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「本当に驚きましたよ」
興奮冷め遣らぬといった声音でそう言ったのは、マクドール家の家人グレミオだ。
頬の大きな十字傷が不釣合いな優しげな容貌の温和な青年は、鍋を掻き回す手を止めないまま、彼の手伝いをするテッドに声を掛けた。
戸棚から人数分の食器を取り出しながら、テッドは「はて? 何かしたっけか」と首を傾げる。
「テッド君に会った途端、坊ちゃんが話されたんですよ? いったいどんな魔法を使ったんです?」
「何のこと?」
「坊ちゃんは、もう何年も声を出されていなかったんです」
「?」
わけが解らずにますます混乱するテッドに、グレミオは自嘲的な笑みで語った。
「ある時から、笑うことも話すこともしなくなって・・・。テッド君と出会った時、私達は7年振りに坊ちゃんの声を聞きました」
「え!?」
思わず皿を取り落とすところだった。
慎重にテーブルの上に皿を並べながら、グレミオの言葉を理解しようとする。
7年間も声を出すことも笑うこともなかったなんて、いったいどういうことなのか。
グレミオが冗談を言うわけはないし・・・だが別に障害があるわけでもないのに何年も声を出さずにいることなどあるのだろうか。
テッドは、初めてリーシアと出会った時のことを思い浮かべてみた。
テッドの存在を受け入れる前は、まるで人形のような無表情だったリーシア。あの状態で7年間も時を過ごしていたというのだろうか。
(こんなにも優しい人達なのに、お前の心には響かなかったんだな)
我侭だと、自己中心だと詰るのは簡単だ。けれど、テッドはそんなものよりも、少年の味わった永い孤独を思って胸が痛んだ。
彼らは少年を“リーシア”と呼ぶ。彼がひどく嫌う名だ。
だからこそ、“シア”は彼らに心を開くことができなかったのだろう。
その擦れ違いが少年との間の深い溝となっていることに、彼らは気付いているのか。
「奥様と、ある1人のメイドが亡くなってからです。坊ちゃんがそうなってしまったのは」
思慮深い面を苦渋に染め、グレミオは俯いた。
それっきり、グレミオはこの話題を打ち切った。ようやく坊ちゃんが感情を取り戻せたのだから、過去はもういいのだと言って。
彼が本当に“坊ちゃん”を大切に想っているのだということが伝わる。
何とかしてあげられないだろうか。
このままでは彼らも“シア”も擦れ違ったままだ。
人と関わることを久しく断っていたテッドだが、彼らのために何かがしたいと、心から思った。
その夜。
テッドはリーシアの部屋に泊まることになった。
誰かと二人きりという状況に戸惑い、始めは断っていたのだが、彼と一緒に居たいというリーシアの数年振りの願いを叶えようと、グレミオ達は必死だった。
結局押し切られる形でリーシアと共に眠るはめになったテッドだが、不安よりも嬉しさの方が勝っていた。決してリーシアに手は出させない、ときつく右手を握り締める。
久しぶりに横たわるふかふかのベッドの感触に、張り巡らされていた緊張感が思わず解ける。
ソウルイーターが何か起こさないように徹夜するつもりだったのに、触れ合った肩や腕に伝わるリーシアの温もりの心地良さに誘われ、徐々に眠りへと落ちていった。
寝静まったリーシアの部屋。
二人の少年の寝息だけが聞こえるベッドで、静かに闇の波動が目覚めた。
■■■■■
闇の夢など見慣れ過ぎていて、今更何も思うことはない。
だがリーシアに会えた今は、眠りにすら楽しみを見出せる気がした。
闇の中を落ちていくのか上昇しているのか。不思議な感覚が過ぎ、突然目の前に開けた光景にテッドは息を飲んだ。
暗い草原でも、灰色の世界でもない夢など、いったい何百年振りだろう。
気が付けば、テッドが立っているのは立派な邸の一室だった。
確かめるように周囲を見渡すと、広い寝台に横たわる美しい女性の姿を見止める。
黒く長い髪と黒い瞳の、20代半ばと思わしきその女性。一目見ただけで彼女が誰なのかが解った。
(――シアのお母さんか?)
