唯一の人





「深く森に入り過ぎちゃったかなあ」

山道を覆う木立の中、一人の娘が途方に暮れたような面持ちで立ち尽くしていた。
左手に持つ籠の中には採れたての山菜がこんもりと積まれ、彼女が山菜採りに夢中になる余り、知らず知らずのうちに随分と山深く入ってしまったことが窺える。

「私、どこから来たんだっけ?」

心許なく周囲を見渡すが、不安に満ちた心境では己の辿った道筋を正確に思い出せない。

しん、とした静寂の中、突然ガサガサと葉擦れの音が聞こえ、ぎくりと身を強張らせる。
音の発生源を探して巡らせた視線の先で茂みの中から兎が飛び出してきたかと思うと、それは彼女に眼もくれず一目散にどこかに走って消えた。

現れたのが害のない小動物であったことに安堵し、娘は深く息を吐く。
だが、これから凶暴な野生の獣に遭遇しないとも限らない。日が暮れる前に山を下りなければ。

道は解らないが、とにかく下山しようと足を踏み出した時、再びガサガサと音が聞こえた。
先程より大きな音に身を竦ませた時、続いて聞こえてきたのは人間の声だ。

「兎ー、どこ行ったー!?」

茂みを掻き分けて現れたのは、娘と同じくらいの年頃の青年だ。
弓矢を手にしているところを見ると、さっきの兎を狩ろうとしていたのだろう。その顔に見覚えはなく、村の人間ではなさそうだ。

彼は立ち尽くしている娘の存在に気付くと、ぽかんとした表情で足を止めた。

「え? 誰?」

「あ、あの、私・・・っ」

人間に会えたことへの嬉しさから、娘はへなへなとその場に座り込んだ。
涙を浮かべる彼女の様子に青年はうろたえていたが、縋るような視線に気付くと遠慮がちに問いかける。

「え〜と、もしかして迷子とか?」

「うっ・・・・・・そうです・・・」

恥ずかしげに頬を染めて俯く娘の耳に、青年の笑い声が届く。
その朗らかな響きに、笑われることへの不快感は覚えなかった。

「送って行ってやるから、付いて来いよ」

「あ、ありがとうっ」

初対面の相手だが、不思議と彼の言葉を疑う気持ちは湧いて来ない。
先を歩く青年に小走りで追いつくと、彼はひょい、と娘の手から籠を取り上げた。

「俺は平助っていうんだ、よろしくな」

「私は花、あの、平助さん、籠・・・」

「お前の村まで持って行ってやるよ」

でも、と戸惑う花に、平助と名乗った青年はいいからいいから、と明るい笑みを返す。

人懐こい笑みはまるで少年のようだが、若草色の瞳には思慮深さが窺える。同い年くらいかと思っていたが、見た目よりも年を重ねているのかも知れない。
男性にしては小柄だろうか、花自身も同じ年頃の娘に比べると小柄なのだから、横に並ぶとちょうど釣り合いが取れているように思えてくすぐったいような気分になる。

「それにしても、こんな山の中まで女の子が一人で来るのは危険だぜ? もっと気をつけろよな」

「うん・・・色々と考え事してたらいつの間にか道が解らなくなっちゃったの・・・」

「何か悩み事か? 話くらいなら聞くぜ」

しょんぼりと肩を落とす花に、平助が優しく尋ねてくれる。
外見だけなら少年っぽさが抜けないが、やはり平助は大人の男のようだ。

図体ばかり大きくて思慮の欠片もない村の男共とはまるで違う。
そのことに安心したのか、花の口からは自然と言葉が紡ぎだされていた。

「最近ね、村にお医者さまの父娘が来るようになったんだ」

その言葉に平助がピク、と反応する。

「娘さんの方がそれはもうしとやかで可愛らしい女性で、村中の男が皆憧れてるの」

「へ、へえ・・・」

ピクピク、と平助の顔が不自然に引き攣るが、どこか遠くを見るように過去に想いを馳せていた花は気付かなかった。


ふた月ほど前になるだろうか。
その日、狩りに出掛けていた男達の一人が大怪我を負って帰って来たことがあった。
そこにふらりと現れた壮年の医者が、手際よく男を手当てしてくれたお陰で彼は一命を取り留めた。

