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守リ人 前編
深夜。
人々は深い眠りの中にいる時刻。
しんと静まり返る屯所内でこんな時間まで起きているのは、やたらと仕事を抱え込む趣味を持つ副長か、我々のように闇に生きる者達くらいだろうと、山南敬助は思う。
日の出の頃に眠りにつき、日の入りと共に目を覚ます。
そんな日々にもすっかり慣れ、こうして暗闇を散歩することを楽しく感じるようにもなった。
日中であれば絶え間なく聞こえる人の声も今はなく、己の足音だけが静寂に響く。
ゆったりと歩を進めていた山南だが、ある一角まで来たところで不意に立ち止まった。
眼鏡越しに鋭い目線を闇の一点に据え、そこに在るはずのない輪郭を捉える。
雲間から差し込むほのかな月明かりが描く、柔らかな曲線。
近づけば、そこには見慣れた少女が夜着姿のまま、暗闇に一人佇んでいた。
「こんばんは、雪村君」
穏やかな声で話しかけるが、返事はない。
ぼんやりとした目はどこか遠くを見つめ、山南を映すこともない。
雪村千鶴は控えめながら、素直な性格の少女だ。
くるくると変わる表情は見ていて面白い。
だが、今の彼女の表情には何の感情もなかった。
そんな普段の彼女を知る者が見れば明らかに異常だと解る状態も、山南は別段気に留めていなかった。
“今の千鶴”が、まともな反応を返せるとは思っていないからだ。
「夜は冷えるでしょう。眠るのは布団の中にしなさい」
腕を取って導くと、千鶴は抵抗もなく山南に従う。
歩く度に鳴る二人分の足音に、山南は何か悪いことをしている気分になる。
こんな真夜中に年頃の娘と手を繋いで歩くなんて、平隊士が見たらどう思うか。
限られた隊士以外には自分は死んだことになっているから、十中八九亡霊の類いだと思われるだろう。
幽霊になった山南総長は若い娘の幽霊と逢瀬を楽しんでいる、なんて怖いのか笑えるのか解らない怪談話になりそうだ。
(規律を厳しくしてくれた土方君に感謝すべきでしょうかね)
とっくに就寝の刻限を過ぎたこの時間、外を歩く者は自分達以外にない。
昼間忙しく働いていた者達は、すべからく布団の中で夢を見ているだろう。
そう、彼女もまた――夢の中にいるのだ。
初めてこの状態の千鶴を見た時は、驚いた。
真夜中に勝手に自室を出た彼女を脱走するつもりなのかと疑いもしたが、こちらが話しかけても腕を掴んでも、何の反応も見せない様子に異常を感じた。
何度も呼びかけているうち、やがて正気に戻った千鶴は目の前に山南がいたことに驚き、自分が寝巻きのまま外にいる事実にさらに驚いていた。
そこに嘘や偽りの色はなく、山南の疑念は消えたものの、今度は千鶴の異常行動への懸念が芽生えた。
その後も何度か同様のことがあり、山崎や松本良順とも相談した結果、夢遊病ではないかという結論に至った。
松本によれば、この病は精神的なものが強く影響するという。
根本を断てば症状は治まるのだろうが、千鶴の抱える不安や心配事は新選組を以ってしても容易に解決できることではない。
父親である雪村網道の行方や安否は未だ知れず、彼女を付け狙う凄腕の男達の正体も解らず、新選組から解放してやれる目処も立たない。
そんな状況で若い娘がたった一人、どれほどの不安を抱えていることか。
(私では雪村君の不安を取り除いてはやれない)
せめてできることといえば、彷徨う彼女を見つけて部屋に戻してやるくらいなのだ。
自分が夢遊病であると知らされてから、千鶴も自身で色々と対策を試みているらしいが、それでもこうしてふらふらと部屋の外に出てしまうことがある。
先日は眠ったまま、厨でひたすら野菜を切り刻んでいるのを見つけた。
まったく危なげない手つきではあったが、意識のない状態で包丁や釜戸を使うのはいくら何でも危険だ。
