交錯3





雨が叩きつけるように地面を濡らし、踏み出せば小さく水飛沫が跳ねて足元を濡らした。
家人の腕に守られていても尚、服はあっという間に雨水に濡れ、その冷たさは容赦なく体温を奪い去っていく。

頬を止め処なく流れるのは雨なのか、それとも涙だったのか。
心が麻痺したように色を失っていた少年には、それすら解らない。


全てが信じられなかった。
突如平穏を切り裂いた悪夢のような出来事。

いきなり押し掛けてきた大勢の兵士。
暗い表情で唇を噛み締めていたのは、兄のように思っていた青年。
そして、置き去りにしてしまった、大切な親友。

彼はどうなっただろう。
酷い目に遭ってはいないだろうか。

確かめる術も無く、ただ雨の中を彷徨う。


――・・・ッド・・・・・・テッド・・・


雨音だけの暗い世界に明かりをを灯すかのように誰かの声が届く。
聞き覚えのない、だが優しい声が呼ぶ大切な親友の名は、闇に閉ざされかけていた心に光を降らせた。


(テッド・・・どこ?)


心を失っている場合ではない。
彼を助けなければならないのだから。



声に導かれるようにして、天流は綴じていた瞼を開けた。






■■■■■





「良かった、気がついたんだな・・・」

端正な顔を泣きそうに歪めた青年が、覆い被さるようにして天流を覗き込んでいる。
見覚えはないが、どこか親しみやすさを感じ、天流の中に見知らぬ人間への警戒心はあまり沸かなかった。だが周囲を見渡してみて、自分の置かれた状況に戸惑う。

「・・・ここは?」

「俺の家だ。お前、何日も意識が戻らなくて・・・。大丈夫か? ひどく頭を打ったようだが、眼は見えているか?」

こくりと頷く天流に、青年はようやく安堵したように息をついた。
だがすぐに緩んだ口元を引き締めて険しい表情を作る。

「いったいどういうつもりだったのか説明してもらいたいな。何故お前は刃物を持つ人間の前に立ち塞がった? 殺されるつもりだったのか?」

責める口調の言葉に、天流は困惑した。彼は何を言っているのだろう。

「だいたいお前は武術の心得があるんだろう? 相手が女だからと油断していたのか?」

言葉を失ったままの天流の様子に青年は深くため息をついた。
彼が怯えているように見えたのか、鋭かった口調が若干柔らかくなる。

「怒鳴って悪かったな。刺された傷はすでに治癒の力で塞がっているはずだが、結構な出血があったから、しばらくは無理をするな。頭の方は酷く痛むか?」

問われて、天流は確かめるかのように頭を動かしてみたが、激痛と眩暈に襲われて堪らず呻いた。
すかさず青年が優しく頭を撫でる。

「まだ寝ていた方が良さそうだな。食事は出来そうか?」

痛みの余韻が残る中、天流は苦痛と混乱に満ちた瞳で青年を見上げ、おずおずと問いかけた。

「貴方は、誰・・・?」

「え?」

「此処は、どこですか?」

「何を・・・」

青年も、天流の様子がおかしいことに気がついたようだ。
冗談を言っているのか、という言葉は天流の真剣な表情を見ると消え去った。

「俺だよ、シードだ。先日泉の傍で会っただろう?」

「泉?」

どこの泉だろう。
記憶の中の泉を一つ一つ引っ張り出してみるが、どこにもシードと名乗る青年の記憶は無い。

「お前・・・」

不審と困惑を浮かべて思い悩んでいる天流を茫然と見つめ、まさか記憶喪失ではと血の気が引く。

「名は? 家は? 出身地は言えるか?」

途端に天流の表情が険しくなった。全身で警戒心を顕にしている。
これは見知らぬ人間に自分の正体を知られたくないという意思表示か。

「自分が何処の誰かは解るんだな?」

慎重に頷くのを見て、シードは天流が思わず拍子抜けするほどあからさまに安堵した。
では何故自分の記憶がないのだろう。まさかそれほどに彼の中でシードが印象に残らなかったわけではないと思うが・・・。