医者は雪村網道と名乗り、この近くに住んでいるという娘を訪ねて村に立ち寄ったのだと言う。
それからというもの、手当てをした男の傷の経過を診るため、網道は再会を果たしたという娘と共に度々村に訪れてくれるようになった。
その評判を聞き、近隣の村や町からも患者がやって来るようになったのだが、若い男の中には娘の“千鶴”を目当てにしている者も多かった。

花の周囲の男達の最近の話題といえば、やはり“千鶴”だ。
優しく可憐な彼女を褒め称え、彼女と比べて村の女を貶すような台詞すら零れる。


「それで、幼馴染の男に言われたのよ。“お前に千鶴さんの半分でも女らしさがあればな”って! 失礼だと思わない!?」

その時の怒りが甦り、花の口調も荒くなる。
険しい目線で隣を仰いだ花は、やたら不機嫌そうに顔を顰めている平助の表情に気付いて勢いを削がれる。

「村の男共・・・そんな眼であいつを見てんのかよ・・・」

「平助さん?」

剣呑な響きの低い呟きに、花が戸惑いながら名を呼ぶと、平助はハッと我に返ったように纏っていた不機嫌全開の雰囲気を打ち消した。

「わ、悪い、ちょっと考え事を・・・えーと、それで、何だっけ?」

「だからね、私の幼馴染の馬鹿男が千鶴さんと比べて私を貶すのが悔しいって話」

「何だ、その馬鹿。お前はお前じゃん、何で別の女と比べてるんだよ」

わけが解らん、と眉根を寄せる平助の言葉に、花は嬉しさが込み上げてきた。

(やっぱり平助さんは違う)

この人なら、自分を自分として見てくれるかも知れない。
村の男達のように、誰かと比較して他者を貶したりはしない彼なら  

村に着いたらまた来てくれるか尋ねようか。それとも会いに行っても良いか訊いてみようか。
そんな期待に胸を弾ませているうちに、山道は見慣れたものとなっていく。村が近いようだ。


「この村で良いんだよな?」

村への入り口に差し掛かると、平助が問いかけた。

「うん、ありがとう。ね、良かったらうちに寄って行って。お礼したいから」

「いや、礼なんていいよ。それより、もう山奥には入って来るなよ?」

そう言って花に籠を差し出す平助は、受け取ったらすぐに背を向けてしまいそうだ。
焦りながら、縋るような眼でひたむきに平助を見つめる。

「ねえ、そんなこと言わないで。お世話になりっぱなしだと私の気が済まないの」

言い募られ、平助は困惑の表情となる。
彼を困らせていることは解っていたが、このまま平助を行かせてしまうと、二度と会えなくなるのではないかという不安が花の中に渦巻いていた。

消えてしまいそうな彼を引き止めるように腕を掴んだ時。

「ちょっと藤堂さん? まさか浮気してるんじゃないでしょうね?」

険を含ませた若い女性の声が空気を裂く。
花が振り向くより早く、平助の慌てた声が反論した。

「俺は千鶴一筋だっての! て、あれ?」

いつの間にそこに現れたのか。
花の後ろには綺麗な女性が二人と、男性が一人立っていた。
三人とも見覚えがなく、村の外からやって来たのだろう。

「り、龍之介じゃん! 何でお前が千姫と一緒に居るんだよ!?」

三人のうち、男性を指差して平助が驚きの声を上げる。
どうやら彼はこの三人を見知っているようだ。

「何よ。千鶴ちゃんからの手紙で井吹さんのこと尋ねてきたのは藤堂さんでしょ? だから連れて来てやったんじゃないの」

「そういうわけで連れて来られた」

どことなく彼が疲れ果てているように見えるのは気のせいだろうか。

「いや、俺は龍之介が無事で生きてたならそれで良かっただけで・・・」

口の中でもごもごと呟いていた平助だが、すぐにそれは満面の笑顔となる。
龍之介と呼ばれた男性も親しげに笑みを浮かべ、どちらからともなく近づいた二人は同時に拳と拳を合わせた。

