大きな窓から差し込む柔らかな日差しが、幼い子供のサラサラの髪を金色に照らした。
翡翠の双眸が見上げる先には、神秘的な雰囲気を醸す女性が優しい微笑みを浮かべている。
「一人で大丈夫ですか? ルック」
「はい」
幼い外見には似合わないほど無感情でそっけない声音。
ルックと呼ばれた子供が微かな声で呪文を唱えると、呼応するように長い袖より覗く小さな右手が光を帯びた。
「それでは行って参ります、レックナート様」
言葉が終わると同時に幼子の身体を風が包み込み、そして掻き消えた。
広い部屋に一人残されたレックナートは、優しい面立ちに心配の陰を落とした。
(大丈夫かしら、ルック・・・)
使いに出させたのは自分だが、人に慣れていないルックを町に出すのは彼にとって荷重ではないかという懸念があった。
何か起きても自分の身を護れるくらいの魔術は教えてきた。その面ではあまり心配はない。
だが・・・。
(あの子は、人としての何かが欠けている)
解ってはいても、自分ではどうしようもなかった。
■■■■■
サク
サク
サク
まっさらな雪の上に小さな足跡が点々と続く。
南方の国トランにあっても、やはり高地となれば雪が深い。
一面は真っ白な雪景色となり、息を飲むほど美しい風景が広がる。
しかしルックは銀世界に感銘を受ける様子は無い。
物心ついた時から彼の見る世界は灰色でしかなく、風情というものを理解できなかった。
ルックは周囲を見渡すと、面倒そうに溜息をついた。
(目標地点がずれたみたいだな)
騒がれては堪らないので人気のない場所に転移したは良いが、ここはどう見ても誰かの家の敷地内だ。
庭を囲むように塀があり、目の前には豪邸ではないが立派な建物。
いくら子供とは言え他人の家に勝手に入り込むのは問題だろう。
家人に見つからないうちにさっさと出ようと、ルックは歩を進めた。
《危ないよ》
(!?)
突如、頭の中に響いた“声”に、驚いて立ち止まる。
「・・・何、今の?」
“誰か”の声が脳裏に直接届いた。
こんなことは初めてだ。
風の声ならば馴染み深いが、今のはまったく異なるものだった。
近くに人の気配はない。
いったい誰が、と視線を巡らせようとしたその時、目の前の家の扉が開いた。
裏口と思われるそこから若い女性が姿を現すと、ルックに気付いて驚きを露にする。
(・・・面倒なことになりそうだ)
怒られるだろうか。それとも捕らえられて事情を訊かれるだろうか。
家は?親は?と根掘り葉掘り問い詰められるかも知れない。
だが、彼女の行動はそのどれでもなかった。
「君、危ないからこっちへ!」
「?」
意外な言葉を発して駆け寄って来る彼女を、意表を突かれたルックは茫然と見つめた。
シュッと空を切り裂く音が掠めたかと思われた瞬間、強い力で腕を引かれ、ルックは女性と一緒に雪の上に倒れる。
「!?」
いったい何が起きたのだろう。
わけが解らず、険しい視線を覆い被さっている女性に向けた。
しかし、目の前にはルックよりもさらに険しい表情が、あらぬ方向を睨み据えている。
女性の手を借りて身を起こしたルックは、すぐ近くに深々と地面に突き刺さった短剣に気付いて目を見張る。
先ほどまでは確かに、そこには何もなかったはずなのに。
(さっきのあの音・・・)
倒れ込む一瞬前に耳を掠めた音。あれはこの短剣が放たれた音だったのだ。
だが、いったい何故?
