鬼姫は眠る 十一





戦を控え、日に日に慌しさを増す白河城の中に、不気味なほど静かな一角がある。
得体の知れない研究が行われるその場所に近づく者はなく、侵入者である藤堂平助は羅刹や綱道にさえ注意していれば城内を自由に歩き回ることができた。

(無用心だよなあ。お陰でうろうろできるけどさ)

何度も行き来するうちに、すっかり白河城に忍び込むのも慣れ、抜け道や逃走経路もいくつか割り出すことができた。

(あとは、戦が始まる前に千鶴を連れ出さないとな)

千鶴と再会してからというもの、平助は足繁く彼女のもとに通い、色々な話をした。
それもこれも、戦の前に千鶴をここから連れ出すためだ。

できれば南雲薫が合流してから行動を起こしたかったが、残念ながらその猶予はなくなった。
いつ白河城に来るかわからない鬼を待つより、自分達で何とかする他なさそうだ。
しかし今の千鶴にとって新選組は初対面の相手ばかり。見知らぬ男達に囲まれて怯えられてしまっては元も子もない。

山南にはすっかり懐いているし、平助とも徐々に打ち解けてくれたが、彼女を助けるには斎藤達の協力も必要だ。
だが斎藤や相馬は小さな子供の扱いに慣れているとは思えないし、土方に至っては顔を見た途端に泣き出す恐れもある。
少しでも千鶴の不安を軽くするために、平助は事前に彼らがどんな人物なのかを面白おかしく言い聞かせていた。多少の脚色があるのはご愛嬌だ。

「千鶴、起きてるか?」

周囲に気配が無いことを確認し、ある一室の前に立った平助は障子越しに声を掛け、返事を待たずに素早く中に滑り込んだ。
いつもの千鶴相手にはこんな無作法な訪問はしないが、今の彼女は五歳の子供なのだから構わないだろう。

だが、部屋の中に千鶴の姿は無かった。



「山南さん、千鶴来てない?」

部屋に入るなり前置きも無く切り出した平助に、山南は目を丸くした。

「いえ、どうしました?」

「部屋にいないんだよ。厠かと思って少し待ってたんだけど、戻って来なくて」

その言葉に、山南の表情が真剣さを帯びる。

「気になりますね、捜しに行きましょう」

言うが早いか、すぐさま部屋を出る山南の後を平助も続いた。

「行き先に心当たりあるの?」

「おそらく綱道さんが連れ出したのでしょうね」

それ以外に千鶴が外を出歩く理由はない。

綱道に先手を打たれてしまったようだ、と苦々しさを噛み締める。
今の彼女を綱道と二人きりにするのは拙い。

「藤堂君、気付いていますか。今の雪村君の危うさに」

「ああ。今の千鶴、全然笑わないよな。表情がないっていうか」

素直で優しい性格は今も昔も変わらないが、“今”とまったく違うのは、彼女の表情だ。
幼い子供なら目まぐるしく表情が変わるものなのに、千鶴にはほとんど変化がない。
山南といる時は安心してか僅かに和らぐものの、笑った顔はまだ一度も見ていなかった。

何より印象的なのが、彼女の目だった。
光が灯らぬ、どこか虚ろな目にはまるで絶望しか映っていないかのようだ。

その目を見る度に山南は、いつか近藤から聞いた、沖田総司の話を思い出す。
試衛館に引き取られた当初の沖田は、まだ小さいのに感情が薄く、子供らしからぬ昏い目をしていた、と。
近藤という存在を得て、彼を慕うことで感情を取り戻したように思える沖田だが、どこか歪なまま成長した。

今の千鶴は、どこかその頃の沖田を彷彿とさせる。
導き方を誤れば、取り返しのつかないことになりそうな危うさがあるのだ。

そして綱道は、間違いなく今の千鶴にとって害悪となる。

(早く見つけなければ)

脆く崩れそうな幼い心が、壊れる前に。



千鶴と綱道は大広間にいた。
やはり綱道が連れ出したのだろう。

平助を部屋の外で待たせ、山南は大広間に乗り込んだ。

「綱道さん、ここで何をしているのですか」

問いながら、微かに届く匂いに顔を顰める。――血の匂いだ。

「ああ山南君か。君も試してみるかね?」

びいどろで作られた透明な器具の中に揺れる赤い色に、血の気が引いた。
己の内から込み上げる衝動を必死に抑え、微動だにしない千鶴を引き寄せる。
着物の袖から覗く白い腕に赤い筋が見えた。すでに傷は塞がっているようだが、瓶の中の量から見てもかなりの出血があったはずだ。