「久しぶりだな!」

「元気そうだな」

何年も会っていなかったのだろうか。
二人の間には様々な感慨が溢れているように見えた。

互いの近況報告が交わされている様子を花が茫然と眺めていると、二人の女性の会話が耳に届く。

「姫様、千鶴さんが・・・」

「あ、本当。診察終わったみたいね、千鶴ちゃーん!」

その声に平助も話をやめてそちらに視線を向けた。

「お千ちゃん、君菊さん、お待たせしました」

こちらに近づいて来るのは、花も見知った顔だ。
現在村の男達の関心を一身に浴びている女性  千鶴。
後ろには網道の他、ここぞとばかりに彼女に話し掛けようとしている男達の姿もある。
彼らは千鶴の他にも綺麗な女性が二人もいることに驚き、ざわめいている。

(彼女達に迷惑掛けなければいいけど)

花が心配そうに見守っていると、平助が千鶴に向かって駆け出した。

「平助君?」

「千鶴!」

衆目の中、平助は千鶴に駆け寄ると勢いのまま彼女を抱きしめた。
男達の息を呑む音が聞こえたような気がする。

そして平助は、彼らにも聞こえるように声を張り上げる。

「迎えに来たぜ、家に帰ろう!」

「うん、そうだね。井吹さんとはお話できた?」

周囲の様子には気付いていないのか、千鶴はにこにこと笑顔を浮かべている。

「さっき会ったばかりよ。新婚さんの家にお邪魔するのは気が引けるけど、千鶴ちゃん達の家でゆっくり話しましょ」

笑顔でそう返すお千と呼ばれる女性の声も、空気を揺らして男達にも届けられる。明らかに牽制が含まれている気がしてならない。男達に対してだけでなく、花に対しても、二人の仲を思い知らせるように。

(平助さんと千鶴さんが夫婦・・・)

告げられた真実に、胸の奥に痛みが走った。
衝撃を受けたのは後ろの男達も同様で、嘆きの声がそこかしこで上がっている。

「気にしないで、お千ちゃん達なら大歓迎だから。でも少し待ってね、診察代にお野菜を下さるって方がいらっしゃって、待っているの」

千鶴とお千の会話が弾み始めると、どこか達成感を帯びた表情の平助が龍之介の傍に歩み寄る。

「お前、恥ずかしい奴だなあ」

呆れたようにそう言う龍之介に、平助は「何言ってんだよ」と強い口調で返した。

「俺の千鶴に変な虫が付かないように徹底的に駆除しなきゃいけないんだよ」

「平助さん、千鶴さんと夫婦なの?」

「ああ、そうだよ」

誇らしげに頷き、ふと柔らかな眼を花に向ける。

「千鶴はさ、女の格好している今は本当に美人だけど、俺と初めて会った時は男装してたんだぜ? 仲間の中にはすぐに千鶴が女だって解った奴もいたけど、俺は最初全然気付かなかったくらいなんだ。今より幼かったし、色気なんて全然なかったからな」

懐かしげに語られた思いがけない過去に、花は眼を丸くして平助を凝視した。

何故彼女が男装していたのか、とか、どうやって二人が親交を深めていったのか、とか。
訊きたくて堪らなくなるが、好奇心で暴くことを躊躇わせる何かが平助から感じ取れた。

「けどさ、あいつの優しさとか明るさとか強さとか、全部がいつの間にか俺にとって何より大切なものになっていったんだ。諦めかけた時もあったけど、あいつは俺を選んでくれた」

「そう・・・なんだ」

「俺の周りには、俺よりすごい奴が何人もいたんだ。俺より背が高い奴ばかりで、俺より強い奴ばかりで、悔しいくらい男前で、悩んでばっかの俺なんかよりしっかりと自分の信念を持ってるすげー奴らばかり。そんな中で、あいつは俺を見てくれた。情けないところばかり見せたけど、ずっと傍にいてくれた」

平助の話を聞くうちに、もしも千鶴より早く平助と出会っていたなら自分を見てくれただろうか、という考えは消え去った。
彼らがどれほどの試練を二人で共に乗り越えたかも知らずに、そんなことは思えない。

「こんな俺にも千鶴っていう大事な奴がいてくれるんだ。お前だっていつかは自分だけを見てくれる唯一人の大事な奴が現れるよ。誰かと比べて悩む必要なんてないから、胸張ってろよ」

