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巡ル時 前編
「あれ?」
その違和感に気付いたのは、庭の梅の樹を見上げた時だった。
立春を過ぎたとはいえ春の足音は未だ遠い厳しい寒さの中、固い蕾もまた深い眠りの淵にある。
冷たい風に耐える小さな蕾をじっと見つめ、千鶴は不思議そうに首を傾げた。
「どうしました、雪村先輩」
箒を手に立ち尽くす千鶴に心配そうに問い掛けたのは、共に庭掃除をしていた相馬主計だ。
たった今まで雑談を交わしていた相手が突然上を見上げたまま固まってしまったのだ。彼が不審に思うのも当然だろう。
「ごめんなさい、掃除中なのに」
「それはいいんですけど、どうかしたんですか? その樹が何か?」
「ううん、何でもない。たぶん気のせいだと思うから。掃除に戻りましょう」
話を切り上げた千鶴は不意に胸の奥に芽吹いた不安を振り払うかのように、一心不乱に落ち葉を掻き集める。
きっと気のせいだよね。
そう心の中で落とした呟きは、嫌な予感だけを残して消えた。
■■■■■
「ん? 大広間の方が騒がしいですね」
庭掃除を終えて屯所の中に戻ると、賑やかな声が廊下の向こうから聞こえてきた。いつもの騒がしい三人組の声だ。
彼らは何かにつけて大騒ぎしているが、漏れ聞こえる声の調子から平助や原田の声音に困惑の響きがあった。
「何かあったのかな」
「ちょっと行ってみますか?」
行ったら十中八九巻き込まれるだろうが、やはり気になるものは気になる。
意見が一致した二人は大広間へと向かった。
案の定、大広間では平助、原田、永倉の三人がわいわいと騒いでいた。
それ自体は見慣れた光景だが、いつもと違うのは座した三人の中央にでんと置かれた存在である。
あれは何だろう、と千鶴と相馬は揃って首を傾げた。
「新八、お前絶対騙されてるぞ」
「馬鹿野郎、このありがたい蛙様を侮辱すると罰が当たんぞ」
「いや、どう考えたってインチキだって」
「あの、どうかされたんですか?」
「お、相馬に千鶴ちゃんか。何だ、もう噂を聞きつけたのか? そんじゃ二人にもこのありがたい蛙様を拝ませてやろうじゃねえの」
「この変な蛙のどこにありがたみがあるんだっての」
「蛙・・・?」
言われて見れば確かにその置物は蛙の形をしている。色合いが独特というか、凄まじいが。
「その蛙気持ち悪いよ。やたら目がきらきらしてるし、身体の色なんて桃色に紫の斑点模様じゃねえか」
「わかってねえな平助。これが芸術ってやつだろうが」
「何が芸術だ。そんな不気味なもん、さっさと捨てちまえ」
「お前らの見る目のなさには呆れるぜ。二人はわかってくれるよな?」
「は、はぁ・・・」
なあ、と水を向けられた相馬は返答に困った。
原田の言う通り、不気味の一言に尽きるそれを何とか褒めようと言葉を探すも、それらしい語彙を捻り出すことができない。ただただ不気味だ。
「ところでその置物、どうされたんですか?」
とりあえず置物の感想は横に置き、一番の疑問を口にすると、永倉の表情がパッと輝いた。
「よくぞ聞いてくれた! 実はな」
嬉々として語り始める永倉の壮大な話を要約すれば、たまたま立ち寄った神社の近くの出店で押し売りに押し付けられたようだ。
過剰に事実を飾り立てて無理矢理美談にしようとしているが、つまりはそういうことらしい。
「この蛙様を見た瞬間、胸に激震が奔ったんだよ。きっとこいつは俺に幸運を運んでくれるってな!」
「何でそんな馬鹿な錯覚に取り付かれやがったんだか」
「蛙様に願えば何でも望みを叶えてくれるって店主のおっちゃんが言ったからだ」
「あからさまに胡散臭え」
「悪いこと言わねえから、店に返品するか処分しろよ新八っつぁん」
「馬鹿言うな! この蛙様は新選組の守り神として隊士全員で崇め奉るに決まってんだろうが」
「「勝手に決めんな!!」」
ぎゃあぎゃあと言い争いに発展する組長三人からそっと距離を取り、相馬は千鶴の裾を引いた。
「先輩、行きましょう」
事情は飲み込めた。あとは巻き込まれないうちに広間から退散するだけだ。