「もしかして、記憶が飛んでいるのでは・・・。お前にとって今は太陽暦何年なんだ?」

訝しげにシードを見やるが、相手は真剣そのものだ。
天流は慎重に答えた。

「・・・456年」

「今は459年だ。どうやら三年ほど遡っているようだな」

「そんな・・・」

俄かには信じ難い状況。しかしシードが嘘を言っているようには見えない。

「強く頭を打ったようだからな、一時的に記憶の一部を失ってしまったのかも知れない。しばらく様子を見てみるか。その間お前はここに居ればいい」

「そういうわけにはいきません。僕にはやらなければならないことがあるんだ」

「やらなければいけないこと?」

「僕は・・・友人を助けに・・・」

必死に起き上がろうとする天流だが、僅かに頭を動かしただけで酷い眩暈に襲われた。
シードの手が寝台に押し付けるように天流の頭と肩をそっと抱く。

「俺が知るお前は違う。全てを成し遂げた後の空虚さとでもいうか。とにかく何かの使命を背負っている様子はなかった。過去だ。今の時間では、お前のやるべきことは過去のことだ」

「・・・だったら、彼や家族の無事だけでも確かめたい。ここは何処ですか?」

「ここはハイランド王国の皇都ルルノイエの俺の家だ」

ハイランド!?

天流の琥珀の瞳が大きく見開かれ、愕然とシードを凝視した。

(何故僕はハイランドに居るんだ? テッドはどうなった!?)

今は追われる身とは言え、北方に遠征に行った父を頼れば何もかもが解決できたのではないのか。
テオ・マクドールもアレンもグレンシールも、きっと天流達を助けてくれたはずだ。そして聡明なバルバロッサ皇帝ならば、天流の言い分を聞いてくれてテッドを解放してくれるのだと思っていた。
帝国軍人に復帰すれば、行く行くは官吏として政治に携わることを目標にしてきたのに、それを捨てて何故トランを離れた遠い地に居るのだろう。
親友の、家族の無事をどうやって確かめればいいのか。
三年後のハイランドで、赤月帝国のマクドールの名はどれだけの影響力を持っているのだろうか。

現状を正確に把握できない上に動くこともままならない状態では、無闇なことはできない。

天流は動揺を押し殺すように目を綴じ、心を落ち着ける。
今は、このシードという青年の厚意に甘えるしかない。先程の様子からしても、彼が天流をテオ・マクドールの子息と解って世話を焼いているわけではなさそうだ。
信用するにはまだ情報が足りないが、当面は世話になる以外選択肢はないだろう。


「済みません、ご迷惑をお掛けします」

神妙な言葉に、シードは照れくさそうに苦笑した。

「ところで、僕は一人でこの地に訪れたのでしょうか? 共の者は?」

三年後といえば自分は十七か八。遠い地をたった一人で旅をすることを、グレミオやクレオが快く許すとは思えない。
彼等が居るのならば精神的にも随分楽になるのだが、天流が目覚めた今でも傍に誰も居ない。

「お前は一人だったぜ。それに随分旅慣れた印象を受けたぞ。共の者ってことはテッドは何処かのお坊ちゃんなのか?」

「え? テッド?」

何故シードがテッドを知っているのだろう。
その疑問が思いっきり顔に出ていたのか、シードはにやりと笑った。

「ははあ、さては偽名か。お前は俺にそう名乗ったんだがな」

「・・・済みません」

素直に謝る天流にシードは軽い口調で「別にいいけどな」と気にする素振りもない。

「で、どうする? 俺に本名教える気はあるか?」

問いに沈黙で返す意図を汲み取り、シードは一瞬寂しげに目を伏せたが、すぐに明るさを取り戻した。

「じゃあテッドでいいんじゃないか。それとも俺が可愛い名前付けてやろうか? そうだな、エリザベス、マーガレット、マリアンヌ、ミランダにレイチェル・・・」

「テッドでいいです」

何故に悉く女性の名前なのだろう。

半目を据わらせる天流の視線に冗談めかして「ざーんねん」と笑うシード。
彼なりに励まそうとしてくれているのだと解り、天流は怒りを消した。

すると、シードの表情が一転して困惑を滲ませる。

「ところでさ、お前の右手どうなってるんだ?」

「右手?」

何のことかすぐには理解できなかった天流だが、ハッと息を呑んだ。
一瞬のうちに蘇る記憶。テッドを置き去りにしてしまったことを気に病む余り、彼から託されたものの存在を忘れていた。

