鬼姫は眠る 一





彼女の手の上には、小さな箱が載っていた。

小箱はしかし、幾重にも巻きつけられた鎖と錠前によって過剰なまでに封印されている。

決して開けてはならない箱。
僅かに覗くことすら許されないその中に何が入っているのか、それは考えてはいけないこと。

鎖は緩んでいないか。錠前が外れ掛けてはいないか。
何度も何度も確認して、それでも胸の中に不安が揺らめく。

開けてはならない。
考えてはならない。

   思い出してはならない。


何度も自分に言い聞かせ、雪村千鶴は現実の世界で眼を覚ます。

小箱の存在を、記憶の奥底に封印して   





■■■■■





慶応四年一月   

鳥羽伏見での負け戦の後、千鶴の四年間に及ぶ新選組との暮らしは幕を閉じた。


新選組と共に江戸に戻った千鶴は、久しぶりに実家である雪村診療所に帰ってきた。

長らく人が住んでいなかった家の周囲には雑草が蔓延り、中はうっすらと埃が積もっていたが、幸いにも物取りや火事の被害には遭わず、時の経過以外は出て行った時のままだ。

家中の障子戸を開け放ち、空気を入れ替える。
埃っぽい、篭った匂いが満ちる部屋の中に清浄な風が吹き込んだ。

綱道は一度も家に戻らなかったのだろうか。
時々様子を見てくれた近所の人達が手紙を受け取っていないだろうかと探してみたが、それらしいものはどこにもない。

とりあえず住める状態にしなければ、と千鶴は家の掃除に取り掛かった。

診療所を兼ねる家は、町人達の多くが住む長屋とは違って広く、部屋数もある。
しかし四年もの間、毎日のように新選組屯所を掃除していた千鶴にとっては、苦になるほどではなかった。


一通りの掃除を終えた頃、客人があった。

訊ねて来たのは、京で仲良くなったお千と君菊という女性達だ。
どうやら千鶴の今後を心配した土方の配慮で、様子を見に来てくれたようだ。

京に住んでいるはずの彼女達だが、未だ行方知れずの千鶴の父、雪村綱道を捜してくれているらしく、その後も折に触れて千鶴を訪ねてくれるようになる。



実家に戻ってからの日々は、今までの四年間がまるで夢の中の出来事のように、静けさに満ちていた。

もう隊士達の大量の食事を用意しなくていい。
山のような洗濯物を洗う必要もない。
土方にお茶を差し入れることも、臥せった沖田の看病をすることもなくなった。

たった四年前までは、この暮らしが当たり前だったのに、あの騒がしい日々を思うとどうにも味気ない。

(寂しいな・・・)

永倉や原田は屯所で暇を持て余しているらしく、時折訊ねて来て話をしてくれるが、やはり共に暮らしていた時とは違う。

何より、一人でいる時間が増えたことによって、千鶴の中で妙な不安や焦りが募るようになった。
気を紛らわせるためにも網道の蘭学書を読んだり、彼が変若水について資料を残していないか調べたり、松本良順に医術を教わったりして、何かに没頭する時間を作っているが、それもただの一時的な逃避でしかなかった。


「ごめんください」

不意に、玄関の向こうから柔らかな声が聞こえた。
聞き覚えのある声に何の警戒もなく扉を開くと、そこに立っていた青年が一瞬驚きを浮かべ、すぐに穏やかに微笑んだ。

「こんにちは、千鶴ちゃん」

「伊庭さん、どうしてここに?」

伊庭八郎。
京にいた頃、既知の仲である土方達を訪ねて何度か屯所に訪れていた幕臣の青年だ。
千鶴とも幼い頃に一緒に遊んでいたことがあり、好意的に接してくれた。
鳥羽伏見の戦では遊撃隊として戦ったという彼とは、大坂城で互いの無事を喜んだことが思い出される。

「新選組の屯所を訪ねたら貴方の姿がなくて、実家に戻ったと言われたので来てみたんです」

説明しながら、伊庭の目線は千鶴を捉えて離れない。
錦絵から出てきたような美貌の青年にじっと見つめられると、流石に落ち着かない気分になる。

「やっぱり、貴方はそういう格好の方が似合いますね。うん、可愛い」

「そ、そんな・・・」

実家に戻ってから、千鶴は四年間続けた男装をやめて娘姿に戻っていた。
これが千鶴本来の姿とはいえ、京で親しくなった人達にこの姿を見せるのは妙な気恥ずかしさがあった。

そういえば、永倉や原田が初めてこの家を訪れた時、二人揃って千鶴を凝視したまま固まってしまったのを思い出す。
原田はすぐに気を取り直して「やっぱり別嬪さんだな」と褒めてくれたが、永倉が正気に戻ったのは原田に思いっきり小突かれた後だった。
その後も千鶴を直視できない様子でちらちらとこちらを見て、普段に輪を掛けて動向が変だった。
そしてそれは、日が暮れてから偶に訊ねてくれる平助も同様であった。

