荒ブ刀 前編





紅い雨

浴びても浴びても浴び足りぬ

柔らかく、あたたかな身を裂いて吹き上がる、

紅い紅い飛沫


消えゆく命の最期の鼓動

それを奪い去る一瞬の、何と甘美なことか

流れる紅い雫の、何と美しいことか


まだ足りぬ、まだ足りぬ


我に与えよ

我に与えよ・・・






■■■■■





夜も明けきらない時刻。
薄らぎ始めた闇の中、雪村千鶴は気だるげに身を起こしていた。

「・・・何なの・・・?」

囁くように零れ落ちたのは、困惑の声。

稚さが抜けきらない顔立ちには疲労の色が濃く、彼女があまり眠れずにいたことが窺える。
再び眠りに入ろうにも、それを邪魔するように頭の中に不可解な声のようなものが響いてくるのだ。
心身の疲れを取る睡眠を妨げられ、頭も身体も酷く重く感じる。

ふと彷徨わせた視線が、丁寧に畳まれた着物の傍に置いた小太刀を捕らえた。
そっと両手に持てば、纏わりついていたどろどろとした何かが、さあっと吹き払われていくように感じ、ほっと息をつく。

父である網道に、母の形見であると教えられた小太刀。
沖田や斉藤からも相当の業物だと褒められたそれは、常に千鶴とともに在る半身のようなもの。

触れていると、不思議と心が落ち着いた。



結局、ほとんど眠ることができないまま朝を迎えた千鶴は、寝るのを諦めて厨に向かった。

今朝の食事当番は原田と永倉だ。
二人は千鶴の手伝いを大歓迎し、彼女の指示のもとで手を動かす。
下手に自分達で料理するより、千鶴の指示に従った方が手際も味もずっと良いのだ。

そうして無事に形となった朝餉に満足し、千鶴に礼を述べようとした原田の表情がふいに心配そうに曇った。

「どうしたんだ、千鶴? 顔色が良くないが・・・」

「あ、大丈夫です。少し夢見が悪かっただけなので」

「夢見が? 何か心配事があるなら言えよ? 可愛い顔に隈なんて似合わねえからな」

大きな手で千鶴の頭を撫で、優しくそう言う。
原田の気遣いが嬉しく、千鶴は彼に照れたような笑みを向けた。


千鶴達の手によって膳が並び終わる頃、広間には幹部達が揃っていた。

「おお、今朝は雪村君の手料理か!」

「あー良かった、当番が左之さんと新八っつあんって聞いて不安だったんだよー」

「こら平助! どういう意味だそりゃ!」

嬉しげな近藤の歓声に続くように発せられた、平助のあからさまに安堵した物言いに新八が抗議の声を上げるが、平助の言葉は実は全員の心境でもあった。
当番である新八や左之助すらも、千鶴の助力があって心底良かったと思っているのだから。

賑やかな食事が始まり、決して豊富ではない食材が様々に工夫された料理に舌鼓を打つ幹部達。
日常の風景と化した、新八と平助のおかず争奪戦なども繰り広げられ、千鶴よりも遥かに多くの量を千鶴よりずっと早く平らげる。

「あれ? 千鶴、あんまり食ってないな」

あー食った食った、と満足気に腹を撫でていた平助が、隣の千鶴の膳を見て問う。
自分達と比べると食の細い千鶴だが、今日は全くと言っていいほど箸が進んでいないようだ。

「平助君達を見てたら私までお腹いっぱいになっちゃって」

努めて明るい口調で答えた言葉は別に嘘ではないため、平助は「そっかー」と千鶴と一緒に笑ってくれた。

平助に言った言葉は確かに真実だ。だが、それ以上に今日の彼女には食欲がなかった。
しかし、聡い土方や斉藤辺りに不審に思われないうちにと、無理に朝餉を腹に収めるのだった。


朝餉の後も掃除や洗濯などの雑用をこなしていた千鶴だが、いつもに比べて随分と時間が掛かっていることを自分でも自覚していた。
寝不足のせいで頭が重く、思うように身体が動かないため、どうしても手際が悪くなるのだ。
その上、絶えず耳鳴りがして、不快な頭痛が襲う。

「疲れた・・・」

我慢強い千鶴も、思わず溜息とともにそんな言葉が漏れた。

空を仰げば、どこまでも澄み切った青空が広がる。
温かな陽射しが気持ちよく、いつもであれば心を弾ませながら外に出て庭掃除でもするところだが、今の彼女にそんな体力は無い。


「千鶴、どうかしたのか?」

廊下の雑巾掛けの手を止めて座り込んでいた千鶴の頭上から、ふいに声が降り落ちてきた。
振り仰ぐと、いつの間にか傍に立っていた平助が不思議そうに彼女を見下ろしている。巡察帰りなのか、隊服を羽織ったままだ。