考える間もなく、ルックは女性に抱きかかえられるようにして家の中に連れ込まれた。
扉が閉められ、頑丈に鍵を掛けると女性はようやく表情を和らげてルックを申し訳なさそうに見た。
「ごめんね、危ない目に遭わせてしまって。家の中は安全だから、安心して良いよ」
「・・・・・・」
事態が一向に把握できず、ルックは命の恩人らしい女性を見上げたまま立ち尽くす。
「クレオさん、どうしました?」
部屋の奥から男が顔を出した。
金色の長い髪を一つに束ねた、すらりとした青年。年の頃は女性と同じくらいで、二十歳前後だろうか。
頬の大きな十字の傷とは裏腹に、思慮深げな優しい目をしている。
「坊ちゃんが外を指差すから気になって見てみたら、この子がいたんだよ」
「外にですか!? で、大丈夫なんですか、その坊やは?」
慌てた様子で駆け寄った青年は、ルックの前に膝を着くと全身を心配そうに見回しながら、髪や服に付いた雪を払う。
どこにも怪我がないことを確認すると、深い安堵の息をついた。
「あ、申し遅れました。私はグレミオと申します」
「私はクレオ。よろしくね」
柔らかな笑みを浮かべて二人は名乗り、やおら立ちあがったグレミオが奥に目を向けて笑みを深くした。
「坊ちゃん、こちらへどうぞ」
グレミオの視線を辿ってみると、いつの間に現れたのか、一人の少年が立っていた。
年の頃はルックよりも僅かに年上と思われる、漆黒の髪と瞳を持つ綺麗な子供だ。
しかし、その顔には何の表情も浮かんでいない。
グレミオに手招きされてルックの目の前に立った少年は、感情のない眼を彼に向けた。
ここまで無感情な態度を取られたのは初めてだ。
ルックにとって師匠であるレックナ―ト以外の他人というものは、煩わしいだけの存在だ。
子供であるルックを「可愛い」と言って構おうとする者や、生意気なルックに怒りを露に怒鳴り散らす軍人、人の迷惑を顧ず騒ぐだけの子供など、鬱陶しいとしか表現のしようがなかった。
だから、これほどまでに徹底的な無関心を装われると、却って新鮮に思えてしまい、この少年には他人に対して常に覚える嫌悪感は湧かなかった。
「こちらはリーシア坊ちゃんです。宜しければ君の名前を訊かせて下さい」
「・・・ルック」
質問したグレミオではなく、リーシアを見つめたまま答えた。
その様子にグレミオとクレオは微笑ましげに眼を細めた。
「ルック君、怖い目に遭わせてしまって悪かったね。奴等の狙いはリーシア坊ちゃんなんだよ」
「?」
何故、こんな子供が狙われるのだろう?
疑問を抱きながらも、「坊ちゃん」という言葉に大凡(おおよそ)の推測はついた。
つまりリーシアは誰かに狙われるほどの家の子息ということか。
沈黙するルックの様子に、彼が巻き込まれてしまって怒っているか怯えているのかと思ったのか、グレミオとクレオは真剣な顔付きとなる。
「必ず私達で何とかしますからね。ルック君をちゃんとお家に帰してあげます」
「それまで、坊ちゃんと一緒にいてくれるかな?」
ルックは素直に頷いた。
別に怖いわけでも怒っているわけでもないし、自分一人の身を守る自信くらいあったのだが、何となく離れ難かったのだ。
リーシアとルックが通されたのは、子供二人には少し広いくらいの質素な部屋だった。
刺客対策の為か窓はないが、居心地が良いように家具が配置され、色合いも爽やかで息苦しさを感じさせない。
この部屋にはずっとリーシアが居たのだろう。開いたままの本が床に置かれている。
子供が読むには難し過ぎるものだったが、ルックも難解な本をよく読むので驚きはなく、むしろ興味を引かれた。
見れば大きな本棚にはずらりと書物が並んでいる。
一つ一つのタイトルを読み上げ、いくつか手に取ってみたいと思ったが、本はルックの背より遥かに高い位置にあり、背伸びしても手が届きそうにない。まして他人の家の本棚を勝手に漁るわけにもいかなかった。
すると、ソファに座って本を読んでいたリーシアがふいに立ち上がり、本棚に歩み寄ると傍に置いてあった階段状の台を動かして上に乗った。そして迷い無く、ルックが特に読んでみたいと思った本を手に取ると、ルックに手渡した。
「・・・あ・・・ありがと・・・」
リーシアは何事もなかったかのようにソファに座ると、再び本を開いて読み始めた。
数秒間、戸惑っていたルックだが、やがて手にした本を開き、文字の世界に没頭していった。