そんなにおかしいだろうか、自分の娘姿は。
目にした途端に硬直するという反応を繰り返されると、何だか女としての自信を失くす。


立ち話も何だからと伊庭を家に上げ、お茶とお菓子を用意する。
盆を手に居間に戻ると、伊庭はくつろいだ様子で医学書を開いていた。
千鶴に気付くと彼は本を閉じ、嬉しげに目を細める。

「懐かしいですね。昔はよく縁側に腰掛けて網道さんの本を読ませて頂いたものです」

言われて千鶴の視線が縁側に向く。
そこに座って蘭学書を読む少年の姿が、思い浮かぶような浮かばないような。

「まだ、僕の記憶は曖昧ですか?」

「う、ごめんなさい・・・」

京で伊庭と何度か言葉を交わすうちに、幼い頃に一緒に遊んでいた少し年上のお兄さんのことは思い出した。
近所の子供達に遠巻きにされる中、彼だけはいつも優しく千鶴に接してくれたことも。
ただ、その頃の記憶はひどく曖昧で、伊庭のこともぼんやりとした靄の中に輪郭だけがおぼろげに浮かんでいる状態だ。
彼とどんな話をしていたのか、何をして遊んだのか。そういったものは何も思い出せない。

「まあ、とても小さな頃のことですからね・・・」

仕方ないと言いつつも、落胆を隠せない沈んだ声。
残念そうな伊庭の表情を見る度に、申し訳なさが募る。


出されたお茶を啜り、一息ついたところで、伊庭はおもむろに切り出した。

「貴方は戦いから離れることにしたのですね」

問いというよりも確認だった。

「はい、新選組の皆さんのお役に立ちたいという思いはありますが、私がいても足手まといになるだけでしょうから・・・」

「そう・・・でしょうか?」

「え?」

「いえ、何でもありません。僕としても貴方には安全な場所にいて欲しいと思いますし、きっとこれで良いのでしょう」

伊庭は何を言いかけたのだろう。
気になったが、彼はそれ以上この話題を続けるつもりはなさそうだ。

幕臣である伊庭は、現在の江戸城の混乱した様子や新選組への扱いへの不満を掻い摘んで千鶴に語った後、新政府軍は近いうちに江戸まで来るだろうと告げた。

「千鶴ちゃんもくれぐれも気をつけて下さい」

「はい。伊庭さんは、これからどうされるんですか?」

「僕は・・・幕臣ですから。自分の務めを果たします」

声に、どこか迷いがあった。
先程の話から、彼が幕府の恭順派のやり方に納得していないことが窺えたが、このまま唯々諾々と従う気はないのかも知れない。
彼もまた、新選組の人達と同じく志ある武士なのだから。

「暫くは僕も家に居ますし、困ったことがあればいつでも頼って下さいね」

「ありがとうございます」

自分の家の場所を告げて、伊庭は腰を上げた。
千鶴に見送られて玄関を出ようとしたところで、ふと振り返る。

「千鶴ちゃん」

「はい」

「もしも・・・僕が貴方を・・・」

「え?」

伊庭は口を噤み、迷うように視線を彷徨わせた。
言いたいことがあるのに言えない。そんな逡巡が見て取れる。

「・・・何でもありません。それでは、またいずれ」

迷いを振り切るように、伊庭は千鶴に背を向けて歩き出す。
その後姿を、千鶴はぼんやりと見送った。





■■■■■





新政府軍が江戸まで攻め入ってくるかも知れない。

江戸の町はその噂で持ちきりだ。
人々は不安を忘れようと、歌い、踊って殊更明るく騒ぐ。


そんな、春の足音が聞こえ始める三月に入った頃。

その日、診療所を訪れたのは土方と相馬だった。

「よう、元気か」

「土方さん、相馬君もお久しぶりです」

髷をばっさりと切り落とし、筒袖に身を包んだ二人はまるで異人のような姿となっていた。
見た瞬間は驚いたが、意外とよく似合っていて少しだけ胸が高鳴る。

「・・・・・・・・・」

「相馬君?」

いつもならはきはきとした挨拶を返してくれるはずの後輩が、何故か黙したままだ。
土方の後ろに立つ彼に視線をやると、目を大きく開いたまま硬直していた。

(相馬君まで・・・)

娘姿に戻ってからこれまでこの反応ばかり見てきたから、もう諦めの境地だ。
土方や原田、伊庭はすぐさま普段と同じ態度に戻ったが、相馬は永倉や平助と同じく魂をどこかに飛ばしたまま動けずにいるようだ。
土方達はこちらが照れるくらい褒めてくれたけれど、永倉や平助のように絶句された上にまともに目を合わせてもらえなくなると、自分の格好はそれほどに滑稽なのかと落ち込んでしまう。
果たして自分は誰の反応を信用していいのだろうか。

「おい相馬、いい加減に正気に戻れ」

笑いを含んだ土方の声にようやく我に返った相馬だが、一瞬後には顔が真っ赤に染まっていた。

「そ、相馬君、大丈夫?」

「だ、大丈夫ですっ。何の問題もありませんっ!」

とても大丈夫なように見えないのだが。

「具合が悪いの? 今お薬を・・・」

「いいから気にするな雪村。お前もちったあ男心を思いやってやれ」

「???」

言われた言葉の意味がさっぱりわからない。

「今日来たのは他でもない。俺達は甲府に行くことになった」

「甲府に?」

土方の話によれば、新選組は新政府軍と戦うため、甲府に向かうことになったという。
鳥羽伏見の戦では、薩長の新型の銃や西洋戦術に手も足も出なかった。
それを踏まえて新選組も洋装に改め、洋式の戦い方を取り入れることになったようだ。
ということは、他の隊士達も土方や相馬のように髷を切り、筒袖を纏うようになったのだろうか。

