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鬼姫は眠る 九
夜陰に紛れ、いくつもの気配が白河城を目指して近づいてくる。
行灯の光がほのかに照らす部屋で書物を読んでいた山南は、文字を追う目線を虚空に移した。
(綱道さんが帰ってきたようですね)
ふと、そばで丸くなって寝息を立てていた千鶴が身じろいだ。
彼女も外の気配を察したのだろう。不安げにきょろきょろと視線を彷徨わせ、山南の顔を見るとほっと表情を緩ませる。
縋るように身を寄せてくる千鶴に、山南は苦笑を浮かべた。
若い娘がこうも無防備に大人の男に触れてはならない、と言い含めたいところだが、今の千鶴の中身は五歳の幼子。こちらの複雑な心理など理解できるはずもない。
(雪村君が甘えてくれるのは新鮮なんですがね)
いつもの千鶴なら決してこんな風に擦り寄っては来ないだろう。
精神が子供とはいえ、ここは役得だと思っておこう。
ややあって、廊下の向こうから足音が聞こえ、山南の部屋の前で止まった。
「山南君、起きているかね?」
「ええ。どうぞ」
現れたのは予想通りの人物だった。
ぎゅっと、縋りつく千鶴の手に力がこもる。
「綱道さん、江戸の様子は如何でしたか?」
「上野で待ち伏せされていてね。かなりの数の羅刹達を殺されてしまったよ」
「待ち伏せ、と言いますと?」
「西国の鬼達だよ。彼らは羅刹の素晴らしさを理解しようともしない」
苦々しく言った後、綱道は千鶴に視線をやる。
「ほう、随分と君に懐いているようだね」
千鶴の緊張が触れた箇所から伝わってくる。
何故彼女はこれほど綱道を警戒しているのだろうか。
山南が知る彼女なら、父に会えた喜びを素直に表しそうなのに。
「ちょうどいい。山南君、千鶴と子供を作ってみないか?」
「・・・何ですって?」
「これだけ懐いているんだ、君なら容易いだろう」
この男は、いったい何を言っている――?
絶句する山南の沈黙をどう解釈したのか、綱道は更に言葉を重ねた。
「精神は五歳の子供だが、身体の方はもう大人だ。何も問題はないよ」
「綱道さん、貴方は自分が何を言っているか、わかっているのですか?」
「君と千鶴の子供なら、きっと強く賢い子が生まれるはずだ。君だって自分の子種を残せるんだよ? いい話じゃないか」
「・・・・・・っ」
(何ということを・・・っ)
これが子を持つ親の言葉なのか。
浪士組や西国で薬の実験を繰り返したことといい、綱道は娘である千鶴すら実験道具としか見ていないのだろうか。
「綱道さん、気になっていたことがあるのですが・・・」
「何かね」
「貴方は彼女に、“薬”を飲ませましたか?」
暗闇でも、綱道が笑ったのが見えた。
「ああ、そうだよ。この子の血で色々と実験していたのだが行き詰ってしまってね、いっそ“薬”を飲ませてみようかと思い立ったんだ」
(やはり・・・)
膝の上できつく握り締めた拳が小さく震える。
まさか父親が娘を変若水の実験に使うなんて、信じたくは無かったのに――。
疑念は、この城で千鶴と再会した時から芽生えていた。
千鶴の部屋の異様な暗さや、彼女が日中、城の外に出ないこと。
精神が幼い子供なら外で元気に遊びたがるはずなのに、彼女は日の光を避けるように部屋で大人しくしていた。
自分の身体の大きさに戸惑っているにしても、あまりにも不自然だ。
それでも疑問が浮かぶ度にそれを打ち消してきたのは、綱道が千鶴の父親だからだ。
千鶴の素直で善良な性質は、家族に愛されて育った証。
そんな彼女が心から慕う人物だからこそ、非道な研究に手を染めていようとも、千鶴にとっては素晴らしい父親なのだと思っていた。
(それなのに――っ)
山南の脳裏に、三年前の出来事が過ぎる。
まだ“人間”であった頃、追い詰められて変若水に手を出そうとした自分を必死に止めようとしてくれた少女。
羅刹の存在を知ったのちは、自分の父親の所業に責任を感じ、懸命に羅刹達の世話をしてくれた。