よって、山南は夜の散歩がてら屯所内を千鶴が彷徨っていないか見回るのが日課になっていた。
部屋に入ると千鶴は敷かれた床に向かい、もぞもぞと布団の中に潜り込んで寝息を立て始めた。
今夜はすぐに布団の中に戻ったのか、と山南は微かに笑う。
部屋に戻っても、今夜のようにすぐ布団に横になることもあれば、じっと座ってることもある。
しかし朝になれば、彼女にとってすべては眠っている間の出来事。
山南と真夜中の逢瀬を重ねていることも、彼女は知らぬままだ。
少し寂しい気もするが、これで良いのだと納得もしている。
(君は、誰よりも日の光のもとが似合う人ですから)
本来なら、こんな人斬り集団とは縁のない平和な暮らしの中で笑っていたはずの娘。
数奇な運命を辿って、こうして新選組屯所に置かれるようになったが、彼女がこの集団に染まることはないだろう。
血に塗れた狼達の中、ただ一輪咲く可憐な花。
誰かに牙を剥くことも、誰かの血を浴びることもなく、綺麗なままで。
いつかは狼の巣を後に、在るべき世界へと解き放たれるべき存在だ。
手の届かぬもの。
自分が触れてはならぬ人。
山南の中で雪村千鶴という存在は、“光”そのものだ。
無邪気な寝顔を優しげな目で見つめた後、山南は音もなく部屋を出て行った。
■■■■■
新選組副長、土方歳三の小姓――というのが、多くの隊士が知る雪村千鶴のすべてだ。
新選組の屯所がまだ壬生にあった頃からここに居り、その意味では古参と言えるのだが、特に隊務をこなすわけでもなく、与えられる仕事といえば雑用ばかり。
限られた隊士以外との接触もなく、多くの平隊士にとって副長付小姓は謎に包まれた存在だった。
その為、雪村に関しては様々な憶測が隊士達の間で飛び交っていた。
それらは決して好意的なものばかりではなく、むしろ幹部隊士達に目を掛けられていることへのやっかみも混じり、否定的なものの方が多いのが現状だ。
そんな雪村の後輩となったのが、局長付小姓見習いの相馬主計と野村利三郎である。
二人は他の平隊士よりも雪村との接触が多く、温和で誠実な人柄に直に触れているため悪感情など持っていない。
それ故に、最近平隊士達の間で囁かれている“ある噂”に、二人は強く危機感を覚えていた。
「相馬君、どうかした?」
「えっ?」
すぐ近くで聞こえた声に、相馬ははっと顔を上げた。
途端、不思議そうにこちらを凝視する黒目がちな目と視線が合い、慌てて止まっていた手を動かしながら答える。
「いえ、何もありません。気にしないで下さい、雪村先輩」
「そう・・・?」
釈然としないながらも、千鶴はそれ以上の詮索はせずに大量の洗濯物に向かう。
それに倣って、相馬も次の布地に手を伸ばした。
まだ手付かずの洗濯物は山と積まれているのだ。ぼんやりしていては、すぐに日が傾いてしまう。
「相馬、野村、これも頼む」
鍛錬後なのか、汗を拭いながらこちらに歩いてきた隊士達が、手にしていた手拭いを差し出す。
わかりました、とそれを受け取った二人は、彼らがじっと何かを見つめているのに気付いた。
視線の向かう先は、千鶴だ。
複数の視線に気付いて千鶴が顔を上げると、何人かはさっと目を逸らして「じゃあ頼んだ」とそそくさと去って行く。
そして残った数人は剣呑な眼差しで千鶴を睨み、何も言わずに立ち去った。
再びその場に洗濯に勤しむ三人のみとなると、ぽつりと千鶴が呟きを落とした。
「何だか最近・・・」
「え?」
「ううん、何も。早く洗濯を終わらせましょう」
気を取り直して忙しく手を動かす千鶴に、相馬と野村は無言のまま視線を交し合った。
「原田組長、少しよろしいでしょうか」
「ん? どうした、相馬に野村」
厠から出てきたところを呼び止められ、原田左之助は足を止めた。
いつになく深刻な雰囲気の二人に、人の心の機微に敏い彼はすぐに気付く。
わざわざ周囲に人の気配がない場所で声を掛けたということは、他人に聞かれたくない類いの話なのだと。
