狂ウ獣 前編





   助けて・・・
誰か、助けて・・・


天を劈いて響き渡るいくつもの悲鳴。次々と吹き上がる紅い飛沫。
目の前で繰り広げられる悪夢のような現実を、ただ見ていることしかできない絶望感に小さな身体はガタガタと震える。

逃げ惑う人々の叫びも、懊悩に溢れた唸り声も、彼にとって受け入れ難い悪夢だった。
何よりも胸を抉るのは、苦悶に満ちた獣の咆哮だ。


(誰か!!)

助けを求める一心で、震える足を懸命に動かして彼は山を駆ける。

誰でもいい。
あの悪夢を終わらせて欲しい。



どれだけ走り続けただろう。
気がつけば彼の周囲の景色は一変していた。
鬱蒼と茂る木々も、むせ返るような血の匂いもない。

いつの間にか山を下りていたようだ。
あぜ道の向こうに広がる田畑は人の手によって管理されているのだと解る。

『誰か・・・』

人里に出れば誰か見つけられるだろうか。

山道を走り続けていて作った擦り傷だらけの足を引きずりながら、彼は助けてくれる手を求めてふらふらと歩き出した。





■■■■■





どうしてあんな所に子供がいるのだろう。

雪村千鶴はそんなことを考えながら歩いていた。

その日は斎藤一率いる三番組の巡察に同行していた彼女は、人気のない通り道の脇に続く並木の一本の樹の傍に立つ小さな影に気付いて首を傾げた。

見たところ周囲には同じ年頃の子供も、親らしき人の姿もない。
草履も履かない素足は擦り傷だらけで、全身が土や砂に酷く汚れている。
そんな状態でその子はたった一人、こんな寂しい場所に立ち続けているのだ。

(声を掛けた方が良いのかしら)

親はどこにいるのか、家はどこなのか。
それを問うて送り届けてあげるべきだろうか。
だが彼女はそんな判断を下せる立場ではなく、千鶴は最も頼れる人物の背中を見やった。

斎藤なら、何とかしてくれるかも知れない。
そんな期待を抱いたが、しかし斎藤は佇む子供に一瞥もくれず、歩調を落とすこともなかった。
それは他の隊士達も同様で、誰一人として子供に注意を向けない。

(ど、どうしよう・・・)

このまま自分まで見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは気が引ける。
かと言って斎藤達が放置したというのに、自分が手を出して良いものか。

葛藤しながら、千鶴は心配そうな視線を子供に向けながら隊列に続く。
新選組が通り過ぎるのをぼんやりと眺めていた子供は、千鶴と擦れ違いざまに眼が合った瞬間、驚いたように瞠目した。

新選組に同行している自分に見つめられたせいで怯えさせてしまったのだろうか。
そう解釈した千鶴は、これ以上怖がらせないように急ぎ足で子供から離れる。
子供のことは後で役人にでも知らせよう。そう心に決めて。

その時。

『助けて・・・』

囁くような小さな声が微かに耳に届いた。

「え?」

振り返ると、真っ直ぐに千鶴を見つめる縋るような眼と視線が合う。

『お願い、助けて』

今度ははっきりと、子供の唇から声が発せられた。

「どうした、雪村」

千鶴の異変にすぐさま気付いた斎藤一が、隊列を離れて彼女の傍まで歩み寄る。
斎藤の問いに千鶴は彼を振り仰いだ後、再び子供に視線を向けた。

「あの子供が、何か言いたそうなんですけれど話を聞いて来てもいいですか?」

千鶴の視線を追って目を向けた斎藤だが、訝しげに眉を寄せると思いがけない言葉を口にした。

「子供などおらぬが?」

「え?」

一瞬、何を言われたのか解らなかった。
思わず凝視した斎藤の表情は至って真面目で、冗談を言っている風ではない。
いや、そもそも斎藤がそんな嘘を吐く必要などないのだが。

「五歳くらいの男の子が、あの樹の傍に立ってこちらを見ていますよね?」

「いや、俺には見えぬ」

「そんな・・・」

千鶴の眼には確かに子供が立っている様が見えるのに、斎藤はそれを認識していない。
そのようなことが起こり得るのだろうか。
ならば自分の目に映っているあの子供は何なのだろう。

