どこまでも長く続く廊下の最奥に、扉があった。
ずっと遠くにあるそれを目指して懸命に走っているのに、何故か扉は遠ざかっていく。
走れば走るほどに長く伸びていく回廊。
時折、左右の壁に別の扉が現れたが、それらには目もくれずに奥の扉だけを見つめていた。
けれど、小さな足では遠ざかる扉に追い付くことができず、どんどんと距離が離れて行く。
“待って!”
大きな声を出したつもりだったのに、何故か言葉は声とならなかった。
疲れ果てた彼はついに立ち止まってしまった。
その場に蹲って、荒い呼吸を繰り返す。
しばらくして、もう一度走り出そうとした彼の目の前には、いつの間にか扉があった。
追い付いたんだ。
そう安堵して扉に手を掛け、開いた。
「母さま?」
小さく呼びかけた瞬間、扉は消えた。
その先には、果てしない廊下だけが続く。
「母さま・・・」
扉を開けばそこにあるはずの優しい笑顔がない。
その扉は、果てしない廊下の奥に消えて見えなくなっていた。
「母さま、どこ? 明蘭(ミンラン)?」
甘えさせてくれる優しい腕(かいな)を求め、小さな子供はか細い泣き声を洩らす。
“リーシア”
温かな低い声が響く。
それは頼り甲斐のある父のもの。
“リーシア坊ちゃん”
優しい声が呼ぶ。
それは、いつも見守ってくれる兄姉のような人達のもの。
慈しみを浮かべて呼ぶ声に、だが子供は哀しく首を振った。
――その名前で呼ばないで――
どんなに優しく呼びかけられても、慈愛を込めて囁かれても。
耳を塞ぎたくなるくらい、嫌いな名前。
なぜ、以前のように呼んでくれないの?
なぜ、母さまと明蘭に会わせてくれないの?
なぜ、誰も僕の声を聞いてくれないの?
皆はたくさんの思いを、声を、僕に聞かせるのに。
嫌だって言っても、
耳を塞いでも、
いつも、いつも。
なのに何故、僕の声は誰にも届かないの?
ねえ誰か、僕の声を聞いて――・・・
いつしか彼の周りは闇に閉ざされていた。
長い廊下も、扉も、幻のように消え去っている。
暗闇の中、小さな子供は蹲って、子供らしからぬ静かな泣き声を零す。
・・・ァ
・・・シア・・・
―――シア・・・
閉ざされた心にするりと入り込んだ、誰とも違う呼び掛け。
不思議な旋律に、ゆっくりと顔を上げた。
闇が拓け、サアッと光が広がっていく。
「おい、シアってば!」
「・・・あ」
光を浴びる木々と青空を背にした少年の姿が、視界いっぱいに広がった。
「テッド・・・」
寝ぼけた声で呼ばれた少年は笑みを浮かべたまま、覆い被さるように覗き込んでいた身体を彼の横に寝そべらせた。
広い平原の一本の巨木の陰に、二人は気持ち良さそうに横たわっている。
いつの間にか眠ってしまったようだ。
「だいぶ風が冷たくなってきたな。そろそろ帰るか?」
「・・・うん」
頷きながらも動こうとしない彼に、テッドは不思議そうな眼を向けた。
どこかぼんやりとした表情でじっと空を見つめている幼い横顔に問いかける。
「どうした? 何か嫌な夢でも見たのか?」
「・・・うん」
「どんな夢だったんだ?」
「廊下が伸びて、扉が遠ざかる夢」
「・・・はあ?」
意味不明な言葉にテッドの眼が丸くなり、思わず素っ頓狂な声を上げた。
だが、彼の表情が重く沈んでいるのを見て口を噤む。
「大切な部屋に続く扉・・・」
細い手が何かを掴もうとするかのように空に向かった。
夢の中で、確かに一度はこの手に触れたと思ったのに、次の瞬間には何もなかった。
捜しても、捜しても見つからない・・・
「どこにもないんだ・・・ずっと捜しているのに・・・」
伸ばされた手は虚しく虚空を掴む。
何度も、繰り返して。
その手を、手袋に包まれた手が掴んだ。
