窓を叩きつけて響く雨音に、天流は読んでいた本から顔を上げた。
朝からどんよりと曇っていたが、ついに耐え切れなくなったかのように降りだした天上の水滴が見る間に大地に染み込んでいく。
同時に空は低い音を鳴らし、それは雷鳴となって轟き渡る。
知らず知らず、天流の視線は鋭く光を放つ窓の外へと吸い寄せられていった。
轟音を孕む雨に見入っていると、ふと頭の中に懐かしい人たちの面影が過ぎる。
『テッド君、遅いですね』
心配げな優しい声。美味しそうなシチューの匂いが漂ってきそうだ。
振り返れば、そこには幸せだった家族の姿がある。十五年間、当たり前のように傍にいてくれた大切な家族。
いつもならば隙を突いてつまみ食いをしようとする大柄の青年が、その時は何処か暗く沈んでいた。
そんな彼を凛とした女性がどこか訝しげに見やり、物腰の穏やかな青年は天流を元気つけるように微笑む。
その時、ガタンという物音と共に何かが倒れる音が聞こえた。
慌てて駆けつけてみると、傷だらけの少年が冷たい床に横たわっていた。それが唯一無二の親友であることはすぐに解った。
――ああ、これはあの時の情景か。
頭の奥で小さく過ぎった呟きだが、言葉を正確に把握する間もなく形を崩して奥底へと沈んだ。
ふと気づくと、寝台に寝かされた親友がじっと天流を見つめていた。
『お前にしか頼めないんだ』
苦しげな息の中、必死に紡がれた言葉。
全てを理解できたわけではないけれど、親友の頼みだから、迷いはなかった。
最後まで天流を巻き込むことを、紋章を押し付けることを気に病んでいた親友だったが、天流はこの時確かに嬉しかったのだ。
親友として愛されていることを疑ったことはないが、それでも彼はどこか一線を引いていたように感じていた。
その一線を彼は今初めて越えて、天流に縋ってくれたのだから。
それがどんなに危険なことだとしても、これから苦渋を味わうことになったとしても。
決して後悔などしない。
だが、嬉しさに浸る間もなく、邸が慌しくなった。
帝国兵士が突如押し掛けてきたのだ。
『逃げろ、ティル! 俺のことはいいから』
親友が叫び、天流を押しやろうとする。
『行きましょう、坊ちゃん』
両側から腕を取られ、強く引かれる。
――嫌だ! テッドを置いて行けない!!
そう叫びたかった。
だが、親友の強い決意を秘めた眼が、それを拒む。
安心させるように笑った親友の姿は、いつもの悪戯っぽいそれではなく、天流が知る誰よりも大人びていた。
――きっと・・・きっと助けに行くから
天流に出来たのは、そう決意して雨の中を飛び出していくことだけだった。
親友と、家人に守られているだけの、あまりにも無力な自分が悔しかった。
親友を助けるために、守りたい人達を守るために、そして助けを求める人々の希望の灯を絶やさぬために、自らを過酷な戦場へと投じた。
だが―強さを得る度に、守りたいものを失ってゆく現実がそこにあった。
雨の降り仕切る中分かたれてしまった親友も、雨粒に濡れないよう守ってくれた家人も、雨の日に常に傍に居てくれた軍師も、戦争の中で失った。
雨に溶けて消えてしまった――たくさんの大切なもの。
失ってしまった心は、いったいどこに行ってしまったのだろう・・・。
■■■■■
「何をしている、この馬鹿が」
突然固く温かい腕に後ろから強く抱きしめられ、雨の中を漂っていた意識が覚醒した。
無意識のうちにバルコニーに出てしまったらしい。全身が雨に濡れている。
その冷え切った身体をしっかりと抱きしめる温もりを確かめようと、後ろを振り仰いだ天流の目に不機嫌に染まったルカ・ブライトの整った顔が映る。
「こんな天気の日にわざわざ外に出る馬鹿がいるか。しかも何をするわけでもなく立っているだけとは、何を考えているんだ貴様は」
「・・・僕はいつからここに居たんだ?」
「知るか! 確かなのはずぶ濡れで冷え切っているということだ。さっさと来い」
来い、と言いながらもルカはまるで荷物でも扱うかのように天流の身体を広い肩に乗せ、さっさと部屋の中に入って行った。
随分長い時間が経っていたのだろう。開け放たれた窓から入って来た雨は部屋の床をも濡らしている。