そして、その予想は当たる。
「実は、雪村先輩のことで相談が・・・」
す、と原田の切れ長の目が細められた。
「なるほどな、最近平隊士共の様子がおかしいのはそれが理由か」
話を聞き終えると、原田は思案げに顎に手をやった。
平隊士達の間で何やら不穏な噂が流れているらしいことは、薄々とは気付いていた。
配下の隊士達が何か言いたげにしているのもわかっていたし、何度かそれとなく話を促したこともある。
だが、言いかけてやめられることの繰り返しで、深く詮索するのも躊躇われたのだ。
「よく報せてくれたな、二人共」
「いえ、俺達はただ雪村先輩のことが心配だったので・・・」
原田に話せたことで安堵したのか、相馬達の表情が緩む。
思えば、先程原田を呼び止めた時の二人の顔は、様子が変だった部下と同じ表情だった。
彼らも千鶴を案じていたのだろうか。
そうだといい、と思う。噂を事実と判断して告げ口するのではなく、事実ではないと雪村を心配して上司に報告しようとしたのだと。
相馬や野村ほどではないにしろ、千鶴と親しい幹部の組下にいる隊士達は巡察などで行動を共にする機会があるからか、比較的彼女に好意的と言っていい。
しかしそれ以外の者達は何の接点もないから、彼女の人となりを知らず、好意など持ちようがない。
刀も振るえず隊務もない、幹部隊士に目を掛けられているだけの存在など、事情を知らぬ者達が疎ましく思うのは当然だ。
(だから、いつかはこういう問題が起きうる可能性はあったんだ)
誰より頭が切れる土方や山南が、それを見越していないはずがない。
そう考えて小姓見習い達に視線を向ける。
相馬と野村は局長付き小姓という立場からどの隊にも属さない上、新入り故に雑用を任されることが多い。
その為、平隊士の間で行き交う情報が自然と耳に入ってくるので、幹部や監察方とはまた違った方向から隊内のことを知れる立ち位置にいる。
近藤に気に入られ、身の回りの世話をさせるために小姓見習いに取り立てられた二人を、土方や山南があっさり受け入れたのには、こういう意図もあったのだろうか。
隊士が増え、それと共に千鶴への不満も膨らむ中で、この二人は彼女の味方でいてくれると確信させてくれるから。
「後のことは俺らに任せろ。お前らはできるだけあいつのそばにいてやってくれ」
「はい、もちろんです」
「お任せ下さい!」
打てば響くような返事は、心地良いほどに真っ直ぐだ。
そんな彼らが頼もしく思うと同時に、新選組の内部に潜む不穏な気配に気が重くなる。
組織が大きくなるに連れて、様々な考えを持つ者が増えた。
それによって新選組内部にも綻びが見え始め、徐々に広がりつつある。
内部から、そして外部から迫りくる“何か”を、隊士達も感じ取っているはずだ。
刻一刻と近づいてくる“何か”への不安が、何の力もない少女への悪意となって牙を剥かぬよう手を尽くす。
今の原田にできるのは、それくらいだ。
■■■■■
最近、隊士達の自分を見る目が益々厳しくなっている。
縁側に腰掛け、千鶴は憂いげに嘆息した。
夜空に浮かぶ月をぼんやりと眺めながら、頭の中では昼間の出来事が何度も繰り返される。
気まずそうに逸らされた目と、敵意の篭った目。
最近は忘れがちになっていたものの、やはり自分は新選組にとって異質な存在なのだと改めて感じさせられた。
今では親しくしてくれる人達も、当初は同じような目で千鶴を見ていた。
月日と共に互いに打ち解け、身近な人々からの不審の目はなくなったが、それはあくまでごく一部なのだ。
かといって、事情を知る者以外と親しく言葉を交わすことは禁じられているし、千鶴もそれに納得している。
結局今のまま、何もせずにいるしかない。
(でも、本当にそれでいいのかな)
自分が引き金になって、何か騒動が起きはしないかと不安になる。
ただでさえ、新選組は現在色んな問題を抱えているというのに。
