鬼姫は眠る 二





「おーい千鶴ちゃん、いねえのか?」

雪村診療所の前に立って声を張り上げるのは、黒を基調にした筒袖を纏う永倉新八だ。
しかし、いつもなら打てば響くように返ってくる答えはなく、隣に立つ同じく洋装姿の原田左之助と顔を見合わせる。
しばらく待ってみても、診療所から出てくる人の気配はない。

「外出してるみたいだな。松本先生の所にでも行ってるのかもな」

「ちゃんと挨拶しておきたかったんだがなあ」

「まあ新選組を離れても、しばらくは江戸にいるんだ。そのうちまた来てみようぜ」

そうだな、と残念そうに肩を竦め、二人は踵を返す。

「さて、これからどうするんだ? 何も考えずに新選組をおん出てきたわけじゃねえんだろ?」

「まあ細かいことは後で考えようぜ。俺達は俺達で戦えばいいんだからよ」

「ったく、いい加減な奴だな」

“無人の診療所”に背を向け、二人は楽しげに言葉を交わしながらどこへともなく歩き出した。
何かを吹っ切ったかのような清々しささえ感じられる、迷いのない足取りで。

彼らをじっと見つめる瞳に気付くこともなく――。





遠ざかる二人の背を、千鶴はどうすることもできず見送った。

(今のってどういうことだろう。原田さんと永倉さんはどこへ行かれるのかしら)

甲府の戦はどうなったのか。他の新選組の人達は無事なのか。
新選組を離れるとはどういうことなのか。

訊きたいことはたくさんあるのに、今の千鶴はそれができない。
原田と永倉には、千鶴の姿が見えなかった。きっと、声も届かないだろう。

『どうしよう・・・』

半透明に透ける己の身体を見下ろし、ため息を漏らす。
通り掛かる人々に何とか話しかけようとしたが、悉く失敗に終わった。
普通の人間に自分の姿が見えないと思い知るには、充分過ぎる時間が過ぎた。

何年も共にいた原田や永倉さえも千鶴に気付かないとなると、今や希望はただ一つ。
だが果たして“彼女”が来るまで待っていられるだろうか。


診療所の前に立ち尽くして途方に暮れていると、どこからか視線を感じた。
“今の千鶴”が誰かの視線を感じるなんて、あるはずがないと思いながらも辺りを見渡してみる。

(え――?)

巡らせた視線が、確かに交わった。
道の先に茫然と佇む、旅装束の少年と。

「お前、どうして・・・」

『あなたは・・・』

少年が一気に距離を詰めてきた。
その視線ははっきりと千鶴を捉えている。

「いったい何があったんだよ? 何で魂魄になってるんだ!? もしかして、誰かに・・・殺されたのか?」

青褪めた、自分に瓜二つの顔。
京で何度か顔を合わせた少女が真っ先に思い浮かぶも、髪型も服装も随分と様変わりしている。

(確かこの人は、南雲薫さん・・・?)

京で会った時、彼女はそう名乗っていた。
けれど、“今の千鶴”は彼女――彼の正体を正確に理解できた。

『薫・・・? あなたは、薫・・・兄さま?』

「っ!」

南雲薫が大きく目を瞠る。
そこに過ぎる様々な感情の波に、彼の胸の内を感じて苦しくなる。
彼はとっくに知っていたのだろう。千鶴が妹であることを。

「ち・・・づる・・・っ」

感極まったように詰まる声。
苦しげに歪む顔は、怒っているようにも泣いているようにも見えた。

十数年前も、彼はこんな顔をしていた。
それが、生まれてからずっと一緒だった兄の、最後の記憶。



往来で話していては薫が奇異の眼で見られてしまうと、千鶴は彼を診療所に招き入れた。

「千鶴、俺のことを思い出したんだな?」

恐る恐るといった風に確かめてくる問いに、千鶴は大きく頷いた。

『貴方は私の双子のお兄さん、でしょう?』

いまいち自信なさげなのは、京でのことを思い出したためだ。
京で会った南雲薫は女装姿だったし、少し謎めいた言動をしていた。

敵なのか味方なのかもわからないし、千鶴のことを妹だと思ってくれているのか、それとも風間や網道のように利用できる女鬼として見ているのかも不明だ。
彼が江戸にいる目的を知らぬまま、何の確執もなく兄妹に戻るにはまだ早い気がする。