雨の被害が寝台にまで及んでいるのを見ると、ルカは天流の部屋を後にして廊下を突き進んでいった。
行き着いたのは風呂場だ。
ルカや天流の部屋と同じ階に設置されているその場所を使用しているのは現在ではたった二人しか居ない。天流がルカに拾われる前まではまさにルカ専用だった。
脱衣場で天流を降ろしたルカは乱暴な手つきで濡れた服を剥ぎ取って、裸になった天流を湯船に放り込み、自身もさっさと衣服を脱ぎ捨てて湯の中に入った。
広い風呂は二人が一緒に入っても尚余りある。
「・・・ルカ、ちょっと乱暴過ぎやしないか」
「黙って湯に浸かってろ」
強引に服を脱がされ湯船に突き落とされた天流はさすがに不愉快そうだが、ルカは更に不機嫌なようだ。
非は自分にあるという自覚はあるので、天流は言われた通り黙って湯に浸かる。
冷え切っていた身体が徐々に温められ、青白かった頬もやがて赤みを取り戻していく。
ふいに波が立って顔を上げると、目の前にルカが立っていた。
「充分温まったか? 出るぞ」
脱衣場で乾いたタオルで身体を拭いた天流は、着替えがないことに気づいてルカを見た。そういえば彼も用意していなかったようだが。
そのルカは、腰にタオルを巻いただけの姿で躊躇いもなく脱衣場を出ようとしていた。
「その恰好で外に出る気か?」
「着替えがないのだから仕方あるまい。部屋まではたいした距離でもないのだから湯冷めもせん。お前も来い」
確かに、濡れた服をまた着るわけにもいかないし、このままで部屋に戻る他ない。
諦めたように天流は大きなタオルを羽織った。
どうか廊下で誰かとすれ違ったりしませんように。
■■■■■
宛てがわれている部屋は随分と濡れてしまったため、天流は着替えを手にルカの部屋に一時的な避難をしていた。
ソファに腰掛け、着替えと一緒に持ってきた読み掛けの本に目を通していると、微かに雨音が耳に届く。
だが数刻前とは違って雨音に意識が引きずられることはなかった。
それは、すぐ傍に在るルカの気配によって引き止められているように感じる。
何やら大量の書類に目を通している彼は余程集中しているらしく、一切声を発しない。
部屋を満たすのは書類を捲る音と微かな雨音だけの静かな空間。
しかしその静けさが天流に失った過去の悲しみを齎すことはない。
何だろう。
とても心地良い。
天流は再び意識が過去に戻ることなく、読書の世界へと入っていった。
「もう落ち着いたか?」
読み終わった本を綴じた頃合を見計らったように、低い声が掛けられた。
視線を向けると、いつから見ていたのかルカの眼がじっと天流の様子を見つめていた。
「先程のお前は意識が吹っ飛んでいたようだが、今は普通に本に集中していたようだな。顔色も良くなっている」
「ありがとう。もう大丈夫だ」
ぎこちなくも小さく微笑が浮かぶ。少しずつだが表情が戻りつつあるようだ。
視線を合わせたまま、ルカがゆっくりと天流に歩み寄る。
「何がお前を捕らえていた」
長い指がさらりと黒髪を撫でる。
ぶっきらぼうな声音とは裏腹に、その仕草は優しい。剣を手に容赦なく人の命を奪うものとは思えないほどに。
「少し、思い出していただけだ」
何を、とは訊かずとも解った。
伝え聞く史実だけでもトランの英雄の歩んだ道は厳しいものだ。あれからまだ二年も経たないうちでは、過去のものとして葬るにはあまりにも記憶は生々し過ぎるはずだ。
ルカにとって戦争とは彼自身が一方的に起こして散々暴れ回るだけのものだが、辛い記憶を昇華するには永い時を要することは幼少の時に経験した。それは今も根深く残ってはいるが、天流の存在によって少なからず救われたことは自身も認めるところだ。
だからこそ、ルカは何も言わずに天流の頭を胸に引き寄せた。
押し付けられた胸から聞こえる規則正しい心音に、天流は身体も心も安らぐのを感じる。
「お前の傍は静かだな。狂皇子のくせに、何故これほどまでに静かでいられるのか」
「簡単なことだ。俺は狂皇子だからな」
滅茶苦茶な理論がこれほど説得力があるとは思わなかった。
狂皇子のくせにと言って、狂皇子だからだと返されて納得してしまうとは。
