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待ツ女 前編
曇天を見上げると、湿った風が千鶴の頬を撫でた。
「雨が降るのかな」
今にも雨粒が零れ落ちてきそうな空模様に、洗濯物を干そうとした手を止める。
今日は屯所の中で干した方が良さそうだ。
そう考えながら洗いたての洗濯物が山積みとなった籠を持ち上げようとした時、不意に伸びてきた手が千鶴からそれを取り上げる。
驚いて見上げた視線の先には、柔らかな笑みを浮かべる長身の青年が彼女を見下ろしていた。
「原田さん」
「よう、精が出るな。これ、どこか持って行くのか?」
「あ、私持ちますから」
「いいからいいから。お前にはちと重いだろ」
慌てて手を伸ばすも、原田は軽々と籠を持ち上げて千鶴の手をかわす。
こういう時の原田は決して譲らないと、短くはない付き合いの中でよく知っている。
結局千鶴の方が折れ、申し訳なく思いながら原田に任せることにした。
屯所の中に戻ると、室内で洗濯物が干せるよう準備を始める千鶴を原田は当然のように手伝ってくれる。
このそつのなさが原田が女性に人気のある理由の一つなのだろうと、彼のさりげない優しさに何度も触れてきた千鶴は思う。
「これで、全部か?」
パン!と小気味良い音を立て、洗濯物の皺を伸ばす。
最後の一枚を干し終えると、清々しい達成感に満たされた。
「手伝って下さってありがとうございます」
「おう、お前もいつもご苦労さん」
互いを労う二人の間にほのぼのとした空気が漂う。
それを吹き飛ばしたのは、こちらに近づく軽快な足音だ。
「左之さん、ここにいたのかよ、って、千鶴と二人っきりで何やってんだよ!!」
「何って、ただ洗濯物干してただけだが?」
突然現れるや何やら騒ぎ出す平助の剣幕に、千鶴も原田も目を丸くするしかない。
さらに何か言いかける平助だが、後ろから現れたもう一人が大きな手で彼の頭を鷲掴んだため、「ぐえっ」というくぐもった悲鳴だけが上がる。
平助の頭を掴みながら、こちらに屈託の無い笑顔を向けるのは永倉新八だ。
「左之ー、準備できたか?」
「ああ、すぐ行く」
「永倉さん達と出掛けられるんですか?」
「これから三人で島原に行こうと思ってな」
「え、でも、雨が降りそうなお天気ですよ?」
「まあ、酷くならねえうちに帰れば大丈夫だろ」
気遣わしげな千鶴に楽観的に答え、じゃあな、と未だ不満そうな平助を永倉と二人掛かりで引きずって行く原田。
その後姿に千鶴は「行ってらっしゃいませ」と声を掛ける。
そして雲に覆われた薄暗い空を見上げ、彼らが帰るまで酷くならなければ良いのだけれど、と胸のうちで呟いた。
■■■■■
微かな遠雷の音が聞こえた。
心なしか、風の音も段々強くなりつつあるようだ。
「今夜は嵐になりそうだな」
夕餉を終え、千鶴の淹れた茶を味わっていた土方がぽつりと呟く。
その言葉に、同じく食事を終えたばかりの沖田や斎藤が雨や風の音に耳を澄ませる素振りを見せた。
「千鶴ちゃん、怖かったらいつでも僕の布団に入ってきていいからね」
「え・・・ええ!?」
何気ない沖田の発言にきょとんとなる千鶴だが、意味を理解すると同時に頬を真っ赤に染める。
慌てる様子が面白かったのか、沖田は逃げ出そうとする千鶴の腕を素早く掴んで「僕が千鶴ちゃんの部屋に行ってもいいよ」と笑顔で続けた。
「い、いえ、あの、そんな、ご遠慮します〜〜っ」
「別に遠慮なんてしなくていいのに」
「総司、からかうな」
「ひどいなあ、僕は純粋に善意で言ってるんだけど」
嘘つけ
土方と斎藤は同時に心の中で突っ込むが、声には出さなかった。
その代わりに斎藤が鋭く睨みつけると、沖田は「はいはい」と言いながら掴んだ腕を離す。
自由になった千鶴はあたふたと総司の隣から斎藤の隣へと席を移動した。
「あーあ、逃げられちゃった」
残念そうに言いつつ、その表情は如何にも楽しげであり、次はどうやってからかってやろうかという愉悦が窺える。
そんな沖田の様子に呆れた視線を向ける土方は、ふと目線を厳しくした。
「ところで、新八達はまだ帰ってきてねえのか」
「そのようです」
「どうせ島原で遊び呆けているんじゃないの」
くすくすと笑いながら核心を突く沖田の言葉に、千鶴はぎくりと身を強張らせる。
思えば彼ら三人はつい先日も島原で朝まで飲んできて、土方にこっ酷く叱られたばかりだった。
ただ飲んで騒ぐだけなら島原では珍しくもないのだが、彼らはその騒ぎ方が尋常ではなく、幾度も島原の芸妓や客達に迷惑を掛けているのである。
これ以上何か騒ぎを起こせば、島原への出入りを禁止されてしまうかも知れない。