薫の真意を推し量ろうと、じっと見つめていると、彼は今にも泣き出しそうな顔で笑った。

「やっと、お前に会えた・・・。俺の・・・妹に・・・っ」

細い指が千鶴の頬を撫でる。
何故実体を持たない身に彼の指の感触や温もりが感じられるのかはわからないけれど、そこから流れ込んでくる感情は歓喜に彩られていた。

『兄さま・・・』

「それで、いったい何があったんだ?」

千鶴は躊躇いつつも、状況を打開できる切欠が掴めるかも知れないと判断し、江戸に戻って来てからのことを薫に語った。

新選組から解放され、実家である診療所に戻ってきたこと。
先日、行方不明だった雪村綱道が帰って来たこと。
彼が持っていた小箱を目にした途端、千鶴の中に凄まじい衝撃が駆け抜けたこと。
全身がバラバラになりそうな奔流に押し流されるように、気が付けば千鶴は魂魄となって立ち尽くしていたこと。

これからどうすればいいか、誰に頼れば良いのかも解らないが、もしかするとお千なら千鶴に気付いてくれるかも知れないと一縷の望みを掛け、ここで彼女が訊ねてくれるのを待っていたことを。

「なるほどな。お前は自分の心を守るために離魂したのか」

『離魂?』

「意識を身体から離した状態のことだ。お前の判断は正しいよ。普通の人間には今のお前の姿は見えないし声も聞こえないけれど、同胞である鬼は違う。八瀬の女鬼も風間千景も、お前の姿が視えるはずだ」

死霊じゃないなら良かった、と薫は心からの安堵を滲ませた。

「それにしても小箱だと? あいつ、あれは捨てたって言ったくせに・・・・・・くそっ」

『あの小箱を知っているの? あれを見た時、すごく怖かった。絶対に開けちゃいけないって思ったのに、父様はそれを開けてしまったの。そうしたら凄く苦しくなって・・・』

「封印が解けたんだな。じゃあ今お前の身体にいるのは“鬼姫”というわけか」

『鬼姫って、いったい何なの? 父様も言っていたわ、その言葉』

問いに、薫は忌々しげに顔を歪めた。

「雪村綱道はお前の父じゃないってことはわかっているな?」

こくん、と頷きを返す。
それはもう事実として理解していた。

身体から離れて魂魄だけの状態となってから、千鶴は今まで見えなかったこと、忘れていたことを色々と思い出し、または理解したのだ。
薫が実のきょうだいであること、本当の両親のこと、雪村の里のこと。
これまでお千や風間の言葉の中でしか知らなかったことが、己の記憶として蘇った。

しかしその中で一つだけ、幾重にも封印された一つの記憶があった。
それが、“鬼姫”にまつわるものだ。

何故自分の心は“鬼姫”を恐れていたのか。
あまりの苦しさに、無意識に離魂してしまうほどに。


「“鬼姫”は十数年前に“作られた”、“もう一人のお前”だ」

『もう一人の私?』

自分ではない自分――?

医学書でなら呼んだことがある。一人の人間の中に、いくつもの人格が存在する症状があると。
それがまさか己の身に起きるとは思わなかった。

だが今問題なのは、もう一人の自分という存在が他者に対して攻撃的な性質の場合、何をしでかすかわからないことだ。
あの網道がそういうところに配慮してくれるとは思えない。

『誰かに危害を加えたらどうしよう・・・』

「それは大丈夫だと思う。“鬼姫”と言っても、別に危険な存在というわけじゃない。あれは昔、お前が自分の中に封じた過去のお前自身。自分が鬼だと自覚し、人間達によって家族を殺されたことを理解している小さなお前だよ」

『どういう・・・こと?』

問いながら、少しずつ絡まっていた糸が解けていくのを感じた。
薫の話を聞けば、すべてが明らかになるような気がする。

そんな千鶴に同調するように、薫は過去に思いを馳せる。
出来れば思い出したくない、けれど絶対忘れてはならないと自分に言い聞かせてきた、辛く哀しい思い出に――。





■■■■■





千鶴と薫の生まれ故郷は、陸奥の国の山奥にある小さな村だ。
小さな村、とはいえ治めるのは東国最大の鬼の血族、雪村家。そこらの人間の集落とはわけが違うのだが。

正体はともかくとして、そこはとても穏やかで平和な村だった。
ある日、突然人間の軍勢に攻め滅ぼされるまでは――。

火に巻かれる村から命からがら逃げ出した薫と千鶴は、遠縁の綱道に保護された。
まだ五つにも満たない双子は綱道以外に頼る者はなく、彼が医者として生活している江戸に向かうこととなる。