「幼い子供相手に、よくもこのようなことができるものですね」

「その子は鬼姫だ。普通の人間の子供とは違うのだよ」

何を馬鹿な、と反論しかけた言葉は、腕の中の千鶴を見下ろした瞬間に消えた。

「雪村君?」

ぼんやりと、焦点の合わない金色の目が虚空を見つめている。
ぞく、と背筋を冷たいものが伝った。

「私を見て下さい、雪村君」

軽く頬を叩いて呼びかけるが、深淵の闇のような目は何も映さない。
桜色の唇から聞こえてくるのは、呼吸の音だけ。

壊された。
脳裏に浮かんだのは、その言葉だった。

「山南君、先日言ったことを考えてくれたかね? 強い羅刹である君と純血の鬼である千鶴との子ならば、西の鬼にも決して負けない優秀な子が生まれるだろう。その身が灰となって崩れる前に、千鶴を孕ませてみないかね」

「こんな時に何を言っているんです? いったい彼女に何をしたのですか!」

「そろそろ変若水が身体に馴染んだ頃だというだけだよ。困った子だ。いつまでも鬼姫である自分を受け入れようとしないのだから」

「ふざけんな!!」

怒声と共に平助が飛び込んでくる。
綱道のあまりに勝手な言い分に、我慢できなくなったようだ。

「ああ、藤堂君か。城の中を嗅ぎ回っていたようだが、やっと出て来たんだね」

「綱道さん、あんた、自分の娘に何でこんなことができるんだよ!」

「純血の鬼の力は素晴らしい。君達も千鶴が鬼だと知って、その血を利用しようと考えただろう?」

「そんなこと考えるわけねえだろ!!」

「君はそうだろうね。しかし山南君には覚えがあるのではないかね」

「だとしても、彼女に変若水を飲ませて、その血で羅刹を量産しようなどという外道な行いに手を染めようとは考えませんよ。あまつさえ、彼女が望まぬ行為を強要するなど、畜生にも劣りますね」

千鶴の血に興味を抱いたのは事実だ。それを否定する気はない。
しかしそこには仲間の羅刹隊士達を助けたいという強い思いがあり、それを恥じてはいない。
だが綱道は、より強い羅刹を作り出すために千鶴の血を利用し、ついに“薬”まで使った。
その上、“女”としての尊厳まで踏み躙ろうとするとは。

だが綱道は平助の怒りも山南の苦言も、まるで取るに足らないものだと言いたげに鼻で哂った。

「残念だよ。君は私が思っていたよりも偽善的な人間だったようだ。

懐を探り、何かを取り出した綱道の手に握られていたのは、手術に使う小刀だ。
山南と平助は背後に千鶴を隠すように刀を構える。

だが、振り被った綱道の小刀はこちらには向かわず、彼自身の腕を切り裂いた。
途端、濃い血の匂いが広間に満ちてゆく。

「っ、しまった!」

綱道の狙いを察した山南が慌てて振り返るのと、千鶴が苦しそうに呻いて崩れ落ちるのは同時だった。
艶やかな黒髪が、見る間に白銀へと色を変える。

「どうだね千鶴、血が飲みたいだろう? 家族を殺した人間共の血を、一滴残らず吸い尽くしてやりたいだろう?」

「うぅ・・・っ」

ぽたぽたと畳に染み込む血がじわりと広がる。
山南や平助にとっても辛い匂いが、おそらく千鶴が初めて感じているであろう吸血の衝動を一層煽っていた。

「ど、どうすりゃいいんだ?」

「どうと言われましてもね、まさか私や君の血を与えるわけにはいかないでしょう」

人の血を飲めば吸血の衝動は治まるとはいえ、すでに羅刹と化した者の血では意味が無い。むしろ余計に悪化する危険がある。

「いっそ一思いに楽にしてあげた方が良いのかも知れません」

「なっ、千鶴を斬れるわけねえだろ!」

「君は相変わらず甘いですね。まあ、私も人のことを言えませんが・・・」

自分で言っておきながら、実行に移す気は毛頭ない。彼女を傷つけるくらいなら、そこら辺の人間を捕まえてその血を飲ませる方を選ぶ。
いつの間にか、こんなにも千鶴に情を移してしまっていることを実感し、山南は自嘲する。自分も随分と彼女に甘くなったようだ。

