大事なものは何、と訊かれて俺は何と答えるだろうか。
四年前ならばそれは唯一つしかなかった。
けれど今は?
決して平坦な道を歩んで来れたわけではないが、それでも今が最も充実している時なのだろう。
例え命の危険と隣り合わせであろうとも、大切な人達と共に在れるのであれば己の命を懸けることも出来る。
“大切な人達”・・・四年前までは複数形で存在しえなかった。
唯一の存在を失って、空っぽだった手の中にいつの間にか増えていたそれらの中心には、かつて誰よりも憎んだ少年が居た。今では、失ったものと同じくらい愛しい存在として。
ティエン――お前のために使えるのであれば、俺の命など惜しくはない。
――などと口にすれば、一瞬のうちにルックに切り裂かれるのだろうな。
“だったらこの場で今すぐ逝け”とか吐き捨てられて・・・。
命懸けで守られる。
それはティエンにとって何よりも辛い仕打ちだ。
親友が、家族が、彼のために命を懸けた。
その度に傷つき、ボロボロになったティエンの心。
だから彼は自分の目の前で人が死ぬことを酷く嫌う。
軍主であった頃はいざ知らず、二度と誰も自分のために傷ついてほしくないと願う。
何も解っていなかった俺達は、追っ手から逃れて走ったあのグレッグミンスターの城で散々に彼の心を傷つけてしまった。
その事実を思い知ったのはほんの数ヶ月前のこと。ルックやシーナによって幾度と無く理不尽な紋章攻撃を食らわされた挙句にようやく悟ったのだ。
解放軍時代から我侭で暴力的な二人ではあったが、あの頃にはなかった彼らの中の心底からの怒りと苛立ちの原因――それがティエンを傷つけたことに対する怒りだった。軍主や他の同盟軍メンバーを巻き込んでまで俺達を執拗に攻撃したのは、それだけ彼らの怒りが深いということだ。――だからと言ってあいつらの横暴が正当化できるわけではないが・・・。
とにかく、あの二人の暴走はティエンと再会するその日まで続いたのだ。
その頃にはすでにルックとシーナは同盟軍の最重要要注意人物のツートップに名前が記され、軍の隅々にまで彼らの恐ろしさは知れ渡っていた。
そんな二人をただ一言で制御してしまうティエンが同盟軍の人間にとってどれだけ衝撃的だったか。
トランの英雄である事実を差し引いたとしても、彼の存在は同盟軍にとって貴重なものになってしまったほどだ。
――余談はさておき。
俺は今ノースウィンドウ城の桟橋に立ってティエンの姿を探しているところだ。
深い紅の胴着に包まれたその姿はすぐに見つかった。
ヤム・クーのそばで釣りをしている少年――あれだ。
「ティエン」
呼びかけると、顔だけをこちらに向けたティエンの眼が俺を捕らえた。
「やあ、フリック」
「何か釣れたか?」
ティエンの方に足を進めながら問う。
「ん、そこそこ」
まあ、こいつが長靴を釣ったり餌を奪われたりすることはないだろうな。
解放戦争時代も暇があればマッシュと釣りを楽しみ、二人で全員分の夕食を釣り上げたほどなのだ。
やはり、魚篭の中にはびっしりとサーモンが入っていた。
「今日はルックやシーナやユアンとは一緒じゃないんだな」
いつもティエンの周りにいるメンバーの名を挙げたところで、うっかり名前を口にしたら後ろに現れ兼ねない予感に慌てて周りを見渡すが、幸い誰かが現れる様子はなく胸を撫で下ろす。
だが、あいつらが来るのも時間の問題であることは間違いないだろう。
それまでの短い時間ではあるだろうが、滅多にないティエンとの時間を堪能させてもらうことにしよう。
そう決めると、ヤム・クーとは反対側のティエンの隣に腰を降ろす。
クン、とティエンの釣り糸が引いた。
ややあって釣り上げられたのはこれまた立派なサーモンだ。
ただでさえ満員御礼の魚篭の中に大きなサーモンが押し込められる。
「おい、もう入りきらないんじゃないか?」
「うん、そうみたいだね」
「お見事ですね、ティエンさん」
ヤム・クーの賛辞に「ありがとう」と返し、ティエンは釣具を片付け始めた。
どうやらもう釣りは終わりらしい。
「フリックやユアンがこの湖では長靴ばかり釣れる、と言うから釣ってみたかったのだけど・・・」
至極残念そうにティエンが呟く。嫌味かそれは。