本当によく似ている。
まるで彼の成長した姿を見ているようだ。
リーシアが女性ならば、きっと彼女に勝るとも劣らない美女となっていただろう。
そんなことを思っていると、ふいに扉が開き、今よりも少し若いテオ・マクドールが部屋に入ってきた。
『蓮麗(レェンリー)、身体は大丈夫か?』
労わりの言葉に、蓮麗と呼ばれた女性は微笑み、大きくなった腹部を優しく撫でた。それを見るテオの瞳も優しい。
『元気な子を産んでくれ』
もうすぐ産まれてくる子供を待ち望む、幸せそうな夫婦。
愛情に満ち溢れた温かな家族の様子に、テッドは知らず知らず笑みを浮かべた。
彼らにとって、シアは大切な子供なのだ。
なのに何故――どこで彼らは間違えたのだろう。
フッと場面が変わった。
テッドが立つのは、マクドール邸の廊下だ。
ある一つの部屋の前で、テオやまだ少年のグレミオとパーンが心配そうに扉を見つめている。
誰もが落ち着きをなくしてうろうろと歩き回っては、立ち止まって溜息をつく。
そんな重苦しい空気が、小さな泣き声を耳にした途端に歓喜に変わった。
間を置いて閉ざされていた扉が開き、クレオが顔を出す。
少し疲れが滲む、だが満ち足りた笑顔で彼女は言った。
『男の子ですよ、テオ様!』
歓声が上がった瞬間、場面が変わる。
場所は最初にテッドが目にした部屋だ。
寝台に上体を起こした蓮麗と傍らにはテオが立ち、二人の視線の先にはテオの腕に抱かれた産まれたばかりの赤ん坊。
『この子の名前を考えたぞ』
言葉を聞いたテッドは思わず目を丸くした。
儚げな美女の口から出たのはやたらと凛々しい言葉使い。
そう、先程の台詞は彼女のものだ。
『どんな名だ?』
テオに問われ、蓮麗は紙とペンを取り出してサラサラと何かを書き込んだ。
テッドは傍に歩み寄り、彼女の手元をのぞき込む。
そこには異国の字で『礼香』と書かれ、その横に『リーシァン』と綴られていた。
(“礼香(リーシァン)”?――そうか、これがシアの名前なんだ)
『綺麗な名前だろう?』
得意げに言う蓮麗に、テオは複雑そうな顔を向ける。
『女性っぽくはないか?』
『何を言う。こんな綺麗な子供なのだぞ? 綺麗な名を付けて何が悪い?』
『・・・そうか』
テオはそれ以上の反論はしなかった。どうやら力関係は妻に軍配があるらしい。
テッドは将軍の知られざる一面を見た気がして、どうにも後ろめたかった。
だが蓮麗の言う通り、その赤ん坊はとても綺麗だ。
両親の愛情に包まれた、幸せな嬰児(みどりご)。
健やかに育て――とテオが囁いた。
場面が変わる。
すうすうと眠る礼香のそばには蓮麗と1人のメイドがいた。
二人の表情はどこか沈んでいる。
『奥様、坊ちゃんは・・・』
『ああ、おそらくこの子は私の能力を受け継いでいる』
痛ましく美貌を歪める蓮麗。
『それでは坊ちゃんも聞こえたり視てしまうのですね。人や生けるものの“声”、その“記憶”が・・・』
驚きに、テッドの眼が大きく開かれた。言葉の意味を、彼は正確に知る。
――“精神感応能力”!?
この世には、ごく稀にだが、見えないはずのものが見えたり、 聞こえないはずの声が聞こえたりする人間が生まれる事がある。
永い旅を経てきたテッドも不思議な能力を持つ者の話を聞くことがあった。実際に出会ったこともある。
しかし、まさかシアが、そして彼の母親がその能力を持つ者だとは。
人にはない能力を持つ者は先を読んだり占いをする事に長け、一様に恐れられる。その扱いは、恐怖の対象となって人知れず幽閉されるか、神の使いと敬われて重宝されるかのどちらかだ。
だがどうやら蓮麗は能力の存在を、傍にいるメイドにしか明かしていないらしい。
礼香の行く末を心配する二人。
どうやって能力を隠し通せるのか、途方に暮れたように考え込んでいる。
(この国では異質なものは認められないのか)
これだけ大きな国の、しかも地位のある家系の嫡男が、人には無い特殊な力を持つことは許されないのだろうか。
テオにも、家族にも言えずに隠し通さなければならないなんて・・・。
“シア”の孤独の一端が垣間見えた。
その後もテッドの周囲の様子は目まぐるしく変化し、目の前を幾つもの季節が通り過ぎていった。
家族の温かな愛情に包まれてすくすくと育っていく礼香の様子は、とても微笑ましい。触れられないと解っていても、思わず抱き締めたくなるほどだ。
周囲の慈愛に包まれた幸せな子供。
だが、特異な力は時が経つにつれ、幼い礼香にかなりの負担となっていくようだ。