とにかく、今は千鶴をここから出さなければならない。

「藤堂君、雪村君をつれてこの城を出なさい」

「逃がすと思うかね?」

その言葉を合図に襖が開け放たれ、大勢の羅刹達が雪崩れ込む。

「山南さん」

「行きなさい!」

「わ、わかった」

平助は千鶴を抱きかかえるようにして走り出した。
二人が去ると、羅刹に囲まれた大広間の中に山南だけが残される。

「たった一人で私の羅刹を相手に勝てると思うのかね?」

「一人ではありませんよ」

不敵に笑み、高らかに言った。

「さあ、御用改めの時です。ここにいる羅刹達を討ち取りなさい!」

それに応えるように羅刹達の間で悲鳴が上がり、次々に倒れた。
羅刹が羅刹に斬り掛かったのだ。
突然の事態に羅刹達は混乱し、互いに剣を向け合う同士討ちが始まった。

「こ、これはどういうことだ!?」

「お忘れですか、綱道さん。この城の羅刹の中には、新選組の羅刹もいるのですよ」

そして新選組の羅刹隊士は、山南の命令に忠実なのだ。





「千鶴、あとちょっとの辛抱だからな」

建物の外に出ると、千鶴の髪の色が黒に戻っていた。血臭から離れたことで発作が和らいだのだろう。
しかし瞳は依然金色のままで、彼女が必死に衝動と戦っていることを窺わせる。

「大丈夫だ、すぐに兄ちゃんにも会えるから」

「に・・・さま・・・?」

ようやく反応してくれたことに、ほっとする。

「ああ、南雲薫って、お前の兄さんなんだよな? 天霧が言うにはこっちに向かってるみたいだし、もうすぐ再会できるよ」

この日、白河城から千鶴を連れ出すことは斎藤達に伝えてある。
城壁の向こうでは、きっと彼らが待っているはずだ。
新選組で千鶴を保護したら、あとは南雲薫の合流を待てばいい。そうすればきっと千鶴の記憶も戻る。

(けど、千鶴は羅刹になっちまってるんだよな)

鬼達は、彼女を今までのように受け入れてくれるのだろうか。
天霧はその辺りのことを何も言わなかったが、彼らが羅刹を“紛い物”と呼んで忌み嫌っていたのを思い出すと、不安になる。

千鶴に手を貸しながら何とか城壁を登って越えると、二人を追って次々に羅刹達がこちらに走ってくるのが見えた。

「くそ、追いつかれたか」

千鶴を抱えて走りながら、後ろから迫る剣撃を片手に持った刀で弾く。
本来、平助の持ち味は俊敏さだ。しかし千鶴を抱きかかえたままでは、思うように動けない。
力勝負となると、普通の人間ならまだしも羅刹が相手では不利。

(やべえ、羅刹もどんどん増えてるし、このままじゃ・・・っ)

千鶴に血の匂いを感じさせるわけにはいかないし、ここは気絶させておくべきだろうか。
そんな逡巡に気を取られた隙を狙い、羅刹の攻撃が怒涛のように降り掛かる。
多少の衝撃は仕方ないと覚悟を決めた瞬間、悲鳴を上げて倒れたのは羅刹の方だった。

吹き上がる血飛沫を千鶴に見せないように、匂いを届けないように、咄嗟に自分の身体で隠しながら、後ろを見やって叫ぶ。

「一君、助かったぜ!」

斎藤一はちら、と平助達を横目で見やり、二人を背に羅刹達の前に立ちはだかった。


「藤堂さん、こっちです!」

雑木林の方から聞き慣れた声が聞こえた。
平助の胸を安堵と喜びが駆け抜ける。
これで千鶴を守れる。そう確信できる声だ。

「相馬、野村、千鶴を頼んだ!」

「わかりました!」

相馬の腕に千鶴を押しやると、平助は踵を返して駆け出した。
たった一人で羅刹を相手取る斎藤に、加勢するために。

(一人たりとも羅刹をあいつらのもとには行かせねえ!)

