―1―
うつろな生。
気が遠くなるほど永い年月。
死の匂いのする闇は、当たり前のようにそこにあった。
怖いとか、心細いとかいう思いもすでになく、あるのは諦めだけ。
変わらない闇と無音の続く、生命の息吹のない世界にたった独り、右も左も解らずに立ち尽くす。
何が現実なのかすら曖昧で、自分の存在までもが儚く思える。
誰かを探そうなんて、とっくに諦めた。
永い旅の間に何度か誰かが彼の心に触れようとしてきたけれど、結局誰も残らなかった。
切望することもない。
期待することもない。
――だが。
そんな世界に、いつしか異変が起きた。
それは小さな、小さな針の先ほどの異変。
けれど、少しずつ確かな形を表していった。
■■■■■
綴じていた瞼を開くと、テントの天井が目に映った。
身を起こして周囲を見渡せば、数人の寝息が聞こえてくる。
鎧や剣を枕元に置いてあるところは、さすがは軍人というところか。
赤月帝国の軍人に良い噂は聞かなかったけれど、やはり噂は噂でしかなかったのだろうか。
少なくとも自分が出会った軍人達は皆、忠義を重んじる心正しい者達だ。
(指揮官が良いからだろうな)
そう分析する。
地位の高い人間は得てしてロクなものではない。
テオ・マクドールに拾われた自分は、運が良かったのだ。
日が昇るにはまだ早い時間だったが、彼――テッドは静かにテントを出た。
「君はどこか私の息子に似ている」
愛しげに、けれどどこか哀しげにテオ・マクドール将軍はテッドにそう言った。
しかしテッドは彼の言葉をあまり信じてはいなかった。
帝国将軍の子息という恵まれた子供が、自分のような人間に似ているわけがない。
もしも似ているところがあるとすれば、年格好くらいなものだろう。
興味を示す様子もなく目を逸らすテッドに、テオはますます笑みを深めた。
「そんなところも本当によく似ている。だからだろうか、君を放っておけなかったのは」
戦場に1人佇んでいたテッドに手を差し伸べてくれた将軍は、その大きな手でくしゃくしゃとテッドの頭を撫でた。
「明日にはグレッグミンスターに着く。息子にも紹介しよう。仲良くしてやってくれ」
将軍のお坊ちゃんが小汚い浮浪児と仲良くしたいと思うわけがない。
だがとりあえずは恩人の息子なのだから、礼儀正しく振舞えば良いか、とテッドは頭の片隅で思った。
■■■■■
グレッグミンスターに近付くにつれ、闇の世界の異変はテッドの目にも明らかとなっていった。
右手に宿るものが見せる闇の中に、さらに深い闇が形を成している。
300年間生きていて、この世界に異変が起きるのは初めてだ。
始めは虚空に浮かぶ点だったそれが、徐々に大きさを増して、今ではテッドの目の前に大きく広がっている。
そしてこの日。
闇の中心には少年の姿があった。
驚きのあまり声もなく少年を見つめるテッドに、少年もまた無言で視線を返す。
まるで闇を具現したような容姿。
髪も、眼も、纏う服も漆黒。
顔や手など、見える素肌だけが対照的に真っ白だ。
年の頃はテッドの外見よりもいくつか年下。12〜3歳ほどだろうか。
「お前、誰? 人間、だよな?」
少年に近付くと、何の感情もない黒い瞳がテッドを見た。
恐る恐る手を伸ばして少年の腕に触れ、確かな感触に言い様のない感情が湧き上がる。
戸惑いや、恐れ、哀しみ・・・そして、安堵。
随分昔に捨て去ったものが、少年に触れただけでテッドの胸を強く震わせる。
危険だ。
この感情は危険だ。
この少年から離れなければ、と頭の中で警報が鳴る。
しかし、テッドは動くことができなかった。
すると、何の感情も浮かんでいなかった少年の無表情が、テッドの目の前でみるみるうちに崩れた。
「・・・て」
「え?」
「初めて・・・人に会った・・・」
嗚咽を堪える、たどたどしい声。
少年はもう、さっきまでの人形のような無表情ではなくなっていた。
「お前・・・俺と同じなんだな」
そっと抱き締めると、細い手が縋り付くようにテッドの背に回る。
カタカタと震えるそれに、少年の想いがテッドの中に流れてくる。言葉がなくとも、共鳴するかのように鮮明に。
誰もいない暗闇の中で、この子供もたった1人で居たのだろうか。
泣きじゃくる少年の背を撫でながら、テッドは数百年振りに感情が湧き上がってくるのを感じた。
もう、独りじゃないんだ。――自分も、少年も・・・。
永久に埋まることはないだろうと諦めていたものが、300年という時を越えたこの瞬間、ようやく満たされた気がする。
初対面だろうと関係ない。
現実味がなくたって構わない。
今ここに、自分と少年は“存在”している。
それだけが全て――。
永過ぎた時が急速に目の前を過ぎ行き、自分自身の時間がようやく動き出したことを感じた。
やがて落ち着きを取り戻したテッドは、しがみ付いて離れない少年に優しく語りかけた。
「なあ、お前の名前は? どこに住んでるんだ? あ、俺はテッドって言うんだけど」
「・・・テッド・・・」
ゆっくりと顔を上げた少年の漆黒の瞳は、涙に揺れていた。
小さな唇がテッドの名前を呟き、何度も小さな声に乗せて繰り返す。まるで、大切な宝物のように名を呼ばれ、テッドはあまりの照れ臭さに視線を泳がせた。
「うん。で? お前は生きてる人間なんだよな? 名前は? 家は?」
「家はグレッグミンスター」
「本当か!?」
テッドの顔が輝いた。
そう言えば、グレッグミンスターに近付くにつれて少年の纏う闇が近付いたのだった。
もしかしたら会えるかも知れない。現実の彼に。そう思うと胸が弾んだ。
「名前は?」
訊かれて、少年は無言のまま俯いた。
急に黙り込んでしまった少年に戸惑い、「どうした?」と問うと、迷うように周囲を見渡した少年はふいにその場に座り込んだ。
除き込むと、細い指が地面に文字を綴る様子が見て取れ、テッドは書かれた文字を追った。
「リー・・・シア。お前の名前?」
少年はふるふると首を横に振った。
「違うのか?」
再び首は横に振られる。
わけが解らない。名前なのかと訊かれれば否定し、名前ではないのかと訊かれても否定する。いったい何が言いたいのだろう。
「どっちだよ」
「違う・・・僕の名前じゃない・・・でも、そうなってる・・・」
「はあ?」
「父様も、グレミオ達もこの名前で僕を呼ぶんだ」
少年はそれをひどく嫌がっているらしい。
テッドは少し考え込むと、
「じゃあ、俺はお前を“シア”と呼ぼう」
顔を上げた少年は、びっくりしたように目を丸くした。
「“リーシア”って呼ばれるのは嫌なんだろ? だから“シア”。俺だけの呼び方だ」
そう言って微笑むテッドに、“シア”と名付けられた少年は花が咲くような笑顔を返した。
心から嬉しそうなその笑顔は、闇を照らす光のようにテッドの眼に眩しかった。
グレッグミンスターに辿り着いたら、必ず彼を探し出そう。
そう、心に誓う。