哀しいことなど何も知らなくてもよい年齢でありながら、時折ひどく辛そうな表情をする礼香に、家人もまた心を痛める。
それでも母親と、能力のことを知る明蘭(ミンラン)というメイドの存在が救いとなった。
そうして過ぎ行く時の流れ。
まるで芝居でも見ているかのように、移り変わる季節とともに成長していく幼子を見守るテッド。
そして彼は、“その日”を目にした。
■■■■■
「ごめん、シア・・・」
朝目覚めて、開口一番にそう言って俯くテッドを、リーシアはきょとんと見つめた。
「俺、お前の過去を見た・・・」
「うん」
告げられた言葉にリーシアは嬉しそうに微笑んだ。
意外な反応に今度はテッドが目を丸くする。
「嫌・・・じゃないのか?」
自分が見てしまったものがどんな意味を持つのか。傍観者でしかないテッドにすら解っている。他人が触れて良いものではなかった。
なのに、問いにゆっくりと首を振るリーシアからは、怒りも哀しみも感じない。
「僕は嬉しい。テッドが・・・僕の声を聞いてくれたということだから・・・」
偽りのない嬉しさを浮かべる様子に、テッドはハッとなる。
(・・・そうか。お前は“そう”なんだよな・・・)
過去を、心の奥を他人に見られるなど、普通の人間ならば厭うところだ。
だが、心ならずも“視て”しまうリーシアにとって、それはむしろ救いとなる。
ずっと隠していた想い、哀しみをようやく誰かが知ってくれたのだと・・・。
(ソウルイーターの力が誰かの救いになるなんてな・・・)
複雑な気分だ。
テッドから多くのものを奪ってきた呪いが、役立つ日がくるとは。
しかも、それがテッドにとって何よりも大切になるであろう少年の心を癒すものだとは。
「僕も、ごめんねテッド」
「え?」
「“視て”しまったから・・・テッドのこと」
サッとテッドの顔色が変わる。
無意識に右手を隠そうとする彼を、リーシアは哀しそうに見つめた。
「僕は、大丈夫だよ。右手にあるものにどうかなったりしないよ?」
「何、言ってんだ・・・? これがどういうものか、本当に解ってるのか? そんなこと簡単に言うなよ・・・っ」
声が、身体が震えた。
知られてしまった恐怖に、解ったようなことを言うリーシアへの怒りに。
大丈夫だと。
紋章の呪いに負けたりしないと。
いったい何度その言葉を聞き、裏切られたと思っているんだ。
リーシアまでもがそんな無責任な台詞を吐くなんて・・・。
「だって、同じだから・・・」
「?」
「僕とその紋章。同じだから・・・だから、僕達は出会えた・・・」
「・・・あ」
思わず右手に視線を落とした。
300年間、何の異変もなかった闇の空間に初めて変化をもたらしたのは。
ソウルイーターが誰かの過去を覗くなどという、今までにない力を行使したのは。
――リーシアだからこそ。
これまでとは違うんだ。彼の存在は。
彼が抱える闇に、ソウルイーターは共鳴すらしている。
信じてみても、良いのかも知れない。
ためらいがちにリーシアを抱き締めると、おずおずとしがみついてくる細い手。
裏切られたくない、拒絶されたくないのは、自分だけではない。
「約束だぜ? こんな紋章にやられたりするなよ」
「うん」
「約束破ったりしたら、許さないからな?」
「破らないよ。テッドとの約束は――絶対に」
――“絶対”か。
その言葉がリーシアにとって深い意味を持つことを知っている。知らされた。彼の過去によって。
――“絶対”に言ってはいけませんよ
――“絶対”に声を出してはいけません
言葉の向こうに待つ現実は――幼いリーシアの心をズタズタに引き裂くものだった。
それを不安に慄くテッドのために、口に出してくれた勇気に感謝する。
「じゃあ、俺も約束する。俺はお前のそばにいると。だから、お前も・・・」
俺のそばにいてくれ。
「うん」
腕の中でリーシアが嬉しそうに微笑むのが解る。
たぶん、自分も同じような表情を浮かべていることだろう。
「いつか旅立つ時がきて、お前と別れても・・・お前のことは忘れない。“絶対”に」
淡くソウルイーターが光った。
しかしその波動は誰かの魂を狙うものではなく、どこか喜びを表しているかのようだ。
まるで、探していたものを見付けたとでも言いたげな、満足そうなもの。
(もしかすると、俺は“シア”に会うために生きてきたのかな)
朝日の中で笑うリーシアを見ると、それも良いと思える。
おそらく、彼の傍こそが、旅の終着点なのだと。
そんな予感を、覚えた――。