「うん・・・そうだね・・・」

それは貴方であって欲しかった。
そう言ったら、きっと彼は困ってしまうのだろう。

花の想いなど知らぬまま、平助は晴れやかな笑顔を浮かべる。


「何のろけてやがるんだよ、お前は」

うんざりした口調で龍之介が口を挟む。
そんな彼に、平助はにんまりと笑った。

「へっへーん、羨ましいだろう。お前はどうなんだよ、良い人見つけたか?」

「なっ、俺のことはどうでもいいだろうが!」

ぎゃあぎゃあと賑やかな応酬が始まり、二人はもう花のことなど眼に入っていないようだ。


やがてたくさんの野菜を抱えた彼らが村を出る頃には、西の空が真っ赤に染め上げられようとしていた。

山の中へと消えていく背中をいつまでも見送りながら、花は一粒だけ涙を零す。
始まったと思った瞬間に消え去った淡い恋。
その切ない痛みの余韻は、いつまでも消えることはなかった。


そんな彼女を見つめる一人の男が、芽生えた熱に捕らわれたことに気付くこともなく   


数年後、彼女が幼馴染の男との可愛い子供に恵まれることなど、今は誰も知る由もない。





■■■■■





久しぶりに賑やかに過ぎた一日の終わり。
平助と千鶴は縁側で二人並んで座り、満天の夜空を見上げていた。

「たまにはこんな賑やかな日もいいよな」

「うん、楽しかったね」

龍之介と平助が語る昔話は、千鶴にとって新鮮なものだった。
そして友人達の近況を知ることも楽しく、道を別った仲間達の話は懐かしくも切ない。
いつか落ち着いたら、彼らと再び会える日がくるだろうか。
儚い願いだが、生きて再会して、今日の龍之介のように思い出を語り合えたらと願わずにいられなかった。

「それにしても、村の男共が千鶴にいかがわしい眼を向けてたなんてな。網道さんも教えてくれればいいのにさあ」

「平助君、何の話?」

わけが解らずきょとんと首を傾げる千鶴。
その仕草の可愛らしさに、平助は益々彼女が心配になる。

「お前さあ、村に行く時は絶対に俺か網道さんのそばから離れるんじゃねえぞ? 飴やるから付いて来いって言われても行っちゃ駄目なんだからな!?」

「もう、私はそんな子供じゃないよっ」

「子供じゃないから心配なんだよっ」

「平助君だって、村の女の子と手を繋いでたってお千ちゃんが言ってたけど、本当?」

「はあ!? 何だよそれ、千姫の奴変なこと吹き込むなよなあっ!」

じっとりと恨みがましげに睨まれるが、そんな表情も平助にとっては可愛い以外の何物でもなかった。
込み上げる衝動のままに千鶴をぎゅうっと抱きしめ、その耳に優しく囁く。

「俺には千鶴だけだ」

ぴくん、と腕の中の身体が震え、口元の耳が真っ赤に染まる。
きっと顔も林檎のように真っ赤に染まっていることだろう。

「私だって、平助君だけだよ・・・」

「ああ!」

おずおずと背中に回される手を感じ、平助は抱きしめる腕に力を込めた。





「甘いわね」

ぼそっと、静寂に落とされた声。
月と星の明かりの下、抱きしめ合う二人の様子をじーっと見つめながら千姫は誰にともなく呟く。

「みたらし団子に餡を塗りたくって金平糖をまぶした上に蜂蜜を垂らしたくらい甘いわ・・・」

「何なんだよ、その胸焼け通り越して吐き気感じる例えは・・・」

想像したのか、顔色を青くして突っ込むのは龍之介だ。
その後ろでは網道と君菊が苦笑を交わしている。

「お孫さんを抱ける日も近いかも知れませんね」

「そうなると嬉しいです」


恋人達を見つめる眼は、どこまでも優しく   覗かれていることに気付いた二人が悲鳴を上げるのはほんの数刻後のこと。



〈了〉

12.2.10up

罪な夫婦・・・(笑)。
ようやくまともに平千を書けたような気がします(汗)。



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