静かに部屋に入ってきた少女は、薬と水差しを乗せたトレイを手近な机に置いて寝台を覗き込んだ。
「おじいさま、具合はどう?」
柔らかな寝台に横たわる老人は、うっすらと目を開けて孫娘に微笑みかけた。
若い頃は少女と同じ見事な金髪だった髪も今はすっかりと白くなり、深い皺の刻まれた顔には思慮深さが窺える。
永い年月は彼に落ち着きと穏やかさを与えていて、あんなにも無茶をしてきた若かりし頃からは想像も付かないと、彼自身ですら苦笑してしまう。
「夕方にはお父様も来るそうよ」
「やれやれ、政府高官が毎日のように来おって」
「親が病気なんだから当然じゃない」
呆れを含みながらも穏やかな声音に、孫娘は笑みを零す。
明るく振舞いながらも、彼女の胸の内には恐怖と哀しみが渦巻いていた。
しかし、祖父の前では決してそれを見せようとはしない。それは祖父の母にも負けない気丈さだ。
「では息子達が来るまで眠ることにするよ」
そう言うと、彼は静かに目を綴じた。
娘は祖父の眠りを妨げないよう頬にそっとキスをして、静かに部屋を出ていった。
そして廊下に出ると、必死に我慢していた分堪えきれずに涙が溢れて少女の頬を流れた。
大好きな優しい祖父との永遠の別れの時。
それはきっと、そう遠くはない未来・・・。
優しい静寂が部屋に落ちる。
窓から差し込む日差しは温かく、心地良い眠りを誘う。
最近、ひどく眠いと感じるようになったと、彼は自覚していた。
「私もいよいよか・・・」
死への恐怖はない。
永い人生を精一杯生き抜いたのだから。
ただ一つだけ心残りがあった。
それは、今はどこか遠い地を旅しているであろう大切な友人のこと。
(お前達は今どこでどうしている?)
今はもう、彼等を知る者も少なくなった。
最後に一目会っておきたかった。
戦乱の中を、共に戦った大切な友に――。
彼の寝顔はとても穏やかだ。
そんな表情を見ると、彼が激動の人生を歩んできた男だとは、誰も思わないだろう。
だがそれも、今となっては素晴らしい思い出。
いい人生だった――と、心から思う。
眠りは優しく、春の陽気に包まれているかのようにあたたかい。
もうすぐ、この眠りは永遠のものとなるのだろう。
「――、――」
眠りから引き戻すように耳元で聞こえた声に、うっすらと意識が浮上する。
「・・・誰だ」
孫娘だろうか。
ぼんやりとした視界に、二人の人影が映し出された。
「やあ、久しぶり」
一瞬、大きく開かれた瞳は映し出された存在を確かめるように細められた。
すぐには信じられなかったのだ。
「これは夢か? それともここは天国なのか?」
しわがれた声が紡いだ言葉に返ってきたのは、馬鹿にしたような冷笑だった。
「何、あんた頭までぼけたわけ? 寄る年波には勝てないってこと?」
ああ、夢でも幻でもこいつは変わらない。
「ざけんな、俺がぼけるわけないだろ」
思わず口調まであの頃に戻ってしまった。
そして、始めに声を掛けてきた人物に視線を移すと、自然と笑みが浮かんだ。
「よお久しぶり。来るのが遅いんじゃないか?」
「うん、ごめん。でも会えて良かった。調子はどう?」
「眠くて堪らないよ・・・。苦しいわけじゃないから安心しろ。お前にも会えたし、もう思い残すこともないな」
「そう」
本心からの言葉だが、やはり残される方には辛いのだろう。
切なげな微笑みは、それでも嬉しいものだった。
「俺がいなくなって寂しくても泣くなよ?」
「この子が鳴くのは僕の腕の中だけだよ」
・・・・・・鳴く?