ハイランドの領地に入った瞬間から突然周囲に増えた死せる魂達の嘆きの声。
ずっと制御してきたソウルイーターをも暴走させられるほどのそれが、原因を作った本人の傍にいると何故か全てが治まっている。
この城に来てから闇の夢は見ない。彷徨う魂の声も聞こえない。ただ一度、ルカの母を除いては。
それは誰も――マッシュやルックの傍に居てすらも、感じることのなかった安らぎだ。
「お前の傍がこんなにも居心地が良いとは思わなかった」
「認めたくなさそうだな」
「当たり前だ。よりにもよって・・・」
悔しげな天流の声音に、ルカの口元が愉快げに笑む。
天流の右手を取ると、きつく巻かれた包帯を解いて素肌に色づく紅黒い紋章に唇を寄せた。びくりと緊張して引き抜こうとするが、しっかりと捉えられて外すことができない。
「俺と貴様は根本的なところで同じだ。だからこそ俺達は惹かれ合う。この俺が貴様を傍に置きたいと望むように、貴様は俺の傍に居たいと望む」
その想いに名前をつけるなら、何と呼ぶべきか。
天流に出会うまで味わったことのない、深く激しく、そして優しい想い。
触れ合うことを望みながら、もっと深いところで繋がりたいと切望しながら、何故か心は肉欲に引きずられようとはしない。
これが他の人間ならば、問答無用で服を剥ぎ取って強引に支配しているはずなのに、天流に対しても時に衝動のまま奪ってしまいたくなるのに、こうして触れてしまえば激情は柔らかな慈しみへと姿を変える。
天流が本気で抵抗すればルカでさえも敵わないからか?
そうではない。ただ、傷つけたくないのだ。
狂皇子と恐れられる自分の腕の中で安らぐ、この存在を。
母を亡くした瞬間から凍り付いて砕けたとばかり思っていた感情が、何故か天流を見ると泉のように湧き上がってくる。
――お前が俺の傍に居たいと望むのであれば、俺は誰よりもお前を大切にしてやろう
だが、天流が背を向けて去って行くとしたら――。
その考えは暗い闇を伴ってルカの脳裏を掠めたが、すぐに沈み込むように消えた。
ほんの僅かな不快さを残して。
いつの間にか雨は止んでいた。
「ところでルカ、仕事は?」
突然、天流の声色が変わった。
さっきまでの穏やかなものではなく、妙に厳しい。
ルカは内心で舌打ちした。
(ついに出てきやがったが)
まるで別人格が現れたとでも言いたげな呟きだが、あながち間違ってはいない。
即ち、二年前まで解放軍を恐れさせた、“リーダーお仕事モード”である。
天流を傍に置いたことで唯一不満があるとしたら、これだ。
生真面目な天流は日がな一日天流と共に過ごそうとするルカに、“皇子としての最低限の責務くらい果たせ”とばかりにルカの尻を蹴飛ばす。
こう見えてルカはデスクワークが苦にならないほどに優秀なため、天流に仕事しろと言われても苦痛ではないのだが、何だか妻に仕事へと追い立てられる夫のような気分になる。
だが天流自身も書庫に通ってハイランドのことを学びながら、少しでもルカの手助けになればと雑用など秘書のようなこともしてくれるので、どちらかというと仕事をするのが楽しくもあるのだが。
ルカは渋々天流を開放すると、机に積み上がった書類を手にした。
「宰相共に渡してくる。明日は遠乗りに行くぞ」
付き合えという意味を込めた反論を許さない強い口調に、天流は苦笑しながら頷いた。
心なしか上機嫌な足取りで部屋を後にするルカの後姿を見送り、天流はソファに寝転んだ。
翳した右手は微かに熱を持つ。
右手に浮かぶ紋章は一度暴走した後、ずっと沈黙を保ったままだ。
静かで穏やかな日々が続くと、次第に膨らみゆく不安の影。
この平穏はいつまで続くのだろう――と。
(テッドもこんな不安を抱えていたのかな)
自分は少しでも、彼にとっての安らぎとなっていたのだろうか。
親友の面影を追い求めるように、天流は瞼を閉じた。
「こいつ・・・俺の理性を試しているのか・・・?」
部屋に戻ったルカはソファに眠る天流の無防備な寝顔を見下ろし、深い深いため息をついた。
END
雨音に沈むのは辛い記憶と、やがて訪れる不穏。
な雰囲気が出てれば良いんですけど(苦笑)。
そろそろルカ様が裏への扉を開きそうでやばいです(滝汗)。