その頃の薫は、人間への怒りと憎しみを強く抱いていた。
自分達から全てを奪い、蹂躙し尽くした者達を恨むなと言う方が無理だった。

唯一、繋いだ手を離さずに一緒に逃げ延びた双子の妹は、あの日からずっと泣いてばかりだ。
この子は笑った顔が一番可愛いのに、それを奪った人間が尚更許せない。

『惨いことをする。人間はいつもそうだ。己の欲のためなら、静かに暮らしていた人々を平気で踏み躙る。愚かで自分勝手な生き物・・・』

繰り返される綱道の呟きは呪詛のように、薫の憎しみを募らせた。
だから薫は気付かなかった。千鶴が泣いているのは家族を失ったせいばかりでなく、そんな二人の姿が哀しくて泣いていたのだと。

江戸への道中、薫は暇さえあればその辺に転がる枝を竹刀代わりに振った。
今はまだ重くて扱えない刀、大通連をいつか使いこなすため、今から剣の稽古をしていたのだ。
怒りのままに枝を振り続ける薫を、千鶴はいつも何も言わずそばでじっと見つめていた。
もしかして千鶴は止めたかったのかも知れないと、薫がその時の彼女の心情を思ったのは随分後のこと。

そんなある日のことだった。
立ち寄った村で怪我人が出たらしく、蘭方医である綱道は路銀稼ぎを兼ねて診察に向かい、薫と千鶴は二人で網道の帰りを待っていた。

そこにわいわいと集まった村の子供達は、見慣れない双子のきょうだいに物珍しげに近づいて来た。
別に悪意や害意はなく、単なる好奇心だったのだろうが、その頃の薫にとっては人間全てが敵だった。

『ここでなにしてるの?』

『そっくりだね』

『どこから来たの?』

次々と掛けられる無邪気な質問に、いきなり知らない子供達に話しかけられた千鶴はおろおろし、薫はそんな千鶴を守るように立ちはだかった。
睨みつけると、年少の子供達は戸惑い、年長の子供達は敵意を向けられてむっとしたようだ。

『何だよ、せっかく話しかけてやってんのに生意気だな!』

身体の大きな男の子が怒鳴り、びくっと千鶴が怯えたのが感じられると、薫は怒りを爆発させた。

『うるさい人間ども! おまえらなんて、みんなころしてやる!!』

幼い子供が口にするにはあまりにも苛烈な言葉。
村の子供達は純然たる殺意に驚き、幼子が持つには不似合い過ぎる憎悪の念に怯えた。
何よりもその時の薫の姿に驚き、一斉に逃げ出したのだ。

『うわあああ、化け物だ!!』

誰かがそう叫び、泣きながら走り去る子供達。

『兄さま!』

泣きそうな千鶴の声に振り向いた薫は、零れ落ちそうな目に映った自分の姿に初めて気付いた。
金色に光る眼と、白銀に染まった髪。
人間への憎しみが、薫を鬼の姿へと変化させていた。

その時薫が抱いた感情は、悦びだった。

鬼の力は人間を遥かに超える。
鬼としてもっともっと強くなれば、二度と人間なんかに大切なものを奪われることはない。
村を襲い、家族を殺した人間に復讐できる。

そう思った刹那、千鶴がぶつかるように薫に抱きつき、叫んだ。

『おこっちゃだめ、おこっちゃだめだよ、兄さま!』

千鶴の泣き声に、高揚していた感情が潮が引くように静まってゆく。
怖がらせてしまっただろうか。
落ち着かせようと背を撫でてやると、やがて薫の姿が元に戻っているのを見た千鶴はほっとしたように笑った。

一瞬とはいえ鬼の本来の姿になれたことで、薫はどこか自分が一人前になったかのような自信が芽生えた。
そしてそれを誰かに自慢したくなり、二人のもとに帰ってきた綱道に報告した。
綱道は薫を褒め、強い男鬼になれと、薫が欲しい言葉をくれた。