部屋には沈黙が落ち、本のページを捲る音だけが微かに聞こえる。
見知らぬ他人と部屋に二人きりだというのに、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
それどころか、静かな空間はどこか安らぐ。
グレミオがココアとクッキーをトレイに乗せて持って来た以外、しばらく何事もなく時が過ぎ去る。
《消えた・・・》
「え?」
再び、脳裏に“声”が響いた。
思わず声を洩らしたルックは慌ててリーシアを見る。
いきなり声を上げたことを不審に思われただろうか。
だが、リーシアに目をやったルックの方が彼の様子に戸惑った。
彼はどこか虚空を見つめたまま微動だにしない。
不思議に思ったルックの中に、今度は聞き慣れた風の声が異変を告げてきた。
――潜む影の消滅
リーシアを狙っているという者達が消えた。彼等の命が。一つ、また一つ、と。
これがどういう状況か。聡明なルックにはすぐに理解できた。
刺客達は悉(ことごと)く、グレミオとクレオに屠られたのだ。
少々意外な気はしたが、別段ショックを受けることはない。
優しく見えても、グレミオとクレオはリーシアを護る戦士だ。
リーシアの命を脅かすのなら、躊躇いもなく敵の命を断つだろう。
再びリーシアに目を向けると、彼はすでに意識を本に戻していた。
何かが腑に落ちない。
いつもなら気に止めはしないのに、出会って間も無い彼に対しては今まで感じたことのないような思いを抱く。
しばらくして、グレミオが部屋に訪れた。
「もう大丈夫ですよ」
そう言って慈愛に満ちた優しい表情を浮かべる。
彼からほんの僅かに血の匂いを感じるが、それはルックだからこそ感じられる程度の微かなもので、彼がどれだけ気を遣っているかが解る。
痕跡を消し去るなど、容易なことではないだろうに。
グレミオはルックに「ゆっくりしていって下さいね」と言い置いて退室した。
「あんた、相当大事にされてるんだね」
初めて自分から他人に話し掛けた。
だがリーシアはルックを一瞥しただけで何も言わない。
思えば彼は、出会ってから一言も声を発していなかった。
「話せないの?」
《君の風は嫌いじゃない》
「!?」
脳裏に直接語り掛ける“声”。
不思議なその旋律は、目の前の闇色の瞳と共鳴するかのように一つに混ざり合う。
「君だったの? あの“声”は」
ルックは咄嗟にリーシアの腕に触れた。
その瞬間、ルックの中に変化が起きた。
灰色の世界に小さな闇が灯り、それを基点にサアッと光が射すように様々な色が生まれ、色彩が広がっていく。
「・・・・・・っ!!」
突然の自分の中の異変に、ルックは驚愕のあまり極度の混乱に陥った。
突如彼の周りに強い風が巻き起こり、傍にあった空のコップが粉々に割れる。
ルックとリーシアの読んでいた本のページはバラバラと捲り上げられ、風圧に家具がガタガタと揺れた。
「どうしました!?」
グレミオとクレオが部屋に駆け込み、目の前に広がる光景に息を飲む。
三人の目の前で、ルックの身体が完全に風に包まれた瞬間、彼の姿が消えた。
微かな余韻を残し、風の力も消える。
しんと鎮まり返った室内に、音は無い。
驚き茫然とするグレミオとクレオとは対照的に、リーシアは変わらない無表情でルックがいた場所を見つめていたが、そっと目を綴じた。
■■■■■
レックナートは、目の前の光景に困惑を隠せなかった。
突然現れた幼い弟子は、いつもの無表情が完全に崩れて荒い息をついている。白かった頬は真っ赤だ。
彼が取り乱す様子を、レックナートは初めて目にした。
「いったいどうしたのですか、ルック?」
ただならぬ様子のルックを落ち着かせるように、穏やかな声で語りかけた。
ルックはひどく動揺を浮かべて頭を振り、「何でもありません」と答える。
黙って弟子を眺めていたレックナートは、やがて表情を和らげた。
――何かが変わった。
彼の身に何が起きたのかは解らないが、その何かが彼の心の琴線に触れたのは確かだ。
それも、おそらく良い意味で。
(誰か可愛らしい子に一目惚れでもしたのかしら)
子を想う母親のような心境で、ルックの心の成長を喜ぶレックナート。
彼が落ち着いたら、もう一度使いに行って来てもらわなければと思いながら、そっとその場を立ち去った。