剣の腕は自分達に遠く及ばないが、信頼できる後輩達に千鶴を預けたことで、こちらは思う存分戦える。
あとは敵を彼らに近づけなければ良いだけだ。


平助から千鶴を託された相馬と野村は、新選組本陣に向かって走った。
戦いは斎藤達に任せればいい。自分達の役目は、千鶴を守ることだ。

(それにしても、南雲さん達はどこに?)

山南や平助からは、今日千鶴を城の外に連れ出すという報告以外なかった。
ならばこの千鶴には、まだ記憶が戻っていないのだろうか。

「雪村先輩、俺がわかりますか?」

「こばこ・・・」

「え?」

「おじちゃんのこばこ、とじこめて、どこかにうめなきゃ・・・」

「どういう意味だ?」

訊かれても、相馬にもわけがわからず首を傾げるしかない。

千鶴はしきりに後ろを振り返り、戻りたがる素振りを見せる。
だがここで戻っては作戦が台無しだ。心苦しいが、相馬と野村は弱々しい抵抗を無視して先を急いだ。


不意に、風に混じって血の匂いがした。

「忌々しい人間共だ」

聞き慣れない声に、思わず二人の足が止まる。
腕の中で、千鶴が身を強張らせるのを感じながら、相馬は油断なく周囲を見渡した。
木陰からゆっくりと現れたのは、剃髪の男だった。

見たことのない男。だが、ぞっとするほど冷たい目に、警戒心が芽生える。

「“鬼姫”」

びくっと千鶴の肩が大きく跳ねた。

「そこの人間共を喰らってしまいなさい」

「はあ? いきなり出てきて何言ってんだ?」

男が何を言っているのかよく解らないが、何とも薄気味の悪い発言だ。
早くこの場を離れた方が良さそうだと判断した相馬は千鶴を促そうとして、彼女が苦しげに荒い息をしているのに気付く。

「先輩、大丈夫ですか?」

「うぅ・・・くっ」

ほとんど抱きかかえられていたとはいえ、城から連れ出すのに無理をさせ過ぎたのだろうか。
そんな疑問を抱いた時、二人の目の前でそれは起きた。

黒から白銀へと染まる髪。耳の先が尖り、額には二本の角が現れる。
今まで見てきた羅刹達とは、似て非なる変化を遂げる千鶴の姿。

“鬼”。
そう呼ぶに相応しい異形の姿は、羅刹のような禍々しさよりも、畏怖すら覚える神々しさを纏っていた。

「先、輩・・・?」

「本当にこれが、雪村先輩なのかよ・・・」

絶句する二人を余所に、男は狂ったような笑い声を上げる。

「そうだ、それでいい! さあ鬼姫、人間を殺してしまいなさい!」

「いや・・・っ、にいさま、たすけて!」

悲痛な悲鳴が響いた直後、凛とした声がその場を切り裂いた。


「千鶴!!」


千鶴の周囲で風が舞ったと思えば、そこには彼女を抱きしめる一人の少年がいた。

「南雲、薫さん?」

茫然と呟いた相馬の声を拾った千鶴は、目を丸くして薫を見つめた。

「にいさま・・・?」

「ああ、そうだよ」

顔立ちも、纏う空気も、確かに兄だ。けれど――。

「どうして、おおきくなってるの? それに、なぐもって・・・?」

「お前も大きくなったじゃないか。お前も俺も、もう五歳の子供じゃないってことだよ。姓が違うのは、まあ色々あってな」

言っている意味はよく解らなかったが、自分の身体がいつの間にか大きくなった現実はもう受け入れている。
兄の面影を抱きつつも兄よりも大きなこの少年のことも、すんなりと“薫”なのだと納得した。
だから幼い千鶴は、いつものように薫に縋り付く。

「くるしいの、にいさま・・・。からだが、いたいよ・・・」

「千鶴・・・」

「ちづる、おじちゃんがいったように、“おにひめ”になって、ひとをころすの・・・?」

「そんなものにはならないって、何度も言っただろう? 思い出せよ、俺達が離れ離れになっていた十年以上の間、お前は誰も傷つけたりしなかった。あの男を父と慕い、その手伝いをしてきたんだろう」

幼い千鶴に言い聞かせながら、中に戻っているはずの“千鶴”にも呼び掛ける。

白河城を視界に捕らえた時から、すでに薫の中に千鶴の気配はない。
それと同時に自分の身体は軽くなり、胸に圧し掛かるような重さも消えていた。
なのに、彼女の記憶がまだ幼いままなのは何故なのか。