いつか人間達に復讐し、雪村家を再興するために強い鬼となる。
綱道とそんな会話を交わしていると、ふいに千鶴が泣き出した。

『だめ、兄さま、おじちゃん、そんなこといったらだめ!』

泣きながら“だめ”を繰り返す千鶴に、何でそんなこと言うんだよ、と嫌な気分になった。
そんな薫の気持ちを代弁するかのように、綱道は諭す口調で千鶴に言葉を掛ける。

『千鶴ちゃん、君達が人間に何をされたか忘れたのかね? 村を焼かれ、家族を無残に殺された報いを受けさせるのは、当然の権利なんだよ』

その通りだ、と薫は思った。
しかし、千鶴の叫び声にはっとなる。

『でも父様と母様がいってたもん! にんげんをきずつけちゃだめっていったもん!』

そのとき初めて、憎悪に染まった心に波紋が広がった。
忘れかけていた、両親の言葉。
何度も何度も、あの悪夢の日にさえも別れ際に言い聞かされた言葉だったのに。

人間を憎んではいけない。
人間相手に鬼の力を振るってはいけない。
お前の力は千鶴を守るために使いなさい――。

男鬼とは違って、弱い女鬼を守る男になれ。
もう諳(そら)んじれるほど幾度も言われた父の言葉なのに、何故今まで忘れていたのだろう。

『だから、こわいことしないで兄さま』

わあわあと堰を切ったように泣く妹を、薫はぎゅっと抱きしめた。

『ごめん、ごめんな、千鶴』

千鶴だって悲しくないわけがない。人間への恨みがないわけではない。
それでも彼女は両親の言いつけを守ろうと懸命に頑張っていた。
なのに、自分が両親の願いを無駄にするわけにはいかない。

(俺は千鶴の兄なのに)

この世でたった一人の妹。
何者にも傷つけられないよう守らなければならないのに、自分が哀しませてどうするのか。

両親の言葉を思い出した薫はその日、雪村の里を追われて以来、初めて涙を零した。
人間への怒りや憎しみよりも、愛する家族への想いの方が勝ったのだ。


そんな二人を、綱道は酷く醒めた目で見ていた――。



その後も、薫は剣の稽古に励んだ。
人間に対する憎悪ではなく、千鶴を守りたいという確かな決意のもとで。

薫の変化に、千鶴はほっとしたようだ。
江戸の雪村診療所で暮らし始めてからは、傍で稽古を見ている時間も減った。

穏やかに、ゆっくりと流れ始めた時間。
傷ついた心を兄妹で寄り添いながら少しずつ癒そうとしていた矢先――千鶴の笑顔が消えた。

千鶴の様子が徐々におかしくなっていることに、薫はすぐに気付けなかった。
他者の心の機微を察するにはあまりに幼かったことが要因ではあるが、それ以上に綱道の策が巧妙で陰湿過ぎたのだ。

いつからか千鶴が日に日に元気を失くしていくのを感じながらも、何もできずにいた、ある夜。
ふと目を覚ました薫は、隣に寝ているはずの千鶴の姿がないことに妙な胸騒ぎを覚えて部屋を出た。
そしてぼんやりと薄明かりの灯る別室から漏れ聞こえる話し声に、妹の泣き声を聞き取った。

話しているのは網道だ。
彼はすすり泣く千鶴に、優しい声で何かを言っている。
他人が見れば、慰めているようにも我侭を嗜めているようにも見えるだろう。
だが薫が感じたのは、引き裂かれそうなほどの千鶴の胸の痛みだった。

『じゃあ千鶴ちゃんは、何もせずにただ殺されろと言うのかい? そんなことではいつか薫君も人間に殺されてしまうよ』

殺される?
綱道はいったい何を言っているんだ?

わけがわからず、薫は部屋の前で立ち尽くした。
その間にも、まるで御伽噺でも読み聞かせるように言葉が流れていく。

『ほら、聞こえないかい? 君の両親を殺した人間共が君達を追ってくる音が。薫君は一所懸命に君を守って戦おうとするだろうね。けれど純血の鬼とはいえ彼はまだ子供だ。歯が立たずにあっさりと殺される。千鶴ちゃんは一人きりになってしまうね』