「お前は相変わらずくっ付いてるんだな」
「何? 何か文句ある? 僕はもう二度とこの手を離す気はないよ」
「そうか」
それでいい。
この二人は二度と離れるべきではない。
あの時のように、すべてに絶望した暗い瞳は見たくない。
「あんまり我侭言って困らせんじゃねえぞ」
「僕がいつ我侭なんて言ったのさ」
自覚がないのかこいつは。あれほど迷惑掛けておいて。
同情を込めた視線で悪友の一番の被害者を見やると、苦笑が返ってきた。
すべてを受け入れている者の穏やかな強さを秘めた瞳は、あの頃と変わらない。
相変わらず長男気質だな。
思えば自分も数ヶ月上のはずなのに彼には守られていた。
この二人なら大丈夫、そう思わせてくれる。
悪友は彼さえ傍にいれば幸せなのだし、大切な友人は悪友の存在によって今を生きる。
互いの存在さえあれば安定する二人なのだから。
「最後にお前達に会えて良かった。お前が、幸せで良かったよ」
「君も、いい人生だったね。後のことは心配しなくていいよ。君の子孫は僕達が見守るから」
「心配なんかしてねえよ。なんか、色々と肩の荷が降りた」
一番の心残りだった彼らが、今も変わらず仲良くくっ付いていると確認できた。
一抹の嫉妬もないと言えば嘘になるけれど、自分は自分でそれなりの生涯だった。
「たまにはあんたの墓参りもしてあげるよ。どんな花が嫌いなのさ」
何故好きな花ではなく嫌いな花を訊くのか、この男は。
というか、死の床に着く者を励ますこともせず墓参りの話をするとは。
(それがこいつなんだろうなあ)
せめてもの反撃になればと、大切な友人の手袋に包まれる手を取った。
「お前が好きな花を供えてくれよな」
躊躇いも無く右手に触れられて一瞬戸惑ったようだが、すぐに穏やかな微笑が返ってきた。
「うん、切り裂かれたりさせないようにするよ」
「君が選んだ罪も無い花を切り裂くわけないだろ。切り裂くならこいつの墓石だよ」
「やめれ」
本当にスパッとやられそうで怖い。
「というかお前さ、昔の仲間が死にそうだってのに死人に鞭打とうとするなよな」
「昔のよしみでわざわざ来てあげたんだからぐずぐずしないでさっさと逝けば?」
時間の無駄だとばかりに言い捨てられる。
昔からこういう性格だったが、何十年も全然変わらずにいるとは、ある意味奇跡だ。
本当に変わらない二人の姿に、安堵を通り越して何だか愉快になってくる。
「お前等、もういつまでもそのままでいろよ」
笑いを含みながらそう言うと、またもや冷笑を返された。
記憶のままのこまっしゃくれたその表情も、隣で困ったように笑う彼の姿も、今はとても愛しく懐かしい。
不意に、全身から力が抜けた。
細い右手を包んでいた指が知らず知らず解かれていく。
それに気付いたかのように、その手をしっかりと包まれた。
握り返したいのに、ひどく眠く身体に力が入らない。
(ああ、そうか・・・俺の時間はもうないんだな・・・)
ずっと心残りだった二人の変わらない姿を見て、自分の心は満たされたのだ。
人生の最期に、彼らに会えた。
これ程の幸せがあるだろうか。
沈みつつある意識を何とか繋ぎとめながら、二人に笑顔を向ける。
ここ数十年で身に着けた柔和なものではなく、悪巧みでもしていそうな不敵な笑み。
あの頃はいつも浮かべていたものだ。
大変な時代だったけれど、それでも毎日が楽しかった。
彼らと共に辛いことも、楽しいことも、悔しいことも、たくさんのものを共有できた。
それは今尚光り放つ輝かしい思い出の数々だ。
「ありがとな――ティル、ルック」
心からの感謝を込めて――。
――そうして意識は完全に闇に閉ざされた。
あたたかい。
まず感じたのは、それだった。
先程まで確かに感じられた身体の重みが消え、すべてのしがらみから解き放たれたかのような不思議な気分。
ふと目を開けると、視界に広がったのは遠い過去の風景だった。
自分が立っているのが城の中だということは解る。
懐かしく、勝手知ったる何とやらだ。
ただ不思議なことに、この城が湖上に建っていたものか、隣国のものか、それとも自分が大統領となって滞在していたものかが解らない。
そして、そのどれもでもあると感じられる。
通路をどう進めばどこに辿り着くのか。
何も考えずとも自分はそれを“知って”いる。
案の定、迷うことなく選んだ扉の先は、彼が行くべき場所だった。
穏やかな光溢れるそこには、たくさんの懐かしい顔がある。
――あの頃のままの姿で。
気が付くと、自分もまた、その時の姿に戻っていた。