きっと何か訳があったのだと、ひたむきに綱道を信じ、慕った娘の想いを、この男は無残に踏み躙ったのだ。
「だが千鶴の血を変若水と混ぜる案は成功だ。羅刹の力がかなり強化されるからね。問題は、羅刹の方がその強い力を使いこなせず、すぐに灰となる点だ」
綱道は己の研究の成果を誇らしげに語っている。
その胸倉を掴んで揺さぶってやりたい衝動に駆られるも、きっと彼には何を言っても通じはしまい。
「彼女を、どうなさるおつもりですか?」
昂る感情を抑え、平淡に問う。
「この子の持つ可能性は無限だ。我々の研究に大いに役立ってくれるだろう」
楽しげに答える綱道は、悪びれる素振りも無い。
期待に満ちた目でこちらを見る様子からも、山南のことも良い実験材料だと考えていることが窺えた。
つまり彼は、山南に千鶴の血を飲ませたいのだろう。
「では、長旅で疲れているので、私はもう休ませてもらうよ。明日からはまた忙しくなるからね」
その“忙しさ”とやらに、こちらが協力するのを疑ってもいない口振りだ。
立ち去る後姿を、山南はもはや隠す気も無い敵意を込めた冷徹な眼差しで見送った。
「お兄さん、だいじょうぶ? いじめられたの?」
「え? ああ、いえ、何でもありませんよ」
一拍の瞬きの間に怒りを綺麗に覆い隠し、穏やかな笑みを浮かべる。
しかし千鶴の表情は硬いままだ。
「こうどうおじちゃんは、やさしいけどこわい・・・」
「おじちゃん? 綱道さんは君の父君ですよね?」
問いに、千鶴は首を振った。それは否定を意味していた。
思いがけない反応に、山南は切れ長の目を見開く。
「違うのですか?」
「父さまも母さまもしんじゃったの」
じわりと涙が溢れ、小さくしゃくり上げる千鶴。
両親の死を哀しむ様子は、とても嘘を言っているようには見えない。
思えば自分達の知る千鶴は、己のことに無知だった。
普通の人間にはない特異体質を持ちながら、自分の正体である“鬼”を知らなかった。
町娘が持つには不自然なほど業物の小太刀の謂れも知らず、親の家系がどういったものかも知らず。
ただ自分は“町医者の娘であり、ごく平凡な町娘”なのだと――。
しかし今の千鶴は“綱道の娘”ではない、“本来の千鶴”の記憶を持っている。
五歳の頃の千鶴――。
それは彼女が無意識のうちに己の中に封じていた、哀しい記憶なのかも知れない。
(この子の言葉が事実なら、綱道さんは雪村君の育ての親になりますが)
実の娘ではないから、あれほど冷淡になれるのだろうか?
とりあえず、今は千鶴の過去や綱道との関係を気にしている場合ではない。
千鶴が変若水を飲んだのなら、一層彼女の様子を注視しなければ。
「体調はいかがですか? 気分が悪いとか、喉が渇くとかはないですか?」
「へいきです」
暗い部屋の中では顔色まではわからないが、今のところ身体に異変などはなさそうだ。
吸血の衝動はまだ起きていないようだと、ひとまずは安心する。それも時間の問題でしかないが。
(さて、これからどうしましょうか)
綱道の羅刹など、どれだけ増えようと全滅させる自信はあるし、綱道だっていつでも殺せる。
だが自分の周囲で血が流された時、彼女がいったいどうなるか。
鬼の身に変若水がどう作用しているのかも解らないのだ。
幼い心のままの千鶴が血に狂ったら、確実に彼女は壊れてしまう。
(綱道さんを殺すのは、彼女をここから逃がしてからでなければ)
だが逃がしたとして、その後はどうする。
今の千鶴には庇護してくれる者が必要だ。
土方はまだ会津に辿り着かないのだろうか。
斎藤は新選組本隊の指揮を任されているから無理はさせられない。
平助は千鶴の現状を知れば世話を焼きたがるだろうが、彼とて羅刹の衝動に苦しんでいる。
(こんな時、永倉君や原田君、沖田君がいればまだ何とかなったのですが・・・)
せめて千鶴の精神が、自分達と同じ時を生きる彼女であれば良かった。
(雪村君を元に戻すにはどうすればいい。やはり鍵となるのは、彼女が何度も呼ぶ“兄さま”にあるのでしょうか?)