「薫君、何故邪魔をするのかね?」

先程とは一変した声音に相馬達が男を見ると、冷酷だった表情が思慮深げものに変わっていた。
一瞬、別人かと戸惑うほどの変わり様だ。

「千鶴は“鬼姫”として雪村家を再興しなければならない。それは君も望んでいることだろう?」

「家を再興することと、千鶴を羅刹にすることに何の関係があるんだ、綱道おじさん」

“綱道”。その名前に、相馬も野村もようやく男の正体がわかった。
この男は千鶴の育ての親であり、新選組に変若水を持ち込んだという“雪村綱道”なのだ。

「千鶴は新たな鬼の盟主となる。西の鬼にも負けない、強い羅刹達こそ新たな時代の鬼なんだよ」

「くだらぬ妄想だな」

静かでありながら、他を圧倒する覇気を感じさせる声が降り落ちてきた。
気配もなく現れたのは、風間千景だ。

「誇り高き鬼の一族、雪村の名を穢す愚か者が。貴様のような下種を生かしておくのは鬼の恥だ」

風間の姿に一瞬怯んだ綱道だが、すぐに怒りを露にした。

「何が誇り高き一族だ。奥方様を道連れに人間などに殺されてやるなど、鬼の恥は雪村家当主の方ではないか!」

「何だと!」

父への暴言に、薫は激昂した。
しかし、その時の綱道の表情に、刀を抜くのを躊躇ってしまう。
どうしてそんな、傷ついたような、必死な目でこちらを見つめているのだろう。

「私は逃がそうとしたんだよ、お前達の母を。なのに当主は、お館様は座して死を待つという愚かな選択をしたのだ。奥方様は、あんな所で無意味に死んでいい方ではなかったというのに!」

血を吐くような叫びが響き渡る。そこには、彼自身の抑えきれない剥き出しの感情が宿っていた。

「・・・成る程な」

ぽつりと風間は呟いた。
ようやく、綱道の抱えていたものが少し見えてきた気がする。

「私はもう間違えない。雪村家を再興し、千鶴、お前を新たな鬼、羅刹達の盟主にする。お前の母のように、人間共に殺させたりはしないよ?」

狂気を含んだ目が千鶴を凝視する。
千鶴と、千鶴を通して自分達の母を見ているのだ。

何かを言わなければいけないのに、薫は言葉が見つからなかった。
ふざけるな、とか、父と母の覚悟を貶めるな、とか、言いたいことはたくさんあるはずなのに。
心のどこかで綱道の気持ちが理解できてしまい、彼を否定することができなかった。

「結局あんたは先輩の気持ちなど考えてないじゃないか!」

反論できない薫に代わり、声を上げたのは相馬だった。

「大事な人を死なせたくないという気持ちは解る。殺した者に復讐したいと思うのも当然だ。だがあんたのやったことは、独り善がりの押し付けだ! 雪村先輩は羅刹になんてなりたくなかったはずなのに!」

「黙れ! 人間如きに何が解る!」

どこまでも真っ直ぐな糾弾に、綱道は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

「ただ穏やかに暮らしていきたかった雪村一族の里を、理不尽に踏み荒らしたのはお前達人間だ! この世は所詮、強い者、勝った者しか生き残ることはできない! ならば人間をすべて根絶やしにできる強い鬼の国を作らねば、我々は生き残ることはできんのだ!」

強くなければ生きられない。
薫もそう思っていたから、初めて鬼の姿に変じた時は歓喜を覚えたのだ。
これで人間を殺せる。そう思ったから。

「そうだろう、薫君? 君だって人間を憎んでいるのだろう?」

「ああ、その通りだよ、綱道おじさん」

「南雲さん!」

「だけどね」

ぎゅっと、自分の服を掴む手に己のそれを重ねる。

「人間よりも、鬼よりも、俺はあんたが一番憎い。お前なんかに、千鶴を利用させるものか!」

憎しみに捕らわれていた薫に、千鶴が教えてくれたのだ。
己に備わる鬼の力は人間を殺すためのものではなく、大切なものを守るための力だと。

薫にとって何より大事なのは千鶴だ。彼女だけが生きる理由だった。
南雲家での辛い日々も、妹や両親との幸せだった記憶があったから耐えられた。
そんな千鶴を傷つける存在は、人でも鬼でもなく、目の前の男だけ。