「あ、平助君、お帰りなさい」

「おう、ただいま。お前もご苦労さん。休憩するなら一緒にこれ食おうぜ」

そう言って差し出されたものを反射的に受け取った千鶴は、渡されたそれを見て首を傾げた。

「わらび餅・・・?」

「お前、今朝は食欲なかっただろ? これなら食べやすいかなって思ってさ」

にかっと明るい笑顔を向けられ、千鶴の胸の中がほんわりとあたたかくなる。
自分を気に掛けてくれる平助の優しさが嬉しい。

「平助君、ありがとう」

「へへ、俺今から土方さんに巡察の報告してくるからさ、千鶴は茶でも淹れといてくれよ」

「うん」

上機嫌に土方の部屋に向かう平助の後姿を見送り、千鶴は厨房に向かう。
先程まで疲労に満ちていた顔には、ほのかに微笑が浮かんでいた。





■■■■■





夕餉の後、広間に座したまま雑談を交わす幹部達に茶を渡していると、隊服姿の沖田と斉藤が現れた。

「それでは局長、副長、行って参ります」

生真面目にそう言って、斉藤が近藤と土方に頭を下げる。
これから一番組と三番組が夜の巡察に出るようだ。

「ああ、気をつけてな」

「総司、斉藤、くれぐれも油断するなよ」

「解っていますよ」

「御意」

沖田と斉藤に向ける近藤と土方の声は固く強張っていた。
いつもと変わらぬように見える沖田や斉藤も、どこか緊張を感じさせる。


「あの、何かあったのでしょうか?」

彼らのただならぬ様子を遠巻きに見ながら、千鶴は傍に座る原田に尋ねてみた。

「ああ、昨夜辻斬り騒ぎがあったからな」

「辻斬り?」

「昨日の夜、京の町に出たらしいんだよ」

答えたのは平助だ。
昼間、巡察に出ていた彼は、その途中で役人や町人達からその話を聞かされたのだと言う。
故に、辻斬り騒ぎが収束するまでは、新選組も警戒を強めることになった。

「まあ、総司と斉藤ならやられることはないだろうけどな」

原田が軽い口調でそう言うと、新八や平助も「そうそう」と力強く頷く。
千鶴を不安にさせないようにとの配慮も窺えるが、やはり彼らの間で強い信頼感があってこその言葉だろう。

そんな彼らを、少し羨ましくも思う。


お前は疲れているようだからもう休め、との原田の言葉に甘え、寝るにはまだ早い時間ではあるが千鶴は部屋に戻った。

寝巻きに着替え、布団の中に入ると眼を閉じる。
昨夜眠れなかった分、眠気はすぐに訪れた。
疲れ果てた心も身体も、眠りを何よりも欲しがっているのが解る。
だが、頭の中で絶えず聞こえてくる耳鳴りのようなものがそれを阻む。

それでも眠気がそれを上回り、うとうとと深い闇の中に意識が沈んでいく。



だが、彼女を迎えた夢は、紅い色に彩られていた。



紅い、紅い雨。
月光に照らされ、銀色に輝く鋭い刃が振り下ろされる先に、吹き上がる紅。

飛び散るそれを浴び、哄笑を上げるのは   




     っ!!」



眠りについて幾許もせず、千鶴はハッと眼を開ける。
夜の静寂の中に、彼女の荒い呼吸の音だけが響く。

「・・・夢・・・?」

早鐘を打つ胸に手を当て、必死に落ち着かせようとするも、頭の中では昼間とは比べ物にならないほどはっきりと声が聞こえてくる。


まだ足りぬ、まだ足りぬ・・・


低くくぐもった声は、何度も何度もそう繰り返す。

「・・・何なの?」

纏わり付く声のおぞましさに、恐怖を感じた。
叫びだしたくなるのを懸命に耐えながら、震える手を小太刀に伸ばす。

触れた部分から清らかな風が吹き抜けるかのように、どろどろとしたものが吹き払われる。

「父様・・・」

心細さに、思わず助けを求めるように呼んでしまうのは、彼女にとって最も大切な存在。

小太刀を抱きしめて背を丸め、じっと恐怖に耐えるのは、まるでこの屯所に来て間もない頃のようだ。
あの頃に比べると、彼女の置かれた状況は随分と良くなったと言える。
だがそれでも、新選組にとって彼女は部外者だ。
不安に苛まれていても、彼らを頼ろうと思えぬほどに、彼女もまた彼らに気安くはできない。
夢の中に出てくるものが、まるで彼らと初めて出会った時に見たものを彷彿とさせるなら尚更だ。

何故今更夢に現れるのかは解らないが、あの日の出来事は彼らに“忘れる”ことを約束させられた。
少しでも話題に出そうものなら、彼らの手は刀へと伸びるだろう。
今は優しく接してくれる原田や平助も、すぐさま殺気を帯びた瞳で千鶴を睨むだろう。

顔色の悪い千鶴を気遣ってくれた原田の優しい手が。
千鶴を元気付けようとわらび餅を一緒に食べてくれた平助の笑顔が。
消え失せてしまう未来が怖い。


心の支えはただ一人、ここにはいない父、網道だけ。

頭の中で繰り返される不気味な声に怯えながら、千鶴は父を呼び続けていた。





■■■■■





夜の静けさを裂いて、恐怖に満ちた悲鳴が木霊した。
声が耳に届いた直後、沖田総司は一番組を率いて走り出す。

声がしたであろう場所に近づくにつれ、強い血の匂いを感じた。

「組長、あそこに!」

隊士の一人が指差した方向に、蹲る影を捕らえる。

駆け寄れば、それが悲鳴を上げた当人であることが窺い知れた。
すでに事切れた身体からは、夥しい血が流れ出て地面を黒く染めている。

「近くにいるかも知れないね。探して」

「は!」

沖田の言葉に、隊士達が駆け出す。


「総司」

死体の傍にしゃがみ込んでいた沖田の背後から、聞き慣れた声がした。

「出たみたいだよ、辻斬り」

視線は動かさないまま、後ろの人物に言う。

沖田へと歩を進めながら、その人物もまた部下達へ指示を出し、被害者を調べるため沖田とは反対側にしゃがむ。

「羅刹ではないな」

沖田だけに聞こえるほどの声音で、斉藤が呟く。

傷口からは未だにじわじわと血が流れていた。
“羅刹”であれば流れる血に狂喜し、今頃一心不乱に血を啜っているはずだ。

「うん、これはただ殺しを楽しんでいるだけだね」

こともなげにそう言うと、沖田はもはや死体に興味はないとばかりに立ち上がり、辻斬りの捜索の方に向かった。



〈次〉

12.11.20up



ブラウザのバックでお戻り下さい