彼女が慕う“兄さま”である可能性を持つ人物は、山南が知る限り唯一人、伊庭八郎だけだ。
だが彼を呼び寄せようにも手段がなく、安否すらわからない。
まさに八方塞がりというべきか。どうにも身動きが取れない。
(次の戦が始まる前に、雪村君を安全な場所に逃がさなければ)
現在、白河口の戦は膠着状態だ。
この地は江戸と会津を結ぶ街道の要所で、ここを押さえられれば新政府軍は一気に会津に進軍できるようになってしまう。
そのため、旧幕府軍はこの城を取り戻そうと必死だ。
対する新政府軍も戦力が未だ充分ではなく、薩摩藩を中心とした七百人余りの兵力では白河城を防衛するので精一杯。
ただそれも綱道がこの先羅刹を増やし続けるなら状況は違ってくるだろうが、時間稼ぎくらいはできるはずだ。
問題は、会津を目指して進軍してくるであろう新政府軍。
江戸の旧幕府軍を鎮圧した後は、次の戦場は東北だ。
彼らが白河城に入った時、この地の戦の勝敗は決するだろう。
それまでに何としても千鶴をここから逃がさなければならない。
(あと頼れるとすれば――)
戦場でも確実に千鶴の身を守れ、心身共に彼女を手厚く保護できるのは。
上野で綱道の羅刹を一掃したという“鬼”達くらいか。
■■■■■
横浜を発ち、会津を目指して北へ向かっていた薫と千鶴は、陸奥の地に足を踏み入れた。
お千や君菊からの情報によると、新選組本隊は白河口で戦を続けているという。
それを聞いた時、薫は雪村綱道は間違いなくそこにいると確信した。
戦場というだけでなく、その地が特別な場所だから。
白河藩に入ると、どこか空気が違った。
戦を控えた物々しい雰囲気ではなくて、心の中に誰かが語りかけてくるような不思議な感覚だ。
『何だか、懐かしい・・・?』
「俺達の故郷のある地だからな」
言いながら、薫はぐるりと周囲に視線を巡らせた。
陸奥の山々のどこかに、かつて雪村一族が暮らしていた集落がある。
当時、あまりに幼かったせいで里の場所がわからないのが悔しい。
「俺達の里、どこにあるんだろうな」
せっかくここまで来たのだから一目見たいが、くまなく探し回るには相当の時間が掛かる。
さすがにそこまでの余裕は今の自分達にはない。
「里に行きたいのか?」
突如、何処からともなく聞こえてきた声に、薫と千鶴は驚いて後ろを振り返った。
いったいいつの間に背後にいたのか、そこには長身の男が一人。
「いきなり後ろに立つな!」
『風間さん、ご無事で良かった』
「誰に言っている」
小憎たらしい笑みを浮かべ、風間千景は悠然とした足取りで歩を進める。
上野で羅刹を倒した後も残党を始末していたらしいが、どうやら彼に怪我などはなさそうだ。
まあ多少傷を負ったところですぐに治ってしまうのだから、そういった心配は無用だろうが。
「それより、雪村の里に行きたいのなら連れて行ってやらぬでもないぞ」
「お前、里の場所を知っているのか?」
詰め寄る薫に、風間はおおよその場所の情報だけならばと頷いた。
「これから向かうところだ。来たければ共に来ればいい」
「千鶴、いいか?」
『うん。私も見てみたい。私達の故郷を』
素早く決断し、二人は風間の後を追った。
その山に入ると、一層懐かしさが増した。
山全体がまるで歓迎してくれるかのように、優しくあたたかな空気に満ちている。
ここまでの道程は風間に先導されたが、薫の足取りはもはや迷いなく山道の奥を目指して駆け出していた。
やがて見えてきたのは、焼け落ちた建物の残骸が朽ち果てた、無残な光景。
永い間打ち捨てられていた滅びた村の物悲しい景色だが、薫と千鶴の中ではかつての平和な村の姿が重なって見えた。
「ここだ・・・」
黒焦げた柱が輪郭だけを残す一軒の家の跡地で立ち止まり、薫は感慨深げに朽ちた柱に触れた。
「ここが、俺達の家があった場所だ」
目を閉じれば、どこからともなく父や母の自分達を呼ぶ声が聞こえてくる。
共に両親のもとに生まれた双子の妹と一緒に、朝から晩まで遊んだ日々。
薫にとって雪村の里は、唯一幸せな時を過ごした特別な地だった。
不意に、風間が持参していた徳利を傾けた。
流れ落ちる酒が地面に染み込んで、広がってゆく。
弔いの酒。
滅び、忘れ去られていた村、そこに暮らしていた人達の魂に捧げられる、鎮魂の祈り。
千鶴はそっと手を合わせ、目を閉じた。
そのまま、暫しの間沈黙が落ちた。
すると、薫が何かに気付いたようにどこかを見やり、弾かれたように走り出す。
「千鶴、こっちだ」
突然の行動に呆気に取られていた千鶴だが、遅れて薫の後に続く。
小高い丘を登った先には、色とりどりの野花が咲き乱れていた。
『ここは・・・』
一面の花畑を目にした途端、幼い頃の記憶が一気に蘇る。
ここは、幼い薫に手を引かれて連れてきてもらった、お気に入りの場所だ。
「もう一度、お前をここに連れてこれた・・・」