すぅ、と綱道の顔から一切の感情が消えた。

「結局お前達は、あの当主の子供でしかないのだね」

奥方の面影を色濃く受け継ぎながら、性質は彼女を共に死なせた憎い男と同じ。
ならばもう、この兄妹は慕う女
(ひと)の子供ではなく、憎んでも憎みきれない男の子供だ。

綱道は気付いていなかった。
彼の愛した女は、当主の妻として最後までその隣に在り続けることを、自ら選んだという事実を。
そしてそんな父と母の遺志を受け継いだ薫と千鶴は、真に雪村家当主であると。

(それすらも解らぬほど目が曇ったか)

これ以上雪村の末端として落ちぶれた姿を当主兄妹に見せるのは忍びない。
風間はすらりと腰の刀を抜いた。

「せめて苦しませずに死なせてやろう」

「くっ!」

咄嗟に避けようとするも、鋭い一閃は確実に綱道を捕らえていた。
例え急所は外れたとしても、間違いなく致命傷を与える威力を持つ。――そのはずだった。

地面を覆い尽くす青々とした草の上に、赤黒い色が飛び散る。
たたらを踏む綱道の胸は、夥しい血で真っ赤に染まった。

だが、血が流れたのはほんの僅かな時で、その後はぴたりと止まった。
次いで目の当たりにした変化に、相馬や野村はもちろん薫も風間も目を瞠った。

「貴様、自らも紛い物と成り果てたか」

金色に光る目。額に浮かぶ角。
人間と変わらぬほど鬼の血が薄くなった綱道に、起きるはずのない変化。

「ふ、くく、くくく、素晴らしい・・・。こんなにも早く傷が治るとは。さすがは純血の鬼の血を加えた変若水だ」

その言葉で千鶴がどんな扱いをされたのかを察し、誰もが怒りを滾らせた。

千鶴は薫の腕の中で、むせるような血の匂いに耐えていた。

だいじょうぶ、にいさまがそばにいるんだもの。
ちづるは“おにひめ”になんかならない。

そんな彼女の心の声が聞こえたかのように、綱道が手の平に見覚えのあるものを載せる。

年月を感じさせる、古びた小箱。
一見、何の変哲も無い小さな箱でしかない“それ”は、からくり箱と呼ばれるものだ。

「それは!」

顔色を変えた薫が、綱道の手からそれを奪い取るために駆け出そうとしたその瞬間、小箱はバラバラに粉砕された。

「どうかね? これでもう“鬼姫は眠らない”! さあ千鶴、邪魔な者はすべて殺してしまいなさい!」

「貴様!」

早く殺してしまうべきだった。深い後悔が押し寄せる。
千鶴が綱道と話をしたがってたからと、彼女の記憶を戻す方を優先しようとした結果がこれだ。

振り返ると、千鶴は壊れた小箱の残骸を茫然と見つめていた。

何かが、壊れる音がした。



じわじわと、地面から湧き出してくる黒いものが、足元からゆっくりと千鶴を飲み込もうとしている。
気が付けば、千鶴は薫の声すら届かぬ闇の中に居た。
最後に目にしたのは、粉々になった残骸。

(こばこ、こわれちゃった・・・)

中にはとても怖いものを閉じ込めていたのに。
綱道がそれを持っていることは知っていたから、何度も蓋を閉じて埋めて欲しいと言い続けていたのに、ついに願いを聞き届けてはくれなかった。

(わたし、こわいおにになっちゃう)

『ならないよ』

ふと、暗闇の中に淡く人影が浮かび上がった。その人は、よく知る顔に見えた。

(母さま?)

『違うよ。私はあなたなの。ようやく話ができたね』

母に、兄によく似た顔立ちの女性が、優しく微笑んでいた。


千鶴は、小さな自分と視線を合わせるように膝を着いた。

魂魄が身体に戻った後、千鶴はすべてをこの“幼い千鶴”と共に視ていた。
何度も呼びかけたのだが、小さく縮こまった“幼い千鶴”には千鶴の声が届かなかったのだ。

何か切欠が必要だった。けれどそれが何かわからなかった。
だが、小箱が壊れたことで“幼い千鶴”を取り囲んでいた“壁”がなくなり、こうして声が届くようになった。

『あの小箱は壊れかけた心を守っていた“結界”だった。でももう、それは必要ないの』

(でも、こばこがないと“おにひめ”になっちゃうよ)