入隊して数ヶ月の新人隊士とはいえ、組長達の面倒臭さは流石に思い知るほどの月日と経験を経ている。
彼らに見つからないよう迅速に素早くこの場から離れ、本来の仕事に戻ることこそ平穏への道なのだ。
その時相馬は、千鶴が広間に入ってから一度も口を開いていないことに気付いていなかった。
「すごい色の蛙でしたね」
千鶴と二人になると、思わず本音が零れ落ちた。
造形自体は悪い出来ではないのに何を考えてあんな衝撃的な色にしたのか、製作者に会ったら問い質したい。
「あの置物、相馬君は初めて見る?」
「ええ、先輩はあれを知ってるんですか? もしかして永倉さんのように騙され・・・じゃなくて勧められたことがあるとか?」
「ううん。ねえ相馬君、今日が何日か覚えてる?」
「?」
まったく要領を得ない質問の数々に、相馬は首を捻る。
今日の日付を答えるも、千鶴は沈んだ顔で項垂れた。
「そうだよね・・・」
いったい何を聞きたい、もしくは言いたいのだろうか。
どこか上の空の彼女に話し掛けようとしたとき、足音が近づいてきた。
廊下の先から顔を見せたのは同僚の野村利三郎だ。
「いたいた、相馬!」
「野村、廊下の雑巾掛けは終わったのか?」
「おう、そろそろ夕飯の買出しに行こうぜ」
「そうだな」
千鶴に会釈をして踵を返すと、「相馬君」と遠慮がちに呼び止められた。
「何でしょう?」
「あの、倒れてくるものに気をつけてね」
「? はい、わかりました」
何故そんなことを言うのか不思議に思いながらも、どこか思い詰めた千鶴の様子に疑問を口にすることができなかった。
■■■■■
相馬と野村の姿が見えなくなると、千鶴は庭の梅の樹のもとに向かった。
蕾はまだ固く小さくて、枝の一部として溶け込んでいる。
「どうして・・・」
――どうして花が咲いていないのだろう。
自分でも説明の付かない考えだ。
しかし脳裏に浮かぶのは、紅く色づき、膨らみかけた蕾。明日にも咲きそうだった梅の花。
それは決して夢や想像の産物ではなく、本来ならもうこの目で見られるはずの梅の樹の姿だ。
何故こうなってしまったのか。
何故自分だけが気付いてしまったのか。
相馬も永倉も原田も平助も、誰も疑問に感じていないようだった。ごく普通に彼らは日常を過ごしていた。
そんな中で気づいてしまった違和感が、“あるはずのない記憶”を呼び起こした。
この先の未来。
誰も知るはずのないそれを、何故か千鶴は知っているのだ。
それも一度や二度ではなく、何度も同じ日、同じ時を過ごした記憶を。
“繰り返し”――。
馬鹿げた話だが、それ以外にこの現象を言い表す言葉が見つからない。
相馬が口にした日付から梅の花の蕾が綻びかけるまでの日数が、いつの頃から“繰り返し”ている有り得ない現実。
永倉が誇らしげに語っていた蛙の置物の記憶だって、今の千鶴にははっきりとある。
この後も彼は蛙様信仰を平隊士達にも広め、数日後には土方に特大の雷を落とされてしまう。
先程相馬に言った言葉も、この先の未来で彼に起きる事故を記憶しているからだ。
野村と共に買出しに出かけた相馬は、倒れてきた木材が当たって傷を負う。
怪我は幸い酷くはないものの、彼は数日の間痛みや腫れで不便な思いを強いられるのだ。
それを回避、あるいは軽減できればと思って注意を促したのだが、果たしてこの行為は正しかったのだろうか。
(でも、何とかしないと)
気づいてしまったからには、何か自分にできることをしなければならない。
このまま永遠に同じ時間が繰り返されるなんて、冗談ではない。
開花を間近に控えていた梅の樹も、今は再び深い眠りの中にある。
『もうじき春が来るんだな・・・』
綻び掛けた紅い蕾を見つめ、儚く微笑んだ“彼”の顔も、よく憶えている。
あの時の胸の痛み、彼の言葉を耳に捕らえた人達が一様に見せた複雑な表情。
その後、確実に訪れるであろう“別離のとき”を少しでも永らえることができれば、なんて子供染みた願いすら抱いてしまったけれど。
頭(かぶり)を振り、そんな考えを振り払う。
どんなに“そのとき”が来て欲しくなくても、時間は止め処なく流れるもの。
過去に巻き戻すことなんて、できるわけがない。