言っておくが俺は決して釣りたくて長靴を釣っているわけではない。俺が釣りたいのは食える獲物だ。
余程苦々しい表情をしていたのか、ヤム・クーが「ティエンさんに悪気はないんですから」と窘めてきた。
いや、それは解っているし俺も別に怒ってはいないぞ。少々プライドが傷ついただけだ。
「生意気なことを言った罰として没収」
そう言って魚篭を持ち上げると、ティエンが小さく笑った。・・・可愛い。
思わず見惚れていると、ティエンがふと思い出したように訊いてきた。
「何か用があったんじゃないのか?」
「用ってほどでもないが、時間が出来たからお前とゆっくりしたかったんだ」
悪ガキどもが一緒でないティエンを捕まえるのは至難の業だ。
今日の俺は運がいい。その運もいつまで持つかは定かではないが。
「そういえばフリックと二人でゆっくり話すのは久しぶりだな」
悪ガキどものせいでな。
そう言いたかったが、そもそもティエンにはあいつらに邪魔されてるなんて意識はこれっぽっちもないのだから黙っておく。あえて俺の印象を悪くする必要は無い。
「では、ハイ・ヨーさんにサーモンを料理してもらいに行こうか」
ティエンからのランチの誘いを俺が断るはずもない。
心なしか足取りも軽く、レストランへと向かった。
サーモン料理は文句無く美味かった。
獲れたての活きのいいサーモンにノースウィンドウ城が誇る料理人ハイ・ヨーは喜び、ティエンのためならとその腕をおおいに振るった。
ティエンと一緒にいると色んな恩恵を受けられる。
「今日はいい天気だな」
食後のコーヒーを飲みながら、しみじみとそう言ってみた。
天気も良く、風も日差しも穏やかなのだから俺達はテラスで食事していたのだ。
やはり気持ちが良い。
ティエンは食後の梅昆布茶(・・・)を一つ啜って「そうだね」と相槌を打った。
「なあ、ティエン」
「ん?」
「大事なものってあるか?」
「?」
質問に、ティエンは軽く首を傾げた。・・・可愛いな。
「俺は、お前と会う前までは大事なものなんてオデッサだけだったんだ。そのオデッサが死んだ後は、まあ、お前も知っての通り随分荒れてたよな」
今思い出しても恥ずかしい、あの頃の自分。
ティエンには散々八つ当たりしてしまったんだよな。
その頃のことを思い出しているのか、ティエンの眼がどこか遠くを見た。
「大事なものなんて何もなくて、でもオデッサの願いだけは叶えたくて解放軍に居た。戦争が終わったらお前を殺して自分も死のうなんて本気で考えていたくらいだ。だが、いつからかな・・・大事なものがいつの間にか増えていたんだ」
ティエンはもちろんのこと、共に戦ってきた解放軍の仲間達―ルックやシーナさえも―彼らと過ごす時間がかけがえのないものだと気付いた。
そして今――この同盟軍で得た仲間達もまた、大切だと思える。
「お前も、たくさん大切なものを失ったな。だが、それでも大事だと思えるものは少しでも得られただろうか?」
親友の、家族の代わりになるものなどない。
だが失ったものを補えるほどのものを、お前は得たのだろうか。
ルックやシーナは、そして俺達はお前の心の空洞を少しでも埋められる存在だろうか。
ティエンはしばらく考え込んでいたが、やがてしっかりと頷いた。
「たくさんある」
ほっとした。
何よりも、ティエンの表情がとても穏やかだったのだ。
傷つき過ぎてボロボロになっていたティエンの心に、歳月は優しかったのだろう。
戦争の終盤には固く強張っていた表情が、再会した頃には随分と柔らかかった。
もう二度と傷つけたくない。傷ついて欲しくは無い。
あの戦争で最初から最後まで傷つけてきた俺が言えた義理ではないが、そう心から願う。
「俺にとって、お前は何よりも大事な存在だ」
そう言いながら白い頬に手を当てた。
十五歳で時を止めた肌は滑らかで柔らかい。外見だけを見れば何て幼いのかと思うが、纏う雰囲気がどこか達観しているので子供だとは感じない。
「それと、ごめんな。お前を傷つけて」
ずっと言いたかった言葉を、ようやく言えた。
言われた本人はわけが解らないと言いたげにじっと俺を見ている。