穏やかな声音が紡ぐ言葉には、底知れない闇が満ちる。
その闇に囚われた無垢な心が、ミシミシと軋む音を立てた。

『人間共は子供だからって容赦はしない。薫君の死体を斬り刻みながら笑う声が聞こえるだろう?』

『兄さま・・・兄さまぁ・・・』

『それでも君は人間を憎まないかい? 復讐したいとは思わないかい? 女鬼である君が頼めば、日本中の鬼達が力を貸してくれるんだよ。西の風間や不知火はもちろん京の古き鬼達だって、人間を殺すためにその強大な力を振るってくれる。さあ千鶴ちゃん、鬼姫となって愚かな人間共に復讐してやるんだ』


――亀裂が、奔った。


『やめておじさん! 千鶴のこころがこわれる!!』

妹の心が上げる悲痛な悲鳴に、いても立ってもいられず飛び込んだ部屋。
そこにいたのは綱道と――鬼の姿へと変化した妹だった。

『千鶴!!』

駆け寄り、覗き込んだ顔はすっかり血の気が失せ、焦点の合わない金色の目は何も映していなかった。
ぞく、と背筋を悪寒が駆け抜ける。

『千鶴、しっかりしろ』

何度も呼びかけながら強く揺さぶると、やっと薫の顔を見た。
途端、溢れ出す涙が柔らかな頬をとめどなく流れ落ちる。

『兄さまぁ・・・』

ようやく自分を見た妹に、心底ほっとした。
すんでのところで“壊れ”ずに済んだようだ。
千鶴を抱きしめながら網道を睨みつけると、感情の読めない笑みを浮かべる彼と目が合う。

『千鶴にへんなこというな』

『変なこととは心外だね。私は千鶴ちゃんに現実を教えてあげようとしているだけなんだよ。薫君だってわかっているだろう? 君達のお父上が選んだ道には救いのない死しかないんだよ』

『・・・・・・』

反論できなかった。
両親の言葉を思い出しても、薫の中には人間への憎悪の炎が燃え盛っていた。

何故自分達がこんな思いを味合わなければならない。
何故人間共はのうのうと暮らしていられる。
その理不尽を許せることなんて、到底できはしない。

だから、心のどこかで考えてしまった。
千鶴も同じ思いを抱いてくれたら――と。

数少ない貴重な女鬼の望みなら、男鬼は叶えようと尽力するのが鬼の世。
日本中の鬼の力を結集させれば、人間に復讐するのは容易い。

けれど――。

『千鶴はそれをのぞまない』

今も聞こえる、千鶴の心に奔る亀裂の音。僅かな切欠で崩れ落ちそうなほど脆くなったそれを、壊してはいけない。

『そのようだね・・・。残念だよ』


それっきり、網道が千鶴を惑わすことはなくなったが、千鶴の心は元に戻らなかった。
笑顔を失くし、少しでも薫の姿が見えないと不安がった。
そして、自分や薫が鬼の姿へと変じることに極端に怯えた。
綱道の洗脳染みた説得のせいで、鬼本来の姿となることで自分が“鬼姫”となって恐ろしいことをしてしまうと思い込んでしまったのだ。

千鶴は“鬼姫”にはならない。恐ろしいことは起きない。
言葉を重ねても、千鶴の不安を消すには至らなかった。
何を言ったところで自分達が鬼である事実は変えようがなく、そのために人間に狙われたのだ。

どんなに傍で抱きしめていても、亀裂は塞がるどころかぽろぽろと欠片が崩れ落ちていく音ばかりが聞こえた。
このままではいつか壊れて消えてしまう。

そんな不安に苛まれていた時、網道が小箱を手に千鶴に言った。

『千鶴ちゃん、この箱を知っているかい? これは箱根の職人が作ったからくり箱でね、簡単には開かない仕掛けがしてあるんだ』

確かにその箱は開けようとしても開かないように仕掛けが施されていて、千鶴も薫も開けることができなかった。
それを複雑な手順で開いた綱道は、何も入っていない箱の中を千鶴に見せた。

『この箱に鬼姫を封印してしまおう。そうすれば千鶴ちゃんは“鬼姫にはならない”』


“鬼姫は秘密の箱に眠る”。


その言葉と共に箱は再び閉じられ、鎖と錠前でぐるぐると厳重に封印された。


そしてその日を境に、千鶴はすべての記憶を失った――。



〈次〉

16.8.30up

二話目は過去話です。
千鶴ちゃんの幽体離脱の話は以前も書きましたが、
それとはまたちょっと違った感じです。



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