横に視線をやればテッドの明るい笑顔があり、つられて彼も微笑んだ。
何年も凍り付いていた表情が、テッドによって溶かされていく。
「テッドは解る? この気持ち・・・」
「ああ、もちろん。俺だってずっと捜し続けているからな」
「必死に追いかけても、追いつけない時はどうすればいいのかな?」
「ゆっくり追いかければいいさ」
「辿り着けなかったら・・・?」
「前に進んでいれば、いつかは何かに辿り着くもんだぜ」
「・・・そっか・・・」
慰めだけでなく、確かな実感を伴なう言葉に不安そうだった顔が幾分か和らいだ。
「俺は、お前に辿り着けたからな」
繋いだ手から穏やかで優しさに満ちた感情が流れてきて、それまで胸の奥から滲み出ていた不安や焦燥をすっぽりと包み込んでくれた。
心地良い感覚。
いつも怯えた心を助けてくれるのは、この温かさ。
何年も追い求め、恋しかった腕の中ではないけれど、テッドの温もりもまた何物にも代えられない大切なものだ。
心が満たされてゆくままに、黒真珠のような瞳が瞼に覆われていく。
その様子にテッドが慌てたような声を発した。
「おい、こらっ、寝るな!」
半分夢の住人となってしまった親友の身体を強引に抱き起こし、強く揺さぶった。
■■■■■
「お帰りなさい、坊ちゃん、テッド君」
日が傾きかけたグレッグミンスターの街。
立ち並ぶ立派な建物の中でも一際大きな屋敷の前に、一人の青年が立っていた。
優しげな面差しに柔和な笑みを浮かべ、広い街道の向こうから歩いて来る二人の少年を出迎える。
「二人とも、夕飯出来ていますよ」
「・・・うん」
「ただいま、グレミオさん」
グレミオの笑みがますます深まった。
二人を屋敷に通し、最後に彼が屋敷に入ってパタンと扉が閉まる。
家の中に入ると、食欲をそそる匂いが玄関にまで流れてきた。
「うわー、いい匂いv 行こうぜ、シア」
「うん」
「あ、二人とも嗽と手洗いをして下さいねー」
奥へと駆け出す二人の背中に向けてそう言うと、すでに角を曲がって姿が見えなくなったテッドの声が「はーい」と応えた。
二人の少年の元気な姿に、グレミオは心から嬉しそうに微笑む。
(坊ちゃん・・・だいぶ元気になられましたね)
何年も心を閉ざしていた幼子を、グレミオは感慨深く思い浮かべた。
夜の色の瞳に何も映さず、ただ虚ろに佇んでいた彼はあまりにも痛々しかった。
しかし、テッドと名乗る少年がこの家に来てから、長く感情を凍らせていた少年が少しずつ笑顔を取り戻してゆく姿には嬉しさと愛しさが募る。
まだぎこちなくではあるけれど、確実に彼の中の“時間”は動き始めているのだと。
(奥様と明蘭さんを失った坊ちゃんの心の傷を、私達で癒してあげられなかったのは残念ですが・・・テッド君と出会えて、本当に良かったですね)
何よりも大事な幼き主人。
もう二度と、彼が傷付くようなことにならなければ良いと願う。
心身に深く刻まれた忌まわしき過去の傷。
その恐怖は今、ようやく癒され始めたばかり。
テッドが傍にいる。
それが――彼にとっての唯一の安らぎ。
――私達に出来ることは、それを全力を懸けて護ることですね・・・
奥の部屋からテッドの笑い声が聞こえた。
その部屋に入ると満面の笑顔を浮かべるテッドやクレオ、パーンがいた。
彼らに囲まれる幼子の表情は、とても柔らかい。
まだ上手く感情を表せられないようだが、それでも格段の進歩と言える。
以前は『表情』といえるものなど何もなかったのだから。
その頃に比べれば、何と穏やかな顔だろう。
(この安穏の日々が、いつまでも続きますように――)
そう、願って止まない・・・。
END
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