた人と一生添い遂げること、ですよね・・・」

「添い遂げる、とは具体的にどういう意味でしょうね」

「お互いに慈しみ、支え合って生きることだと思います」

「支え合う・・・」

誰かを支え、誰かに支えられる。
確かに一生共に暮らすなら、大事なことだ。

(支えてもらうことなんて、考えたこともありませんでしたね)

いつも自分は誰かを支える立場にいた。自ら望んでそうしたのだが、逆の立場になることなど想像もしなかった。

(そうか、だから――)

過去の話をしたせいか、山南の前に現れては通り過ぎていった女達が浮かぶ。
とりわけ、彼を『渡り鳥』と称した女が思い出される。


茶を飲む振りをしながら、ちらりと千鶴を盗み見た。
他の女達とは違い、彼女との会話はどんな些細なものでも不思議と憶えている。
その違いが、ぼんやりとだがわかった気がする。

(雪村君はいつでも私に寄り添おうとしてくれていた)

腕を負傷していた頃は、いつも力になろうとしてくれた。変若水を飲もうとしたときには必死に止めようとして、羅刹となったあとは何かと世話をしてくれた少女。
邪魔になればいつでも殺すつもりだった娘なのに、何故か無視できなかった。

(彼女の言葉が私のためのものばかりだったから、忘れられないのでしょうね)

思っていた以上に、自分には子供染みた一面があったらしいと自嘲する。

過去の女達との会話が心に残らなかったのは、それが山南への要求ばかりだったからだ。
私を見て欲しい、振り向いて欲しい、私を好きになって欲しいと。
恋をすれば当然抱く感情なのだが、それだけでは山南に届かなかったのだ。

千鶴は彼女達とまったく違う。
山南への言葉の中に恋情の類はなく、ただ心配の色だけがあった。

(それが嬉しかった)

『あなたは渡り鳥のような人ね』

ただ山南を見つめ続け、彼からの行動を待つだけだった彼女が別れ際に残した言葉が印象的だったのも、彼女が初めて山南のために紡いだ言葉だったから。
恨み事や愚痴の類いだとしても、自分にだけ向けられる想いならば心に届く。

(私が求めていたのは、そんな女性か)

想われ、守られるだけで満足するような女ではなく、共に歩み、支えてくれるような心の強い女性。
例えば、無防備にも夜中に男の部屋を訪れ、少しでも心の慰めになればとたくさんの話題を持ってきてくれる、目の前の彼女のような。

今更それがわかったところでどうにもならないのだけれど――。

「貴方と結婚する男は幸せですね」

「い、いきなり何ですか?」

真っ赤になって慌てる様子に、くすくすと笑う。
一瞬驚いた顔をした千鶴が、ほっとしたように微笑んだ。

胸の奥にちらりと灯った炎に、山南は気付かぬ振りをして蓋をした。
それはもはや自分が抱いていい感情ではない。

(私は死者なのだから)

暗い世界に、日の下を歩く生者を引きずり込んではならない。
彼女となら一生添い遂げてみたいと望む心を封じ、いつもの穏やかな笑みだけを口元に刷く。


常に女達との間にやんわりと引いてきた一線が、千鶴との間にだけは引けないことを悟られないように。





障子戸を小さく透かし、周囲に人の気配がないのを入念に確認した千鶴は「それではおやすみなさい」と山南に告げてから素早く廊下に出た。
ひんやりとした夜風にふるりと身が竦む。
けれど千鶴の胸は不思議とぽかぽか温かかった。

(今夜の山南さんは機嫌が良かったみたい)

皮肉めいた笑みでも自嘲のそれでもなく、本当に楽しげに笑ってくれた。
それが嬉しくて、ひとりでに口元に笑みが浮かぶ。

自分が山南のために何かができるとは思わないけれど、僅かなりとも彼の抱える苦悩を和らげてあげられればいい。

明日は二人で何を話そうか。
そんなことを取り留めなく思う少女の中には、一人の男への想いが確かに芽生えつつあった。



〈了〉

18.11.30up
12.10加筆修正

山南さんなら結婚を意識するような相手が過去にいてもおかしくないと思って出来た話です。
ただ一生のことなので、この人だという確信がないと動かない人でもあるかと。
人当たりが良さそうに見えて、そういう面で相手に期待を抱かせないようにするのも上手そうですが、
本気になってしまった女性にとっては酷い男ですよね。。



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