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□ 一輪の花 □
まどろむ意識の中を、花にも似た甘い薫りが過ぎた。
「藍様、まだ寝ていてもいいのかい?」
耳をくすぐる艶を含んだ声に、藍楸瑛はうっすらと目を開けた。
切れ長の涼しい眼が今は眠たげに細められ、魅惑的に微笑む美女の姿を捉えると口元に笑みが刻まれた。
「美女に起こされる朝というのは良いものだね」
「ふふ、ありがと。本心かどうかはともかく藍様にそう言われるのはいい気分だね」
「ひどいな」
楸瑛は苦笑を漏らしながら上体を起こし、乱れた髪を掻き上げた。
その仕草は扇情的で、男性ながら色気が溢れる。
妓楼一の美女である胡蝶すらも、一瞬見惚れそうになった。しかし彼女はそれを顔に出すことなく嫣然と微笑む。
さりげなく楸瑛から逸らした目を窓の外に向けた胡蝶は、人通りを走ってくる小さな影を捉えて笑みを深くした。
いつも浮かべる女の色香溢れるそれとは違う表情に興味を引かれ、楸瑛は胡蝶の隣に立って眼下を見下ろす。
妓楼で一夜の夢を交わした人々がまばらに見える通りを、場にそぐわない小さな体が軽やかに走っている。意外な光景に楸瑛は目を丸くした。
「随分可愛らしい娘だね。この妓楼の娘かい?」
「そうだよ。可愛いだろ?」
悪戯っぽく笑う美女に、楸瑛はどう返して良いやら反応に迷った。
視界に捉えた姿は建物の上から見てもとても幼く、十をようやく超えた位としか思えない。
あのような幼子が妓女に?
困惑を浮かべる楸瑛に耐え切れないとばかりに胡蝶は笑った。
「あの娘は妓女じゃないよ。大切な預かりものさ」
「預かりもの?」
「いくら可愛くてもあの娘には手を出さないでおくれよ。藍様でも許さないからね」
「私は幼女趣味はないよ」
笑い交じりに答える楸瑛だが、胡蝶からは先程までのからかいの色が消えていた。
「今は、ね。数年後どうなるか解らないだろ?」
「ああ、それはそうだね。私の恋の相手に相応しくなれば考えるだろうね」
「ふふ、藍様の方はもしかすると落ちるかも知れないね。あの娘は将来佳い女になる。でもね、あの娘に惚れられたいのなら相当な努力が必要だよ」
胡蝶の脳裏に難攻不落の最強の双璧の存在が浮かぶ。これを崩すのは並大抵のことではない。胡蝶でさえ玉砕したことがあるのは苦い思い出だ。
含みのある言葉に楸瑛は面白くないとばかりに眉を寄せた。
「私があの小さな娘に嵌ると言いたいのかい?」
有り得ない、と一笑に伏したくなると同時に不愉快だ。自分が恋に溺れる愚かな男に成り下がると、目の前の美女は本当に思っているのだろうか。
貴陽一の妓女である胡蝶ともあろう者が、一夜の夢であっても情を交わす恋人を幼い少女が本気にさせるなどと、あっけらかんと口にするのも信じ難い。
そんな楸瑛の様子に胡蝶は悠然と彼を流し見た。
「そうだねえ、秀麗ちゃんには是非とも藍様を落としてもらって、今まで散々泣かされてきた女たちの敵討ちをしてもらいたいものだねえ」
遊びなれている妓女すらもいつしか本気にさせてしまうが、決して自身は我を失わない罪な男。彼が恋に本気になり、普通の男のように惑い、乱れる様を是非とも目にしたいものだ。
女達の見せる嫉妬や独占欲を厭い、自由な蝶のように花を渡るこの男がたった一輪の花から抜け出せなくなった時。今まで持ち得なかった感情とどう向き合うのだろうか。
「随分と怨念が篭っていないかい?」
問いかけの視線に、胡蝶はただ笑みを返した。
■■■■■
軽やかな足取りで妓楼に駆け込んできた少女、秀麗は建物の中を迷いなく進んでいく。
時々にこやかに声を掛けてくる妓女達に朗らかに挨拶を返す様子は、少女がこの妓楼に受け入れられていることが解る。
ふいに奥からざわめきが聞こえて秀麗は首を傾げたが、前方から近づいてくる人物に気づくと道を譲るために端に寄った。
趣味の良い藍色の衣を纏う長身の男性。妓楼の客であることは確かだ。
だが秀麗はその後ろに見えたもう一人の姿に顔を輝かせた。
「秀麗ちゃん」
にっこりと微笑んで手招きする女性に、秀麗は客のことも忘れてまっすぐに彼女の元に向かった。