見られたのだろうか。

右手に意識を移すが、それは固く握られていて自分の手でありながら自由に指を動かせない。

「手袋を外そうとしても握り締めている指を外せないんだが・・・」

無意識に右手を守ろうとしていたようだ。
右手の甲に浮かぶものを見られなかったことに密かに安心する。

何とか力を抜こうとするが、すっかり強張ってしまった右手は頑として緩まない。
見られなかったのは良いが、動かせなくなってしまうとは・・・。

「・・・あとで自分で何とかします」

何度も指を動かそうと試みるが、やがて諦めたように息を吐いて目を綴じた。
余計な力を使って疲れた様子の天流を見つめ、シードは「そうか」とだけ言った。


程なくして、軽いノックの音が届いてシードは腰を上げた。

「来客のようだ。お前はゆっくり寝てろ」

そう言って部屋を出て行く。

一人になった天流は、ほっと全身の力を抜いた。


これから自分がどうなるのか。不安は尽きない。
幸いシードという青年は天流に対して友好的に接してくれているが、素性を知られても尚態度が変わらないという保証はない。

(・・・ハイランド、か)

トランの隣国でありながら、ほとんど国交の無いデュナン地方で都市同盟と勢力を二分する大国。

何故こんなにも遠い地に来てしまったのだろう。
自分が赤月帝国の外に出るなど、最近まで考えたこともなかった。

けれど――。

守るべき民に圧制を強い、政の中心には奸臣がのさばる帝国の現状を目にしてしまった今ならば、自身が帝国を見限る可能性はないわけではない。

(だが、何もせずに?)

苦しむ人々を見捨て、赤月帝国の腐敗を放置したまま?

(赤月帝国はどうなったのだろう。テッドや父上は・・・)

失った三年間に何をしてきたのかを知りたい。
家族や親友と離れて、この地に訪れた経緯を知りたい。


寝台に身を起こそうするが、襲いくる眩暈と激しい吐き気によって阻まれた。

情けない。自分への憤りが込み上げてくる。






■■■■■





扉の向こうに立つ男の姿に、シードは一瞬驚いたように切れ長の瞳を丸くした後、歓迎を込めて笑った。

「よう、クルガン」

「その様子ではあの少年の意識が戻ったようだな」

先日までの心配と焦燥の色に満ちた表情とは違うシードの様子に、クルガンは無表情を僅かに緩めた。

「まあな、だけど別の問題が出来た」

「別の問題?」

「階段から落ちた時に頭を打ったせいだと思うが、数年間の記憶が飛んでいるらしいんだ」

「記憶が? では、お前のことも覚えていなかったのか?」

苦しげに眉を寄せて頷くシード。

「何故旅をしているのか、何故一人なのか。それを知りたがっているようだが、俺には何も答えられない。テッドの本名すら知らないしな」

名乗った名が偽名ということは、少年が素性を知られてはまずい立場の人間であることを示唆する。恩人であっても心を開かない頑なさからは、非礼への憤りや苛立ちよりも、まだ幼い少年が他人に対する警戒心を強く抱くことへの憐れみを感じた。

シードから聞いていた話からは少年が礼儀正しく物静かな性格であることが窺えるが、複雑な事情を考えると接し方には細心の注意が必要に思えた。
果たしてこの若い同僚だけで大丈夫だろうか。


「せっかく来たんだからあいつに会って行けよ」

「良いのか?」

「お前一人くらいなら大丈夫だろ」


シードに促されるまま奥の一室に入ると、寝台に横たわる少年がこちらに視線を向けた。

まっすぐな琥珀色の瞳。
綺麗な少年だとは思っていたが、その内なる強さをひしひしと感じる真摯な双眸が、彼が容姿の良い子供というだけではないことを語る。

「テッド、こいつはクルガン。俺の同僚だ」

「よろしく」

「初めまして、クルガンさん」

疲れと体調の悪さのせいか、消え入るような声だが澄んだ響きが耳に心地良い。

(可愛いな)

頼りなげでありながら毅然とした態度を保とうとするアンバランスさが少女と見紛うばかりの美貌と相俟って、そちらの趣味がなくともうっかり絆されそうになる。

「お前がそういう趣味に走るのが解らんこともないな」

クルガンの呟きに、シードはがっくりと肩を落とした。
もういい加減否定することにも疲れ、食って掛かることもない。
とりあえず、彼に聞こえなかったのが幸いだ。

テッドという少年を冷静に眺めながら、クルガンは考え込んだ。
訊きたいことはたくさんある。正体を明かせとはさすがに言えないが、多少の情報くらい晒してくれても良いだろうに。
目に見えて顔色の悪い少年を問い詰める真似は今は出来ないが、折を見て訊いてみようと思った。シードでは甘くなりがちだが、自分ならば。