いや、土方の様子を見るに、彼は今すぐにでもそう言い渡したいのだろう。
いつも原田達が座る席はぽっかりと空いたまま。
夕餉時には戻ってくると思っていたのに、未だにその気配は無い。
彼らが出掛けて間もなくして降り出した雨は、時間と共に激しさを増していく。
三人は無事に帰って来れるのだろうか、と千鶴は原田達を案じた。
その頃、問題の三人は屯所への道程をひた走っていた。
バシャバシャと水溜りの地面を踏む度に跳ね上がる泥水で足元はびしょ濡れとなり、何とも走り難い。
「おい急げ! とっくに夕飯の時刻過ぎてるぞ!」
「ったく、新八っつあんがいつまでも飲んでるから!」
「なんだよー、こんな雨ん中走って帰るよか島原に泊まってくればいいじゃねーか!」
「馬鹿野郎、そんなことしたら今度こそ土方さんの雷が落ちちまうぜ」
「そうだよ、二度と島原に行けなくなっちまうぞ!」
つい先日叱られたというのに、綺麗さっぱり忘れてしまったのだろうか。
原田や平助が「そろそろ帰ろうか」と何度促しても、「まだ飲み足りねー」だの「姐ちゃんと話してんだから邪魔すんな」だのと駄々を捏ねまくった男に呆れ果てる。
無駄に時間を取られるうちに雨脚は激しさを増し、ただでさえ星明かりのない暗い夜道を幾重にも覆い隠す。
傘など役に立たないほどの雨と風に晒され、水を含んだ着物が肌に張り付く感触が気持ち悪い。
こんなことなら新八なんか見捨ててさっさと帰れば良かった、と原田も平助も心から悔やんだ。
「お、おわあ!?」
「へ? なああ!?」
後ろから聞こえてきたおかしな悲鳴に、原田は足を止めて振り返った。
同時にバシャッという音を立てて、新八と平助が水溜りの中に倒れ込む。
どうやら新八が足を滑らせ、平助を巻き込んで倒れたようだ。
「何やってんだお前ら・・・」
「新八っつあんのせいだし!!」
「いやあ、飲み過ぎちまったかなあ」
平助の怒りの声にも、新八はへらへらと笑って返す。
泥の中に頭から突っ込んだせいで、二人とも酷い有様だ。
「しょうがねえ、一旦どこかで雨宿りするか」
原田はここがどの辺りかを確認するように視線を巡らせる。
そうしてすぐ近くに小さな神社を見つけると、三人はそちらに向かって駆け出した。
神社の軒下に入ると、ようやく滝のような勢いの雨から逃れられた。
引き戸に手を掛けると、それはあっさり開く。鍵は掛かっていないようだ。
「すまねえが、ちっとばかり雨宿りさせてくれ」
神社に祀られている神様に話しかける。
何の神が祀られているのかは知らないが、一応の礼儀だと思って何気なくしたことだ。神様の返事など期待していない。というかあるわけない。
そのはずだったのだが。
「まあ、濡れ鼠」
暗闇の中から女の声が聞こえ、返事が返るなんて思ってもみなかった三人はびくっと肩を大きく震わせる。
平助などは思わず「ひっ」と引き攣った声を上げてしまった。
「あ、悪い、先客がいたのか」
「いえ、構いませんよ。どうぞお入り下さい」
柔らかな声。若い女のようだが、真っ暗な社の奥にいるため姿は確認できない。
だが、どうやらそこにいるのは彼女一人のようだ。
そう確信すると三人は警戒を解いた。
「いや、すぐに出て行くから気にしないでくれ」
中に入るよう促す女にそう答え、原田はすっかり水を吸って重くなった袴を絞る。
平助と新八は雨に濡らした手拭いで泥だらけになった顔や手を拭き、ふと平助が女がいると思われる暗闇を見た。
「あんたも雨宿りか? もう暗くなっちまったし、良かったら籠でも呼んできてやろうか?」
「ありがとうございます。ですが大丈夫です。連れの者がそのうち来てくれますから」
夫か恋人だろうか。答える声に艶が宿る。
こんな嵐の日に女が一人外にいるなんて、男の方もさぞ心配しているだろう。
心配といえば。
原田の脳裏に若衆姿の少女の姿が浮かぶ。
(千鶴、心配しているだろうな)
出掛けようとしていた自分達を案じてくれたことを思うと、千鶴の心配した通り、いやもっと酷い有様となって帰ることになるのが申し訳ない。
よく考えると、泥だらけになった自分達の着物を洗濯するのは彼女なのだ。余計な仕事を増やしてしまった。
「新八の馬鹿のせいで」
「な、何だよっ」
思わず口をついて出てしまった不満に、新八が拗ねた声を上げる。
だが自分を見る原田と平助の視線の冷たさに、己の不利を悟った。
「ああ悪かったよ、土方さんにはちゃんと悪いのは俺だって言っとくからそんな眼で見るなよっ」
「土方さんがそんな甘い人なわけねえだろ」
「俺達、この格好で帰ったら絶対に総司に指差して笑われるよな・・・」
「だろうな。斎藤は呆れるだろうし、土方さんには大目玉だ」