「大事だから守りたかったんだ。だがその行為は、お前には辛すぎる仕打ちだったな」
俺の言いたいことが解ったのか、琥珀の瞳が揺れた。
ああ、俺達は本当にこいつを傷つけたのだと、思い知る。
あの時はとにかく追っ手からティエンを逃がすことしか考えていなかった。
彼を無事に逃がすためならば、自分の命も惜しくなどなかった。
しかしそんな風に、どれだけの死をティエンは見続けてきたのか。
親友も、家人も、そうやって自分の身を犠牲にした。
その度に死んでいった、ティエンの心の一部。
戦争が終わってからの空白の三年間、よくぞここまで立ち直ってくれた。
「ごめんな、ティエン」
「・・・お前が生きていてくれて良かった」
もう一度謝った俺に、ティエンがそう言って微笑んだ。
「もう、大事なものをなくしたくない」
ティエンの大事なものの中に俺が居るのなら、これ程嬉しいことは無い。
立ち上がり、ティエンの傍に立つ。
椅子に座ったまま俺を見上げるティエンのその細い身体を抱きしめようと手を伸ばし――
「そこまで」
ぐしゃっ
踏み潰された。
「「「・・・・・・・・・・・・」」」
沈黙が漂う。
「ルック、どいてあげてくれないか?」
静寂を破ったのはティエンだった。
「君さ、何襲われそうになってるのさ。僕以外の男の腕に抱かれるのは許さないからね」
「? 襲われる・・・? 今フリックを強襲したのはルックじゃ・・・」
「青男が襲われるのはいいんだよ、知ったことじゃない。問題は君、何故そう無防備なわけ? 僕以外に身体を許すんじゃないよ」
ちょっと待て、色々と問題ありまくりの発言だぞ。
そう突っ込みを入れたいが、俺は今ルックの足の下で身動きが取れない。
くそ、モロに顔面から地面に激突したぞ。鼻は折れてないだろうな。
「まったく青男も謝るだけで止めておけばいいのに、僕のティルを抱こうなんて身の程知らずも良いところだよ」
いつティエンはお前のものになったんだ!!
ん? 待てよ、今こいつ謝るとか言ったな。
「おま、いつから・・・っ」
苦しい息の中、声を振り絞る俺の上にルック嘲笑が浴びせられる。
「何処にいようと僕がこの子の様子に注意を払ってないわけないだろ」
ストーカーかお前は。
こいつのことだ、常にティエンの周囲の風に干渉しているであろうことは言葉からも汲み取れる。
というか、いい加減に俺の上からどいてくれ!!
俺の切なる願いが届いたのか、ティエンが少し強い口調で「ルック」と言うとすぐに俺の背中の重みが無くなった。おまけとばかりに一瞬だけ踵でぐりっと抉ることは忘れなかったが・・・。
ようやく解放されて立ち上がると、テーブルに腰掛けたルックの腕に抱かれているティエンという構図を見てしまった。
「ルック、お前って奴は・・・」
もう怒る気力も無い。
どうせ俺の怒りなんてルックにとってはそよ風程度にしか感じないのだろうけれどな。
諦めのため息をつき、俺は席に戻って冷めたコーヒーを飲み干した。
すると。
「ティエンさんはっけーん!!」
レストランの中から元気な声が上がった。
こちらに一直線に走り寄って来たのは、同盟軍のリーダーだ。
「ルックもフリックさんもずるいよ! 僕だってティエンさんとお茶したい!! てかルック、ティエンさんにしがみ付いてないで離れろ!!」
「うるさい小猿どっか行け」
「小猿言うな っっ!!」
一気に騒がしくなったな。
ふと見ればシーナやらビクトールやら騎士コンビやらが続々と現れる。
もうティエンとの二人きりの時間は望めそうにもないな。ルックが現れた時点で俺の運は尽きたのだ。
皆が皆、口々にティエンの注意を引こうと話しかけている。
それにユアンがきゃんきゃんと文句を言い、ルックは不機嫌を隠そうともせずにティエンだけを見つめている。
ティエンはというと、平等に全員の声を聞いている。
じっと見つめていると、視線に気付いてティエンが俺を見た。
そして俺は口を開く。
「大事にされてるな」
誰もがお前を大切に想っている。
もちろんこの俺も。
この大切な宝物を、二度と傷つけることがないように、二度と傷つかないように守っていきたい。
ティエンが浮かべた微笑は、とても優しく綺麗なものだった。
END
|