不意に、微かな足音が聞こえた。
誰かがいる。
慌てて部屋に戻ろうと腰を浮かせた時、柔らかな声が耳に届いた。
「雪村君?」
「さ、山南さん、ですか?」
「今夜は眠っているのではないようですね」
ゆっくりと黒い影が近づいてくる。
顔は見えないが、この声は間違いなく山南だ。
千鶴はほっと胸を撫で下ろした。
幹部の部屋が連なるこちらに一般の隊士が足を踏み入れるのは原則的に禁止されているが、もしもという事態もある。
寒さを凌ぐために羽織を羽織ってはいるが、夜着姿を見られればすぐに千鶴の性別は看破されてしまうだろう。
「こんな夜中に女の子が外に出てはいけません。部屋に戻りなさい」
「す、すみません」
“新選組で一番怖い人”と、幹部隊士にすら恐れられる山南の苦言に千鶴が逆らえるわけもなく、怒らせる前に脱兎の如く逃げる道を選ぶ。――はずが、何故か足が止まった。
あれ?と首を傾げ、山南らしき影を振り返る。
「ところで、山南さんはどうしてここに?」
微かな沈黙があった。
ほんの僅かなものだったが、山南が躊躇したような気配を感じたのは何故だろう。
「私はただの散歩ですよ」
相変わらず内心を読ませない声音。
彼が容易に本心を明かさないことはわかっているのに、素直に納得して立ち去れない自分がいた。
(――あ)
不意に胸の内に引っ掛かった疑問の正体がわかった。
それは、さっき山南が口にした言葉にあったのだ。
“今夜は眠っているのではないようですね”
彼は確かにそう言った。ということは――。
「私を、気にして下さったんですか?」
「おや、何故そう思われたんです?」
「眠っている間に外を出歩く私のことを気にして、見回ってくれていたんですよね?」
「私は夜の散歩を楽しんでいるだけですよ」
はぐらかされたが、言葉の通り、ただ散歩をしているだけだとは考えられなかった。
千鶴に夢遊病の症状が出始めたのがいつからなのかは解らない。
病名を知らされた後も、何度眠りながら外を彷徨ったのかも知らない。
眠っている間の行動など、何一つ覚えていないのだから。
けれど、山南は知っているはずだ。千鶴が知らない間の千鶴の行動を。
最初に自分を見つけ、異常に気付いたのは他ならぬ山南だから。
「申し訳ありません・・・」
思わず謝罪の言葉が口をついて出た。
「貴方に謝られるようなことをされた覚えはありませんが?」
「だって、私の心が弱いせいで、山南さんにいつもご迷惑をお掛けして・・・」
「それは違いますよ。貴方が夢遊病を発症したのは、元はといえば我々が原因でしょう」
むしろ、千鶴の心は強い。普通の町娘が置かれるにはあまりに過酷な状況で、しっかり前を向いていられるのだ。
自由を奪われ、生殺与奪を握られながらも己を見失わず、自分の居場所を作ろうとする。
この屯所で彼女が笑顔を作れるようになるまで、どれほどの努力を重ねたか。
平気なはずがない。
千鶴の異常に気付いて、初めて山南は彼女の境遇を振り返った。
「貴方は必死に気丈であろうとしていますが、年若い娘が背負うにはあまりに重い現実に心が悲鳴を上げるのは無理もないことです」
自分達は、誰もそれを考えてやらなかった。その必要もなかった。
それだけ新選組にとって彼女の重要性は低い。
結果、千鶴は自分の中にだけ溜め込み、抑え込み過ぎて――夢遊病という形で現れてしまったのだ。
「さあ、もうお休みなさい。明日も早いのでしょう?」
「でも私、きっと今夜もふらふらと彷徨ってしまうと思います」
しゅん、と叱られた子供のように項垂れる千鶴。
何かあったのだろうかと気になったが、山南は何気ない口調で言った。
「出歩く貴方を見つけたら、ちゃんと帰してあげますよ」
それが、せめてもの罪滅ぼしだと胸の内で呟きながら。
〈次〉
16.10.30up
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