彼らは新しく現れた人物に気付くと、満面の笑顔で迎え入れた。
「よお、ついにお前まで来たのか」
「元気そうじゃないか、悔いなく死ねたか?」
どういう挨拶だ。
「んだよ、死人が集まって何してんだ?」
長い年月で覚えた大人の対応もどこへやら。
当時と変わらぬ不遜な態度で応じると、返ってくるのは好意を含んだ苦笑だった。
相変わらずだなあと笑いながら、青いマントがトレードマークの青年が答えてくれる。
「もちろん、ここであいつらを待ってるのさ」
それが誰を指すのかは、誰もが解っている。
「当分こっちに来そうにないぜ」
「それが一番だ。いつまででも待っててやるさ」
「あいつらの時間は永ければ永い程いいんだよ」
彼らのことを思い出しているのだろう。
皆の表情が優しく綻んでいる。
「ここに来たってことは、お前もそのつもりなんだろう?」
「うるせーよ、おっさん。別にあんたらまで呼んでねえっての」
憎まれ口を叩きながらも、差し出された酒を受け取ってぐいっと飲み干す。
美味い、とは口が裂けても言ってやらない。
けれど空のコップを突き出して「注げ」とばかりに睨むと、かつての仲間は豪快に笑って酒瓶を傾けてくれる。
こうして楽しく飲みながら、ここで彼らを待とう。
疲れたら、生きることをやめたくなったら、いつでも還っておいで、大切な友よ――。
俺達はいつでもお前達を想い、お前達の幸せを祈っているから。
過去も未来も越えた穏やかなその場所は、明るい笑顔を絶やすことなく、大切な人達を待ち続けている。
■■■■■
手袋を着けたままの手が真っ白な髪を梳き、皺だらけの頬を撫でた。
「・・・逝ってしまったね」
囁くような呟きを落とす天流の肩を、ルックの手がそっと抱いた。
「満足そうじゃないか。楽しく逝ったんじゃないの」
先程まで浮かべていた皮肉染みた笑顔は消え、優しさだけが翡翠の瞳に宿る。
目の前には、たった今永遠の眠りについた男が横たわる。
ルックにとっても彼は一応特別かも知れない位置に置いてやらないでもない存在だ。
「あんたのことは嫌いじゃなかったよ」
出会った当初は心底嫌いだったけどね。
そう心の中でつけ加え、ルックは天流の手を取った。
「行くよ」
「そうだね」
彼の最期に立ち会えて良かった。
これからも、こんな風に置いて逝かれてしまうのだろうけれど、もう哀しみだけしか感じないわけではない。
こんなにも穏やかな死に顔を見せてくれるのだから、決して無駄なことではないのだ。
「おやすみ、シーナ」
サアッと窓から吹き込む風がカーテンを揺らした。
部屋にはもう物音一つない。
寝台には、たった今生を終えた老人の姿だけが残る。
■■■■■
「親父さんにも会ってきたらどうだ? お前結構頑張ってたみたいじゃないか。きっと誇りに思ってくれてるぜ」
シーナが何杯目かを飲み干した時、そう問いかけられた。
「ん? まあ後でな。それに褒められるよりも、ティルのことを根掘り葉掘り訊かれそうで嫌なんだよなあ」
「「・・・・・・・・・・・・」」
何故か口を閉ざして視線を逸らす二人の様子に、父親も変わらずにいることを知る。
ますます会いたくない。
話を逸らしたくて周囲をぐるりと見渡してみた。
目の端をムササビが五匹連なって飛んでいく。
「解放軍メンバーだけじゃないんだな」
「ああ、あの鬼軍師や騎士達もいるぜ。ちなみに軍主殿は姉、幼馴染共々現世でまだまだ元気いっぱいだ」
「あの三人も当分来ないのか。姉弟はともかく幼馴染は早死にすると思ってたんだけどな」
あの姉弟を遺して逝くのが色々心配だったのだろうか。彼の苦労性も治りそうにない。
「それでも、年々ここの住人が増えている。もうあっちで残ってる奴も僅かなんだろうな」
「真の紋章持ち以外は俺より年下の奴等がほとんどだ」
「寂しい思い、してなきゃいいがな」
「・・・ルックがいりゃ退屈しないと思うぜ・・・」
彼ら二人こそが一番の被害者だ。
案の定、みるみる顔色が変わっていく。
「・・・・・・もし、ティエンが死んだら・・・あいつは・・・」
「当然後追ってくるだろうな」
「・・・それじゃあ、もしあいつの方が先に死んだら・・・」
「ストッパー(ティル)なしルックがここに来る」
天国から地獄へのシナリオが見える――。
「・・・・・・あいつら、本当に永く生きてくれるといいな」
沈黙の後、心からの本音が零れた。
END
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