「胡蝶姐さん!」
飛び込んでくる小さな身体を抱きとめ、胡蝶は満面の笑顔を浮かべる。
一方、秀麗にあっさりと素通りされた楸瑛は思わず後ろを振り返って抱き合う美女と少女を見つめた。これ程あからさまにはっきりしっかり迷いなく自分の存在を無視されたのは初めてだ。
「よく来たね。今日もお仕事頑張っておくれね」
「はいっ」
元気良く返事をした秀麗は注がれる視線に気づいて顔を上げ、そこでようやく楸瑛を見とめた。
一瞬不思議そうな顔をした秀麗だが、すぐに大きな瞳をいっぱいに開いて頭を下げる。
「ごめんなさい! お客様が・・・」
「いいんだよ、この人は何も気にしないさ」
すでに楸瑛は眼中にないとばかりに胡蝶は秀麗の頭を撫で回す。相当溺愛しているようだ。
完全に蚊帳の外に置かれた楸瑛はもはや苦笑するしかない。
何より秀麗と呼ばれる少女の反応に少々驚きを隠せなかった。
まだ幼いとはいえ、この年頃の少女ならば徐々に異性を意識し始め、恋に夢見ているもので、自慢ではないが楸瑛を見ると小さな女の子といえど顔を赤らめてもじもじとするのがいつもの光景だった。
だが秀麗は楸瑛を見ても臆することなく、むしろ無邪気な瞳でじっと見つめられる楸瑛の方が居たたまれなくなって目を逸らしてしまう。妓楼という場所で明らかに朝帰りの男にこれほどまで澄んだ眼差しを向けられては、何だか自分がひどく悪い大人のように思えてくる。
こんなにも後ろめたく感じてしまうのは、秀麗が妓楼にそぐわない幼い子供だからだろうか。しかし、数拍の間とはいえ交わした視線の先、大きな黒い瞳は子供の無邪気さとともにどこか深いものを感じた。
幼い少女が持ち得るにはひどく重い何か。
内心でぐるぐると葛藤する楸瑛を油断のない瞳で見据え、胡蝶は意味ありげに紅唇を歪めた。
■■■■■
月日が流れ、あの頃のまま自由な蝶であり続ける楸瑛の視線の先には、成長した秀麗が居る。
幼い子供は今や凛とした女性への階段を上り始めた。
その輝きに魅せられる男達は時とともに増えつつあるのは確かだ。
(確かに秀麗殿は魅力ある女性へと成長しつつある)
容姿だけを取り上げるなら可愛い部類ではあるが、どこにでもいるような娘だ。
だが彼女は内面を光り輝かせ、内側からの美しさで自分自身を飾り立てている。それは決して誰にでも出来ることではない。
表面を飾り立てるのは簡単なことだ。化粧を上手に施し、煌びやかな衣を纏い、高価な香りを身に付ければ良い。
でも彼女は、そんなものに頼らずに自分を美しく魅せることに成功した。
楸瑛ですら、時々彼女がひどく眩しく映る。
年上の男性である自分に向けられる彼女の感情は、兄への信頼のような、有能な大人への憧れのようなものだ。
以前はそれが心地良かった。いつまでも彼女を妹のように可愛がりたいと思っていた。
だが今は、時に無性にそれを壊したくなる自分がいることを、楸瑛は認めざるを得なかった。
(いよいよ、冗談では済まなくなってきたな)
自嘲的に笑う。
これ以上彼女の輝きに魅入られるのは危険だ。
自分の中に未だ眠る醜く激しい感情を引き出そうとするな、と願うと共にその感情に流されることに言い知れない期待を抱くのもまた事実。
少女の小さな背を目で追いかけていると、その視線に気づいたのは彼女ではなく、彼女の傍に立つ家人だった。
向けられた彼の目は凍てつく冷たさを秘めている。
(胡蝶、君の言っていた双璧の意味がよく解ったよ)
自分よりも先に秀麗に本気になった青年がことあるごとに跳ね返されているのだから、その強度は想像を絶する。
いつもならば彼に睨まれると思わず従ってしまうのだが、今は強く見返すことで彼に自分の意思をはっきりと伝える。
自由に花を飛び渡っていた蝶は、やがて一輪の花に魅せられた。
了
ええと、ほんのり秀麗←楸瑛←胡蝶(?)ですか?(訊くな)
思いつきで書いた駄文なので、私もよく解りません(苦笑)。
実は現在オフの方で楸瑛v秀麗な話を作成しているので、何となくこんな話が出来ました。
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