『ならないよ。私は大丈夫だから』

五歳で時を止めた“千鶴”。
この記憶がずっと封じられていたから、千鶴は普通の町娘として暮らしてこれた。
でももう、小箱の中に閉じこもる必要はない。

思い出して、と“幼い千鶴”を抱きしめる。
“鬼姫”に怯えなくていい。私はそんなものに負けないから。

鬼の姿に怯える私を抱きしめて、“お前は鬼姫なんかにならない”って言ってくれた人がいたこと。
他の人とは違う体質に悩む私の手を取って、“あなたは普通の女の子です”と慰めてくれた人がいたこと。
新選組の人達と出会って、鬼の一族と触れ合って、私だって強くなったんだから。

『だからもう、私の中に戻っていいんだよ』

腕の中で固く強張っていた小さな身体から、ふっと力が抜ける。

(もういいの?)

『うん。ずっと、辛かったね』

でも、もう平気。今の私は、すべて受け入れることができるから。

薫兄様が、八郎お兄さんが何度も言ってくれた。
“私は私”だって、そう教えてくれたから。

幼い少女は安心したように笑い、千鶴の背中に小さな腕を回した。
二つの同じ魂が、一つに溶け合ってゆく。

千鶴の中で欠けていた記憶が、流れ込んできた。



「千鶴、しっかりしろ、千鶴!」

ふと目を開けると、大好きな人の泣きそうな顔が間近にあった。

「薫兄様・・・」

呼びかけると、薫はほっとしたように息を吐き、千鶴をきつく抱きしめた。
その手は小刻みに震えていて、相当の恐怖を感じさせてしまったらしい。

「何をしているのかね“鬼姫”。お前は羅刹の国の盟主にならなければならない。そのために・・・」

「いいえ、父様。私は、“鬼姫”にはなりません」

凛とした声に、誰もがはっとした。

「雪村先輩、正気に戻ったんですね!?」

今にも崩れてしまいそうな弱々しさがなくなり、相馬達のよく知る、控えめな中にも芯の強さを感じさせる千鶴の姿がそこにあった。

「千鶴、全部思い出したのか?」

問いに頷き、離魂していた間のこともちゃんと憶えていると伝えるために、もう一度「兄様」と笑いかける。
しかし薫が何か言うよりも先に、綱道が二人の会話を遮った。

「そうか、“鬼姫”にはならないのか。だが“羅刹”にはなった。そうだろう?」

にやりと哂われ、千鶴は顔を顰める。
綱道の言う通り、むせ返るような血の匂いが変若水に侵された身に苦痛を運ぶ。
身体中が血を求めて暴れ狂っているようだ。
羅刹達は皆、こんな苦痛を味わっているのか。

「そこにいる人間を殺し、その血を啜らなければ、苦痛から逃れることはできないよ」

「他の羅刹達もそうなの? 彼らを人間に戻す方法はないのですか?」

「一度羅刹になってしまうと、元に戻る方法などない。力を使い果たせば灰になるだけだ。けれど鬼の身体で試したことは無いからね。お前の場合は何とも言えないよ」

「・・・そうですか。それでも父様は、人を羅刹に変えることを止めてくれないのね」

「止める? 私は新たな羅刹を作り、雪村家を再興するために今まで生きていたのだよ? 何故その気持ちをわかってくれないのだ!」

「もう話すことはないな?」

風間の問いに、千鶴は静かに頷いた。
綱道にはこちらの言葉など届かない。

「ではこの場から離れていろ」

「いいえ、ここで見届けます。私は、雪村家頭領の娘ですから」

ぎゅっと、縋るように薫の手を強く握ると、薫もその手を握り返してくれた。

風間はそれ以上は何も言わず、片手で刀を構える。
殺気を感じた綱道は、両手に何本もの小刀を構えて風間に襲いかかろうとするが、一撃も見舞うことなく風間の刀によって心臓を貫かれていた。