顔色を失う千鶴の様子に、斎藤は強引に彼女の手を引く。

「行くぞ、雪村」

「あ・・・」

斎藤に手を引かれながら、千鶴は後ろを振り返る。

視線の先では哀しげな表情の子供が、遠ざかっていく彼女をじっと見つめ続けていた。





■■■■■





やっと自分の存在に気付いてくれる人を見つけた。

助けを求める相手としてはあまりに頼りなく見えたが、きっかけにはなるかも知れない。
藁にも縋る思いで、痛む足を引きずりながら、 浅葱色の羽織を着た男に連れられて遠ざかるその背を追いかけた。



浅葱色の集団はやがて大きな寺の中へと入って行った。
その入り口に立ち、彼は入るべきか迷う。

しばらく待ってみたが、浅葱色の集団が出てくる気配はない。追って来た人物も然り。

散々迷った末、意を決して境内に踏み込もうとした時、不意に彼の身体が浮き上がった。

『!!???』

「やめなさい。入らない方が良い」

突然のことに慌てる彼に、落ち着いた低い声が掛けられる。
はっと振り向くと、褐色の大柄な男が彼を摘まみ上げていた。

「君のような者がこんな所に入ったら、すぐに調伏させられてしまいますよ」

『お、おいらが解るのか?』

「ええ、私は鬼ですからね。それより、君はここに何の用があるのですか?」

『おいら、お姉ちゃんを追いかけてきたんだ』

「お姉さん、ですか?」

『おいらを見つけてくれたから、助けてくれるって思って・・・。なあ、あんたでもいい。助けてくれよ』

「何をしている天霧」

男が何か言う前に、別の男の声が聞こえた。
新たに現れた男の姿を眼にした途端、子供は恐怖に身体が竦む。

本能的な恐怖。
自分を摘まみ上げている男からも強い重圧感を覚えるが、もう一人からは命の危険すら感じるほど鋭い刃のような殺気が伝わってくる。

怖い。
その思いだけが心を支配する。

身を固くして震えている子供に気付き、天霧と呼ばれた男はもう一人の男の殺気から守るように子供を腕に抱いた。
天霧の身体が盾になってくれたお陰で少し余裕が生まれたのか、子供はおずおずと口を開く。

『な、なあ、あんたら強いんだろ?』

「何だ、貴様は」

紅玉の鋭い目線に貫かれ、背筋を嫌な汗が伝う。
だが、これほどまでに強い男達なら、何とかしてくれるかも知れない。
今すぐにこの場から逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、子供は懇願した。

『お、お願いだよ、おいらに力を貸してくれ!』

「卑小な妖(あやかし)風情が、この俺に気安く話しかけるな」

『ひっ』

不快に満ちた眼差しに凍りつく。
取り巻く空気が一気に冷え込んだ。

「風間、このような幼子を怯えさせるのは如何なものかと」

淡々とした声音で窘める天霧の表情は変わらない。
突き刺さるような殺気にも動じていないようだ。

風間と呼ばれた男はフン、と鼻で笑い、子供を睨みつけていた視線を外して踵を返した。

「あの娘に会おうと思ったが、興が殺がれた。行くぞ」

そう言うと、風間は背を向けて悠然と歩み去る。

恐怖に震える子供を下ろした天霧は、大きな手で慰めるようにぽんぽんと頭を撫でると無表情を少しだけ和らげた。

「申し訳ない」

それだけを言い残し、風間の後を追うように去って行く。


ようやく強い力を持つ者に会えたと思ったのに   

恐怖と絶望感に、子供は泣きそうな顔で項垂れた。





■■■■■





「心ここに非ず、だね千鶴ちゃん」

夕餉の時間、不意に沖田総司が言った。

「え?」

どこかぼんやりとしたまま箸を進めていた千鶴は、沖田の声でハッと顔を上げた。
いつからか広間に居る全員の視線が自分に向けられていることに気付き、頬がかーっと赤くなる。