千鶴の頭が狂ったわけじゃないなら、今まさに巻き戻されたばかりとも言えるが、この状態がいつまでも続くことはないはずだ。
「雪村、そこで何してる」
不意に背後から聞こえた声に慌てて振り向くと、濡れ縁に立つ土方がこちらを見ていた。
「梅を、見ていました」
「梅? まだ蕾すら付けてねえだろ。そんなもん見て楽しいのか?」
苦笑交じりに言われた言葉に、そうですね、と言葉を濁す。
「土方さんは休憩ですか?」
問いながらも、答えはすでに知っている。
これから土方は会津藩からの呼び出しで藩邸まで出掛けるはずだ。
「いや、これから出掛ける。会津藩から呼び出しがあったんでな」
「そうですか、お気をつけて」
おう、と軽い調子で答え、土方はその場を立ち去った。
再び一人になると、小さく息をついた。
繰り返す日々は、いつもまったく同じということはなく、多少の差異はある。
しかし隊務などの取り決めのある屯所では、ほとんど規律正しく時を刻む。
“前回”までの記憶を手繰り寄せ、次に何が起きるのかを知っている自分になら、この捻じ曲がった時間の流れを崩す綻びを作れるはずだ。
梅の樹を見上げ、千鶴は決意を込めて告げた。
「きっと、花を咲かせるからね」
■■■■■
「よっこらせっと」
夕方、買い出しから戻った相馬と野村は厨に直行し、食材の詰まった籠を下ろしてようやく一息ついた。
厨では夕食当番の山崎が待っていて、早速籠の中身を手に取りながら献立を考えている。
見たところ他に当番の者はいないらしく、二人も彼を手伝うべく準備に取り掛かった。
「にしても、さっきは驚いたよな。歩いてたらいきなり木材が倒れてくるなんて」
「どこか傷めたのか?」
手元の野菜から顔を上げた山崎が鋭い目線を素早く相馬と野村に走らせる。
医療方を担う彼は、隊士達の体調を常に気に掛けてくれているのだ。
相馬は慌てて首を振り、大丈夫です、と答えた。
「幸い無事に避けられましたので、二人共怪我はありません」
「そうか、なら良かった」
「相馬の奴凄かったんすよ! 降ってくる木材を間一髪で避けて難を逃れたんです。気付くのが少しでも遅かったら直撃してましたよ」
「そうか。日頃の鍛錬の成果が出たのかも知れないな」
入隊して以来、彼らが沖田や永倉にしごかれない日はない。
毎日のように幹部隊士の剣を受けていれば、人並外れた反射神経が身に付いても不思議ではないだろう。
けれど相馬はどこか腑に落ちない面持ちで黙り込んだ。
「どうしたんだよ相馬。もしかしてさっきの事故のことで動揺してんのか?」
「無理もない。危うく大怪我をするところだったんだからな。今日はもう休んだ方がいいだろう」
「いえ、俺なら平気です。気にしないでください」
気にかかるのは事故のことではない。出掛ける前の千鶴の言葉だ。
倒れてくるものに気をつけろ、とはさっきのことを示していたのだろうか。
その言葉があったから、いつも以上に周囲を警戒して歩き、木材を縛っていた紐が切れかけているのにも逸早く気付いて事なきを得たが、彼女はあの事故が起きることを知っていたのか?
(まさか、な)
きっと何か嫌な予感を感じたか、もしくは夢でも見て心配してくれたのだろう。
そう自分に言い聞かせ、馬鹿な考えを打ち消した。
「ところで当番は山崎さんだけなんですか? 他の人は?」
「他の当番はいない。伊東さんの勉強会に参加しているらしい」
その言葉に、相馬も野村も苦い表情となる。
「本来なら俺も当番ではないのだが、ちょうど非番の日だから代わったんだ。雪村君が早めに知らせてくれたから良かったが、夕餉の時間が遅くなるところだった」
「雪村先輩が?」
「ああ。彼女も支度を手伝ってくれる。もうじきここに来るだろう」
「お、やった。先輩って料理上手だから助かるぜ」
当番の者が伊東の勉強会に参加することを千鶴が知らせた。
それはこれまでも何度かあったことだ。
当番を代わった千鶴が夕食の支度をするのを、相馬や野村も手伝っている。
初めてではないのに、何故か胸に引っ掛かるものを感じた。
〈次〉
18.3.10up
3.20加筆修正
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