クルガンの探るような視線を受け止め、少年の警戒心が一層強くなった。
それに気付いてクルガンは降参だ、と言いたげに視線を緩める。人道的にも、今の彼を精神的に追い込むわけにはいかない。優しく頬を撫でて仲直りの意思を伝えると、少年の表情からも強張りが解けた。
同時に緊張の糸も解れたのか、うとうとと眠たげに瞼が降りていく。

「眠いのか?」

シードが覗き込みながら尋ねると、まるで頷くかのように瞼が完全に綴じた。


「眠ったか」

「ああ、身体が休息を必要としてるんだと思う」

「シード、彼をどうする気だ?」

「とりあえず、怪我が治るまでは面倒を看てやるつもりだ。その後のことは、あいつの判断に任せるよ」

面倒見の良さも、ここまでくるととんだお人好しだ。

内心苦笑するクルガンだが、シードにここまでさせるほどの何かが少年に備わっているのは間違いない。
クルガンが初めて出会った時は未だ昏睡状態の彼の姿だったが、頼りない寝顔であってもどこか掻き立てられるようなものを感じさせられた。そしてそれは、琥珀の瞳に見つめられた瞬間に確信へと変わった。数年間の記憶を失ったという状態ですら惹かれるものがある少年。本来の姿にはどれほど惹き付けられるだろう。
ただ、それがどういった種類の感情なのかは解らない。庇護欲だろうか。できればおかしな方向のものではないことを祈りたい。


「クルガン、良かったらまた来てやってくれ。俺一人じゃテッドを退屈させてしまうかも知れないし、話し相手も必要だろうからな」

「お前に退屈はせんだろうが、お前だけでは確かに心配だな」

「・・・・・・どういう意味だ?」

何だか色んな意味で馬鹿にされたような気分だった。






クルガンが帰った後、シードは寝台の傍に跪いて飽くことなく“テッド”の寝顔を見つめていた。
今更ながら安堵の震えが襲ってくる。

(助かって、本当に良かった・・・)

握られたままの右手すら愛しく、手袋の上から軽く口付けた。

血を流して倒れる少年の姿は、きっといつまでも忘れることはできない。
胸に短剣が刺さったままの痛々しい姿。
下手に引き抜くと血が吹き出てしまう恐れがあったため、治癒の紋章を持つ者が居ない場所ではどうすることもできなかった無力感。
ルカ皇子の凶行によって死んでしまったと思われた幼い友人に、生きて再会できた喜びを感じる間もなく再び命の灯火が消えてしまう恐怖を味わった。


「二度と誰にも、お前を傷つけさせはしないからな」

確かな決意を込めて、そう誓う。






■■■■■





ルルノイエ城から、狂気を抑え込んでいた光が消えたことに気付く者はいなかった。

――ただ一人を除いて。



「リウ・・・貴様も俺を裏切るか・・・」

薄暗い一室に一人佇み、ルカ・ブライトは抑揚のない口調で呟きを落とした。


数日前までこの部屋にあった気配が消えた後、日が経つにつれてルカの中で何かが死んでいく。

天流の身を案じる想いはいつしか氷の棺へと封じ込められた。
理性的だった黒曜石の瞳には残忍な殺意の炎が揺らめく。


「ならば俺は、二度と立ち止まるまい」


剣を振るうのを止めたのは、すべて彼の為だった。
ルカにとっては何の意味も無い命でも、失われる度に彼が辛い思いをするから。
その彼が居ないのであれば、湧き上がる殺意を抑制する必要など何処にも無い。


振り返ることなく、ルカ・ブライトは無人の部屋を出た。
人としての心を置き去りにして。



そして、ハイランドに再び殺戮が訪れる。



END


シードとの再会とクルガンとの出会いでした。
クルガンはまだ坊ちゃんに対しては不信感もあると思います。
解放軍の軍主として培ってきた本来の実力が今はなりを潜めているので
シードやマチルダ騎士のように一目惚れするには至りませんが、
これから少しずつ仲良くなっていくことかと。
で、可愛い坊ちゃんを失ったルカ様の暴走が始まります(汗)。



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