「何かあったのか?」

心配そうな口調で尋ねたのは原田だ。

「い、いえ、その、ちょっと考え事をしていただけですから・・・っ」

全員から注がれる視線に居た堪れなくなり、唯でさえ小さな肢体を更に縮めてしまう。

千鶴を気に掛けながらも、彼女を追い詰めたいわけではない為、それ以上の追求はなかった。
そんな彼らの優しさが申し訳なく、千鶴は食事に集中することにする。


巡察から戻ってから、彼女の頭の中を占めるのは不思議な子供のことだ。
斎藤を始め、隊士達の目には見えなかったという小さな男の子。
自分だけに見えたというその子の正体を考える時、不思議と恐怖はなかった。

正体の解らぬものへの戸惑いはあるが、何よりも彼の表情があまりにも切実なものだったから、恐怖よりも先に憐憫の情が湧いてくるのだ。

(あの子、“助けて”って言っていたけど、どういう意味なんだろう)

思い悩む千鶴の表情はその後も晴れることはなく、男達の気遣わしげな視線が彼女を見つめていた。





翌日、非番だという平助に連れられて、千鶴は饅頭屋に来ていた。

「千鶴はそこで待ってな」

言い置いて店に飛び込む平助を見送り、千鶴は柔らかく微笑んだ。
期間限定の饅頭が美味いんだよ、と誘い出してくれた平助が自分を気遣ってくれていることには気付いていた。
昨日からふとした時に考えに沈んでしまうことが多く、聡い彼らにはすぐに自分の状態を見破られてしまうのだ。

(心配、掛けちゃってるなあ)

こんなことではいけない。早く気持ちを切り替えなければ。
頭では解っているが、やはり気になってしまうのは、哀しげに佇む子供の姿。

『お姉ちゃん』

「え?」

すぐ傍で聞こえた子供の声に視線を下にやれば、いつの間にやらそこには昨日擦れ違った子供がいた。

「貴方は・・・」

『お姉ちゃん、おいらを助けてくれる・・・?』

不安げに千鶴を見上げる子供からは、小さな子供には不釣合いなほどの必死さを感じる。

「君は誰? いったいどうしたの?」

子供の前に膝を付き、目線を合わせて覗き込むと、子供は泣きそうに表情を歪めた。

『助けて。皆死んじゃうよ』

「え?」

『赤い眼の化け物が皆を殺しちゃうんだ』

「!?」

“赤い眼の化け物”
その言葉に該当する存在を、千鶴は一つだけ知っている。

   羅刹。

血に狂って奇声を上げる彼らの姿が脳裏を過ぎり、千鶴の肩が震える。

「君のお名前は? それはどこで起きているのか解る?」

小さな子供には酷な質問かも知れない。
だが子供はうん、と頷き、自らを“こたろう”と名乗った。

『一人が狂ったんだ。そして殺されるものと、狂うものがどんどん増えて、おいら、どうすればいいかわからなくて・・・っ』

たどたどしい説明を辛抱強く聞いていた千鶴は、どくどくと脈打つ心臓の音がやたらと大きく聞こえた。
“こたろう”が語るのは、想像を絶する地獄絵図。
そしてそれは、自分一人でどうにかできるものではない。

(土方さんや近藤さんに言わなきゃ。でも、どう説明すれば・・・)

正体の解らぬ子供から聞かされた真偽不明の情報。
それを彼らにどう伝えれば良いのか解らない。


困り果てていると、「お待たせ!」と明るい声が思考を遮る。
饅頭の包みを手にした平助が、満面の笑みで店から出て来た。

「何か声がしたけど、誰かと話していたのか?」

「あ、うん、小さな男の子と・・・」

「ふうん、その子供はどこにいるんだ? もう帰っちまったのか?」

千鶴の周囲をきょろきょろと見渡し、不思議そうに問う。
そんな平助に「うん・・・」と答えながら、千鶴は傍らに佇む子供を見やった。
やはり千鶴以外に子供の姿は見えていない。

いったいどうやってこの子の言葉を伝えれば良いのだろう。

途方に暮れる千鶴の様子に、平助は内心でおろおろと慌てふためいていた。

(何で千鶴、益々落ち込んでるんだ? 俺、何かしたか!?)

それぞれの理由で困惑する千鶴と平助。

期間限定饅頭を求めて華やぐ店先で、それを手にして異様な雰囲気を醸し出す二人の姿は営業妨害以外の何ものでもなかった。



〈次〉

12.10.10up



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