はあ〜・・・と切ない溜息が漏れる。
すると、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。
三人の会話に女が笑っているのだと気付くと、途端に羞恥が込み上げる。
見ず知らずの女の前で情けない姿を見せてしまった。
原田や平助が恥じ入っているのに気付いたのだろう。女は「ごめんなさい」と収まらない笑いの中で詫びる。
「お侍様方、新選組の方達ですね」
「ん? ああ、まあな」
怯えさせえてしまうだろうか、と内心で身構える。
京の人々にとって、新選組は決して良い印象を持つ集団ではない。
そんな男達に、女が怖がってしまうのは無理のないことだ。
しかし、女の口から出た言葉は意外なものだった。
「雪村さんはお元気でいらっしゃいます?」
「あんた、ちづ・・・雪村の知り合いか?」
「はい、何度かお話させて頂きました」
思いもよらない名前が出たことに、平助や新八などはぽかんと口を開けたまま固まっている。
原田は暗闇の中の女の姿を確認しようと、じっと眼を凝らした。
稲光でも光れば一瞬なりとも女の顔が見れるだろうに、残念ながら雷はまだ遠い。
ならば聞こえた声を千鶴の周囲に現れる女達に当てはめようとするが、該当する者はない。
千鶴と仲の良い女といえば、お千と名乗る少女だが、声の主はもっと年上だろう。
(この女、何者だ?)
千鶴に害為す者だろうか。それとも。
不意に、雨の音が止まった。
「左之さん、今のうちに走ろう!」
「だな、また大雨にならねえうちに屯所に帰ろうぜ」
「あ、ああ」
二人に急かされ、原田は後ろ髪が引かれる思いで女に背を向けた。
女の話を聞きたいが、今を逃せばまた大雨の中を走らねばならなくなるのだ。
社を出て行く原田達の背に、女が優しく言葉を紡ぐ。
「お気を付けて、原田さん、藤堂さん、永倉さん」
勢いの弱まった雨の中を再び走りながら、原田はふと疑問を口にした。
「なあ、俺達、あの女に名乗ったか?」
「いや・・・」
そういえば、と新八や平助も首を傾げる。
「まあ俺達有名人だし、会話から思い当たったのかも知れねえな」
確かにその可能性はある。
新八の名は出したし、土方や総司の名も口にした。
そこから自分達の名前を当てるのは決して不可能ではない。
ただ、あまりにも女の言葉が自然過ぎて、それが却って不自然にも思えた。
何より、原田にはもう一つ気に掛かることがある。
「それにあの声、どこかで聞いたことがあるような・・・?」
「そうか?」
思案する原田に新八は暢気に返す。この男には相談するだけ無駄だ。
諦めの溜息をついていると、不意に新八が零した。
「雨の中走ってると、あの日のこと思い出しちまうな」
「何だよあの日って?」
「斎藤と追いかけっこした日のことだよ」
「「はあ?」」
二人の頭の中に浮かんだ光景は、雨の中をきゃっきゃうふふと追いかけっこする新八と斎藤の姿。
しかし、浮かんだ瞬間に二人はそれを打ち消した。有り得ない。
「あの勝負は本気で悔しかったぜ・・・」
新八が悔しがる勝負?
二人の頭の中では雨の中を鬼の形相で命懸けの追いかけっこをする新八と斎藤の姿。
何か背筋に嫌な汗を感じ、二人はそっとそれを掻き消した。
「斎藤の奴、俺に峰打ちをしっかり決めてくれやがって・・・っ!」
その言葉でようやく合点がいった。
「ああ、あの新八っつあんが一君に真剣勝負挑んで負けたってやつね」
「う、うるせえ!」
確かに、あの日は雨だったなあ。
原田にとっても忘れられない雨の日があった。
まだ“浪士組”が“新選組”という名をもらって間もない頃、土方達は一つの重大な決断をした。
それを実行したのが、激しい雨の降る夜だったのだ。
その日、土方達がやろうとしていることを阻止するべく、新八は島原から八木邸に向かって疾走していたという。
その彼の行く手を阻んだのが、斎藤だった。
互いに命を懸けた一戦が、雨の中繰り広げられた。
勝負の結果は斎藤に軍配が上がり、新八が目覚める頃には全てが終わっていたのだ。
もう過ぎたことだと割り切ってはいるが、新八は今もあの勝負を思い出すと悔しがる。
斎藤に完膚なきまでに負けたことが心の底から悔しいのだ。
「あーくそ、帰ったら即行で斎藤に勝負挑んでやる!」
「やめとけ、今のお前じゃ返り討ちに遭うのが関の山だ」
酒をしこたま飲んだ挙句、足を滑らせて泥の中に突っ込むような男が斎藤に勝てるわけがない。
そう一刀両断され、新八は返す言葉もなくこっそりと涙を呑んだ。
〈次〉
13.6.20up
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