「・・・っ」

一層濃くなる血の匂いに当てられ、千鶴は立っていられなくなった。
地面に爪を立て、必死に苦痛に耐える。
血が欲しい、と全身が叫びを上げていた。

「雪村先輩!」

「近づくな!」

慌てて駆け寄る相馬と野村を、薫が厳しい声で制する。

「しかし、このままでは・・・」

言い募ろうとする相馬を無視し、薫は大通連を途中まで抜いて指に傷をつけた。

「千鶴、俺の血を飲め」

言うなり、血の付いた指を千鶴の口に含ませる。
すると白銀だった髪は黒に戻り、耳も額も元通りの状態へと戻った。
ようやく苦痛から開放され、深く息を吐く千鶴の乱れた髪をそっと撫でながら、薫は優しく囁く。

「“鬼姫はもういない”。お前はお前だ、千鶴」

「うん、ありがとう・・・兄さま・・・」

千鶴の中で、“幼い千鶴”がようやく笑顔を取り戻した。



「こっちも終わったみたいだな」

出し抜けに背後から聞こえた声に、相馬と野村は思わず仰け反った。
そこに立っていたのは、不知火と天霧だ。――まるで気配を感じなかった。

「白河城の羅刹はすべて片付けました」

「新選組の連中も無事だぜ」

「良かった・・・」

ぐら、と千鶴の身体が傾ぎ、薫の腕の中に倒れ込む。

「先輩、大丈夫っすか?」

「ちょっと、疲れただけ・・・」

「ずっと魂と身体が離れていたからな。疲れやすくなるのは当たり前だ」

変若水の影響もあるだろうから尚更。

「眠っていいよ、千鶴」

囁くと、安心したように千鶴は「うん」と微笑んだ。
そして気だるげに薫に凭れながらも、懸命に顔を動かして相馬と野村に視線を向ける。

「助けてくれて、ありがとう・・・。山南さんや、平助君や、斎藤さんにも、お礼を伝えてね・・・」

「はい、わかりました」

相馬達が頷いてくれたのを見届けた直後、ふっと千鶴の意識は途切れた。


「じゃあ、俺達はもう行くから」

意識を失った千鶴を抱き上げ、薫は相馬達にそう告げた。

「雪村先輩をどこにつれて行くんですか?」

「戦のない場所に連れて行って、変若水の毒を抜く。何年掛かるかはわからないけどな」

「そう・・・ですか」

相馬がぎこちなく笑った。寂しげな、けれど嬉しそうな複雑な笑みだ。

自分達の戦いは終わったが、新選組はこれから更に激しい戦渦の中に身を投じていく。
彼らも、これからの戦いで命を落とすかも知れない。
これが最後の別れかも知れないのだ。

幕軍はもうすぐ負けるんだから、さっさと戦いから降りてしまえ。
そう言ってやりたかったが、薫はその言葉をぐっと飲み込んだ。

「・・・戦が終わったら・・・会いに来ればいいよ」

それだけが、薫が新選組に言ってやれる言葉だった。



その後、旧幕府軍は白河城奪還が敵わず、白河口から撤退する。
戦渦は間もなく会津全体を飲み込み、やがて北の大地へと広がっていった。










■■■■■










そよそよと、心地良い風が頬を撫でた。
遠くで鳴く鳥の声が、可憐な旋律を奏でている。

気持ちいいな。
知らず知らず、口元に微笑が浮かぶ。

「寝ぼすけだな、お前は」

呆れ混じりの声が、すぐ近くで聞こえた。けれどその声に棘はない。
つんつんと頬を突付く指も、無理に起こそうとはしていなかった。

「いい加減起きろよ。お前が起きるのを待ってる奴らがたくさんいるんだぞ」

そう言われて、頭のどこかで“起きなきゃ”と覚醒しようとする自分がいるけれど。
もう少し、この声のそばでまどろんでいたいと思う自分もいた。

だって、この声のそばにいるのはとても安心できるから。

「お前もいるんだろ? 会いたい奴が」

会いたい人?

そう思った時、頭の中に過ぎゆく面影が見えた。

ああ、そうだ、私には会いたい人がいる。
もう一度会って、色んな話をしたい人が――。

「お前の恋を、兄さんは応援してやるよ。だから、そいつのためにも早く起きろよ、千鶴」

うん、そうだね兄様。彼のためにも、早く起きなきゃ。



忘れるはずもない、あの人の顔。

私が会いたくてたまらないのは―――。



〈了〉

17.6.11up

本編完結です。
ゲームでも双子が幸せになるルートが欲しかった・・・。
この先、EDが分岐します。
お相手は伊庭さん相馬君風間さんのお三方。



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