万感の思いの込められた囁き。
薫の言いたいことは、千鶴にもよくわかった。
花畑で遊んでいたことを大人達に知られた後、大人の目の届かない場所に子供だけで行ってはならないと叱られ、二人はここに来ることを禁じられてしまったのだ。
特に薫はきつく言い聞かせられたらしく、また花畑に行きたいとせがむ千鶴に困り果てていたのを、昨日のことのように思い出す。
あれから十年以上の年月が経って、再び二人でこの場所に来られた。
心から嬉しそうな薫の笑顔に、千鶴は胸が締め付けられた。
『兄様のばか・・・』
「な、何だいきなり」
『だって薫兄様はいつだって自分より私のことばかり・・・』
いつだって、いつだってそうだ。
千鶴が危険だから。千鶴が泣くから。千鶴が傷つくから。
だから、自分の身を盾にしてまで千鶴を守ろうとする。
その極めつけが、南雲家に千鶴の代わりに養子に入ることだった。
あの頃は彼だって、まだ幼い子供だったのに。
『私は兄様が辛い目に遭っても、知らないままだもの』
それが辛くて、悔しいのだ。
「兄は妹を守るものだろう。父様や母様に言われた言葉を思い出させてくれたのは、お前なんだからな」
里を焼かれ、一族を殺された恨みと憎しみに染まっていた頃、幼い千鶴の叫びが薫に大切なことを思い出させてくれた。
自分が生き残ったのは人間を憎み、復讐するためではなく、千鶴を守るためなのだと。
「女鬼は弱いから、俺が強くなって守らなきゃいけない。何度もそう言い聞かせられてきた」
『それじゃあ兄様だけが損をしてない?』
「そんなことはないさ。俺も昔は気付かなかったけど、これは俺を守る意味もあったんだって今はわかる」
『どういうこと?』
「俺が強くなって千鶴を守って、自分自身の命も守る。そうやって俺達二人が無事に生き延びることを、父様達は強く願っていたんだ。そのために身を守る力も与えてくれた」
言いながら薫の手は腰に差した刀に触れる。
雪村家の家宝、大通連。里から逃げる時、千鶴の小通連と共に父が託してくれた刀だ。
「人間への憎しみが消えたわけじゃないし、手を差し伸べてくれなかった同胞への不信感は強いままだけど、今はお前を守れればそれでいい」
そのためにも、綱道から千鶴の身体を取り戻す。
江戸で魂魄となった千鶴と再会し、兄妹に戻れたその日から、薫のすべきことは決まっている。
『私は、兄様に幸せになって欲しい。今まで辛い思いをしてきた分も・・・』
「俺は今が幸せだよ。お前がそばいるからな」
この世でたった一人の妹。
自分を愛してくれる、唯一の存在。
千鶴がいてくれるなら、もう復讐も恨みもどうだっていい。戦だって勝手にやってろとしか思わない。
ただ二度と愛する家族と引き裂かれることがないよう、全力で守りたい。
「もう二度とお前を失いたくない。だから綱道に会いに行くつもりだ」
綱道のもとには千鶴の身体がある。薫が依り代になっているとはいえ、身体に近づくにつれて魂魄は本来の場所に戻ろうとするだろう。それが少し気に掛かる。
「綱道は白河城にいる」
それまで離れた場所で黙していた風間が口を挟んだ。
「そして旧幕府軍は白河城を奪還しようと、何度も攻撃を仕掛けているらしい」
「じゃあ、千鶴もいずれ戦に巻き込まれるかも知れないのか?」
どくん、と心臓が一際強く鼓動を打った。
光が灯らぬ虚ろな目の、小さな千鶴の姿を思い出す。
ぼろぼろに壊れかけた心を抱えたあの頃の千鶴が、戦の只中に放り込まれる。
そうなれば、今度こそ小さな心は粉々になるだろう。
すぐに助けなければ、という衝動とともに、動かない方がいいのではと迷いが生じる。
少なくとも、身体に近づかなければ千鶴の魂は無事でいられるのだ。
(けど、あの頃の千鶴を見捨てることになる)
どちらも千鶴だ。しかも綱道のもとにいるのは、薫が守りきれなかった千鶴。
見捨てられるわけがない。
『兄様、大丈夫だよ』
薫の葛藤を見透かしたように、千鶴が強い口調で言った。
『私は大丈夫。それに、父様には言いたいことも訊きたいこともたくさんあるの。白河城に行きましょう』
驚きに目を丸くしたあと、薫は思わず苦笑した。
「お前、強くなったな」
こっちが躊躇っているうちに、さっさと覚悟を決めてしまうなんて。
こういう思い切りの良さは誰に似たのか。
薫は改めて風間と向き合った。
不本意だが、この男の力をまた借りなければならないようだ。
「千鶴を助けるために、力を貸して欲しい」
「鬼は約束を守る。千鶴を救うと決めたからには全力を尽くすのは当然だ」
そう言って、風間は不敵に笑った。
〈次〉
17.4.30up
九話目です。
このシリーズはあくまで薫“&”千鶴ですので(笑)。
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