互いの近況を交し合うと、土方はさっさと話を切り上げてしまった。
京にいた頃も、おそらく今も休む暇もなく働いているであろう彼には、千鶴とゆっくり話しこむ時間などないのだろう。

「達者でやれよ」

「どうかお元気で」

遠ざかる二人の背中を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。

今まで何度、彼らの背中を見送っただろう。
この先何度、彼らの背中を見られるのだろう。
もしかすると、これが最後になるかも知れない。そんな予感もあった。

(どうか、ご無事で   

共に戦うことの敵わない自分ができることは、ただこうして祈ることだけだ。
それがもどかしく、歯痒い。

(私にできることなんて、何もないのに・・・)

そんなことはとうにわかっている。
戦う力も、戦略もない千鶴が隊士達のためにできることなど、身の回りの世話をすることと怪我の手当てが少しできる程度のことだ。
命を懸けた戦場で、それがどれほどの役に立つのか。





土方達が江戸を発って数日後のある日、思いもよらぬ来客があった。

いや、その人は客ではない。
“家に帰って来た”だけだ。

けれど千鶴にとってはあまりにも思いがけない再会だった。


「父・・・様・・・?」

突然玄関の扉が開き、現れたその人物を見て茫然と呟く。

まるで四年半前までの日常が戻ってきたかのようだ。
あの頃は往診から帰って来るまでに、とっぷりと日が暮れてしまうのは珍しくもなかった。

雪村綱道は、あの頃と変わらぬ優しい笑みを浮かべ、千鶴を見つめていた。

「久しぶりだね、千鶴。綺麗になったなあ」

「父様、父様なのですね? 今までいったいどうしていたんですか!?」

駆け寄り、広げられた腕の中に飛び込むと、懐かしい匂いに包まれた。
抱きとめてくれた手が、優しく頭を撫でる。

「ずっと、ずっと心配していたのよ?」

「すまないね、長いこと便りも出せなくて。西国のある藩に匿われていたんだ」

千鶴は綱道の腕の中から、父の顔を見上げた。

「父様、お訊きしたいことがたくさんあるんです」

「ああ、私もお前に話さなければならないことがあるんだ。お前は京で鬼と名乗る者達と出会ったかい?」

「ええ、お千ちゃんや風間さんと出会いました。それではやはり、彼らの言う通り私は鬼なのね?」

「その通りだ。お前は東で最大の鬼の一族、雪村直系の女鬼だよ」

やっぱり、という思いと、何故今まで黙っていたのだろうという疑問が込み上げる。

「お前も、昔は自分が鬼の一族だとわかっていたのだけれどね、あることを切欠にそれを忘れてしまっていたのだよ」

「あること?」

綱道は千鶴から身体を離すと、自分の着物を探って何かを取り出した。

「この箱を覚えているかね?」

「・・・っ!」

綱道の手の上には、随分と年季を感じさせる小箱が載せられていた。
箱の上には、役目を果たしていない鎖と錠前。
それは、“木箱を厳重に封じて”いなければならないはずなのに。

「こ、これは・・・っ」

足元から地面が崩れ落ちていくような恐怖と絶望に、全身が小刻みに震えだす。
青褪めて怯える千鶴の様子に気付かないわけはないのに、綱道は穏やかな微笑を浮かべたまま言葉を続ける。

「お前は鬼である自分を、この小箱に封じているんだよ。けれどそれも、今日で終わりだ。私と共においで   “鬼姫”」

“鬼姫”
その言葉に、千鶴は呼吸すら忘れて凍りついた。

この先の言葉を言わせてはいけない。
小箱を開いてはいけない。
自分の中で凄まじい勢いで警鐘が鳴り響く。

だが、綱道は千鶴の様子など気にも留めず、決定的な言葉を紡いだ。


「“鬼姫は秘密の箱に眠る”。さあ、目覚めの時間だ千鶴」


「あ、ああ・・・」

千鶴の目の前で、無情にも小箱は開けられた。

瞬間、凄まじい嵐が千鶴の中に巻き起こった。
記憶の奥底で長年封じ込めていたものが一気に溢れ出し、千鶴の心を押し流していく。


「いやあああああ   っ!!」


診療所の中に、悲痛な悲鳴が響き渡った。



〈次〉

16.7.20up

新連載開始。次回薫登場です。
薫君と千鶴ちゃんの兄妹愛がメインです。恋愛は後々。

・雪村千鶴・・・華ノ章の千鶴ルートの千鶴ちゃんです。
・南雲薫・・・風間・坂本ルートのお兄ちゃんな薫です。
・雪村綱道・・・斎藤・山崎ルートの外道な綱道さんです。



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